ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人間は心の闇を抱えているから人間なのだ、と思う

2008-06-05 03:17:39 | 哲学
○人間は心の闇を抱えているから人間なのだ、と思う

今日は、人間社会における普遍性について言及するつもりだ。(あくまでそのつもりだ、ということで、そこまで触れ得ないのであれば、陳謝しておこう、と思う) 文学における大きな深い意義があるとするなら、それは、日常という生活次元では人は他者には隠して見せないが、人としての抜きがたい要素としての、心の暗黒の描写にこそ、それが見えるだろう、と思う。人の心の暗黒といっても、たとえば、小説作品の数だけ、心の闇は存在するのであって、読者がぼんやりしていると、それらの闇は作品ごとの素材の扱いによって、まるで別々の物を提示させられているかのように感じるだろう。これは読書の方法論としては、まずい、とまでは言わないが、初歩的な作品読解の方法論なのである。作品世界は言うまでもなく、作者の、想像力の凝縮された、手の込んだ生のひな型のそれぞれなのであるが、だからこそ作品ごとにその中で扱われている世界像は異なって当然である。しかし、賢い読者は、異なった作者の、異なった作品の中から人の心の闇という点においては通底した要素を、一つのまとまりある存在として、受容する。たぶん読書に於ける、これが最も高度な読み方であろう、と思う。

さて、小説世界から少し離れて物を見ようではないか! 人間は心の奥底に暗い闇を抱え持っている、と書いた。事実だ、と思う。しかし、その一方で、人の生きかたが、それぞれまるで違ったように枝分かれしていくのは一体どうしたことだろうか? 僕の発想では、生きる前提として、人は己れの心の闇を凝視するだけの精神の強靱さを持つべきだろう、と思う。そうしてこそ、勿論、人は己れの心の闇の存在故に、苦悩させられもするが、その苦悩を受容し、苦悩を克服するプロセスで、自己実現を果していけるものではなかろうか? 心の闇から目を背けて生きていくような人たちに悩みがないか? と言われれば、答はノーである。いくら自分の心に巣くう暗黒を避けて通ったつもりであっても、日常生活の次元の悩みは尽きないのである。だから、こういう人々はぐたぐたと不満を言い募りながら、生の終焉を迎えることになる。生の真実に触れ得なかったという意味においては、まことに不幸な生の末路だ、と結論づけざるを得ないだろう。

人間の心の底に潜む闇を凝視しようとする人たちは、己れの最も痛い部分をさらけ出して憚らない人々故に、自分が生きる世界そのものに対して、心は開いているのではないか、と思われる。そうであれば、自己の世界像は、生きている限りにおいて拡張していかざるを得ないのである。それは何も宇宙におけるビック・バンにのみ当てはまるものではない。人の心こそ、日々拡大している存在なのである。このことに気づけば、人生は自ずとVivid (生き生きとして)であり、かつmysterious(神秘的な) な存在となる。これこそが、「生きている!」という実感なのではなかろうか。

人間のありのままの姿を凝視出来ない輩に限って、人生を鳥瞰的になぞりたがるものなのである。しかし、考えても見よう。鳥は空を自由に飛んでいるかに見えるが、彼らは飛びつづけているわけにもいかないので、鳥の視点は常に地上の、翼を休める場所を探しているのである。そのとき、鳥の視野は極端に狭隘になっているはずである。何せ、目的は一つなのだから。それに対して、心の闇を凝視出来る人々の、生に対する構えは、虫瞰的と呼べるものではなかろうか。虫は絶えず地上を這いずりまわっているではないか。彼らに見えるのは、空だ。限りなき広々とした空そのものである。虫は空に向かって開かれている。彼らの存在は世界に対して開かれたものなのだ。人が自己の姿を凝視する姿勢というのは、まさに虫瞰図と同じ価値意識で、世界に広がっている。開かれているのである。これこそが、人の生きる作法( ~の作法という本でまともなものは、姜尚中著の「愛国の作法」一つではなかろうか?) と言えなくもない。今日の観想である。

○推薦図書「路傍」 東山彰良著。集英社刊。この書は、「人生はタクシーに乗っているようなもので、ぜんぜん進まなくたって金だけはかかる。ただじっとすわっているだけで、一分一秒ごとにメーターはどんどん跳ね上がっていく・・・・・」という内実が示すように、金にたとえて生のあり方の大切な側面を捉えているかのようです。読んでいて飽きない書です。ぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃