○生活言語から思想としての言語と普遍化へ
人間にとって自分なりの思想を編み出すことは、生きる上において不可欠な要素である。思想とは、日常の雑多な事柄から、普遍的な言動や考えに通じる要素をすくい上げることから始めなければならない。その意味において思想とは、決して生活から遊離したものであってはならないし、またもし、そのようにして生み出された思想? とは、大体において机上の空論に過ぎないからである。誤解を恐れずに言えば、思想とは生活の言語化と言っても過言ではない。とは言え、単なる生活の言語化という側面だけで成り立っているような発想は、あくまで世間知の域を出ることがない。世間知とは、日常性を乗り越えるには確かに便利な言葉ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。もっと言ってしまえば、物の役にはたたない代物ということになる。
僕たちは日常生活の中を生きていかざるを得ない存在ゆえに、日常性を無視することなど出来はしないし、また無視したかに見える思索の跡にいったいどれほどの普遍性があり、それがどれほど読む人の生きる指標になると言うのだろう? 答えはあくまでノーである。もう絶版になっているはずだが、原口統三の「二十歳のエチュード」という薄っぺらな文庫本は、僕の高校生時代の、漂白されたごとく純粋な思索の跡が、まるでフランスの詩人ランボーの詩集のような勢いで、僕の裡を支配し続けた。原口は20歳まえに自殺を遂げるが、僕は冗談では済まされないほどに、20歳を超えて生きることの罪悪感を抱いていた、と思う。たぶん僕が18歳の頃、学生運動のセクトを死を覚悟で抜けたことと、僕が原口から影響された純白な思想性とは無縁ではなかっただろう、と思う。当時の僕は、極左暴力集団の論理に愛想を尽かしつつ、片や、小田実の生命感溢れる市民運動のエネルギーに敗北し、さらに、原口統三のたった一冊の思索集の、純粋無垢なる生活感とは程遠い漂白された思想の純化にも敗北していたのであった。思想という意味合いにおいては、僕は当時八方塞がりだったのである。死ぬことも出来ず、生きていて、生の充溢感も感じないという最悪の事態の中でもがいていたのである。
さて、ここで誤解をぜひとも解いておかねばならないことがある。それは思想とは決して日常性を否定しないが、日常性そのものではない、ということである。思想が世間知でない、と僕が言い切ったのはそういう意味である。日常生活の中で、自分の思想を構築していくとするなら、幾多の哲学や文学作品の意味を蔑ろにしてはならない。たとえばある文学作品を、それ自体として読み切りのマンガのように作品世界に浸るだけでは、文学作品に内在する思想を汲みとって、自分の思想と付き合わせ、新たに自己の思想の編みなおしをしてさらなる高みへと飛翔することなど、殆ど不可能である。
普遍性を内包する思想と世間知とを混同する人々が少なからずいることは哀しい現実である。そして世間知は、底は浅いし、到底他者に対する生きかたに決定的な影響など与えることなど出来はしない。が、その一方でお気軽さゆえに、日常生活に躓いた人々にとっては消毒液ほどの効用はあるもの、と思われる。とは言え、消毒液は消毒液なりの効き目しかない訳で、負った心の傷の癒しの、単なる入口に過ぎないことも見逃してはならない事実である。案外に日常生活者の中には、この位置に停まっている人々の方が多いような気がする。だからこそ、心に傷を負っても、消毒液の知恵しか授からないわけで、何度も同じ傷の手当ての仕方しか出来ないのである。人が心に決定的なダメージを受けてしまうことなどない、と考える方がどうかしているのである。人は必然的とも言えるほどに、心に傷を受ける。しかし、その人に深い思索の経験と他者からの深い思索の影響から、自分なりの思想の編みなおしが常になされつつある(そう、これはいつも現在進行形なのだ。生あるかぎり)場合は、心に受けた傷は、傷口が化膿などすることなく、傷の治りと伴に、新たな思想の地平が見えてくるものなのである。繰り返して言うが、思想とはあくまで日常性から乖離したものではダメである。日常性にしっかりとその思索の根拠を置き、その上でさらなる思索の深化を遂げるための、他者からの深い思想をくみ取り、現状の自己の思想の編みなおしを絶えることなく行い続けることである。たぶん、生きていることの醍醐味の大いなる要素であるに違いない、と僕は思う。みなさん、しっかりと思索されますように。
○推薦図書「葉桜の季節に君を想うということ」 歌野晶午著。文春文庫。以前紹介したミステリーですが、これがなかなか深い人間洞察に満ちています。難しい文学に疲れた方はぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人間にとって自分なりの思想を編み出すことは、生きる上において不可欠な要素である。思想とは、日常の雑多な事柄から、普遍的な言動や考えに通じる要素をすくい上げることから始めなければならない。その意味において思想とは、決して生活から遊離したものであってはならないし、またもし、そのようにして生み出された思想? とは、大体において机上の空論に過ぎないからである。誤解を恐れずに言えば、思想とは生活の言語化と言っても過言ではない。とは言え、単なる生活の言語化という側面だけで成り立っているような発想は、あくまで世間知の域を出ることがない。世間知とは、日常性を乗り越えるには確かに便利な言葉ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。もっと言ってしまえば、物の役にはたたない代物ということになる。
僕たちは日常生活の中を生きていかざるを得ない存在ゆえに、日常性を無視することなど出来はしないし、また無視したかに見える思索の跡にいったいどれほどの普遍性があり、それがどれほど読む人の生きる指標になると言うのだろう? 答えはあくまでノーである。もう絶版になっているはずだが、原口統三の「二十歳のエチュード」という薄っぺらな文庫本は、僕の高校生時代の、漂白されたごとく純粋な思索の跡が、まるでフランスの詩人ランボーの詩集のような勢いで、僕の裡を支配し続けた。原口は20歳まえに自殺を遂げるが、僕は冗談では済まされないほどに、20歳を超えて生きることの罪悪感を抱いていた、と思う。たぶん僕が18歳の頃、学生運動のセクトを死を覚悟で抜けたことと、僕が原口から影響された純白な思想性とは無縁ではなかっただろう、と思う。当時の僕は、極左暴力集団の論理に愛想を尽かしつつ、片や、小田実の生命感溢れる市民運動のエネルギーに敗北し、さらに、原口統三のたった一冊の思索集の、純粋無垢なる生活感とは程遠い漂白された思想の純化にも敗北していたのであった。思想という意味合いにおいては、僕は当時八方塞がりだったのである。死ぬことも出来ず、生きていて、生の充溢感も感じないという最悪の事態の中でもがいていたのである。
さて、ここで誤解をぜひとも解いておかねばならないことがある。それは思想とは決して日常性を否定しないが、日常性そのものではない、ということである。思想が世間知でない、と僕が言い切ったのはそういう意味である。日常生活の中で、自分の思想を構築していくとするなら、幾多の哲学や文学作品の意味を蔑ろにしてはならない。たとえばある文学作品を、それ自体として読み切りのマンガのように作品世界に浸るだけでは、文学作品に内在する思想を汲みとって、自分の思想と付き合わせ、新たに自己の思想の編みなおしをしてさらなる高みへと飛翔することなど、殆ど不可能である。
普遍性を内包する思想と世間知とを混同する人々が少なからずいることは哀しい現実である。そして世間知は、底は浅いし、到底他者に対する生きかたに決定的な影響など与えることなど出来はしない。が、その一方でお気軽さゆえに、日常生活に躓いた人々にとっては消毒液ほどの効用はあるもの、と思われる。とは言え、消毒液は消毒液なりの効き目しかない訳で、負った心の傷の癒しの、単なる入口に過ぎないことも見逃してはならない事実である。案外に日常生活者の中には、この位置に停まっている人々の方が多いような気がする。だからこそ、心に傷を負っても、消毒液の知恵しか授からないわけで、何度も同じ傷の手当ての仕方しか出来ないのである。人が心に決定的なダメージを受けてしまうことなどない、と考える方がどうかしているのである。人は必然的とも言えるほどに、心に傷を受ける。しかし、その人に深い思索の経験と他者からの深い思索の影響から、自分なりの思想の編みなおしが常になされつつある(そう、これはいつも現在進行形なのだ。生あるかぎり)場合は、心に受けた傷は、傷口が化膿などすることなく、傷の治りと伴に、新たな思想の地平が見えてくるものなのである。繰り返して言うが、思想とはあくまで日常性から乖離したものではダメである。日常性にしっかりとその思索の根拠を置き、その上でさらなる思索の深化を遂げるための、他者からの深い思想をくみ取り、現状の自己の思想の編みなおしを絶えることなく行い続けることである。たぶん、生きていることの醍醐味の大いなる要素であるに違いない、と僕は思う。みなさん、しっかりと思索されますように。
○推薦図書「葉桜の季節に君を想うということ」 歌野晶午著。文春文庫。以前紹介したミステリーですが、これがなかなか深い人間洞察に満ちています。難しい文学に疲れた方はぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃