ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

生活言語から思想としての言語と普遍化へ

2008-06-15 12:23:38 | 文学・哲学
○生活言語から思想としての言語と普遍化へ

人間にとって自分なりの思想を編み出すことは、生きる上において不可欠な要素である。思想とは、日常の雑多な事柄から、普遍的な言動や考えに通じる要素をすくい上げることから始めなければならない。その意味において思想とは、決して生活から遊離したものであってはならないし、またもし、そのようにして生み出された思想? とは、大体において机上の空論に過ぎないからである。誤解を恐れずに言えば、思想とは生活の言語化と言っても過言ではない。とは言え、単なる生活の言語化という側面だけで成り立っているような発想は、あくまで世間知の域を出ることがない。世間知とは、日常性を乗り越えるには確かに便利な言葉ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。もっと言ってしまえば、物の役にはたたない代物ということになる。

僕たちは日常生活の中を生きていかざるを得ない存在ゆえに、日常性を無視することなど出来はしないし、また無視したかに見える思索の跡にいったいどれほどの普遍性があり、それがどれほど読む人の生きる指標になると言うのだろう? 答えはあくまでノーである。もう絶版になっているはずだが、原口統三の「二十歳のエチュード」という薄っぺらな文庫本は、僕の高校生時代の、漂白されたごとく純粋な思索の跡が、まるでフランスの詩人ランボーの詩集のような勢いで、僕の裡を支配し続けた。原口は20歳まえに自殺を遂げるが、僕は冗談では済まされないほどに、20歳を超えて生きることの罪悪感を抱いていた、と思う。たぶん僕が18歳の頃、学生運動のセクトを死を覚悟で抜けたことと、僕が原口から影響された純白な思想性とは無縁ではなかっただろう、と思う。当時の僕は、極左暴力集団の論理に愛想を尽かしつつ、片や、小田実の生命感溢れる市民運動のエネルギーに敗北し、さらに、原口統三のたった一冊の思索集の、純粋無垢なる生活感とは程遠い漂白された思想の純化にも敗北していたのであった。思想という意味合いにおいては、僕は当時八方塞がりだったのである。死ぬことも出来ず、生きていて、生の充溢感も感じないという最悪の事態の中でもがいていたのである。

さて、ここで誤解をぜひとも解いておかねばならないことがある。それは思想とは決して日常性を否定しないが、日常性そのものではない、ということである。思想が世間知でない、と僕が言い切ったのはそういう意味である。日常生活の中で、自分の思想を構築していくとするなら、幾多の哲学や文学作品の意味を蔑ろにしてはならない。たとえばある文学作品を、それ自体として読み切りのマンガのように作品世界に浸るだけでは、文学作品に内在する思想を汲みとって、自分の思想と付き合わせ、新たに自己の思想の編みなおしをしてさらなる高みへと飛翔することなど、殆ど不可能である。

普遍性を内包する思想と世間知とを混同する人々が少なからずいることは哀しい現実である。そして世間知は、底は浅いし、到底他者に対する生きかたに決定的な影響など与えることなど出来はしない。が、その一方でお気軽さゆえに、日常生活に躓いた人々にとっては消毒液ほどの効用はあるもの、と思われる。とは言え、消毒液は消毒液なりの効き目しかない訳で、負った心の傷の癒しの、単なる入口に過ぎないことも見逃してはならない事実である。案外に日常生活者の中には、この位置に停まっている人々の方が多いような気がする。だからこそ、心に傷を負っても、消毒液の知恵しか授からないわけで、何度も同じ傷の手当ての仕方しか出来ないのである。人が心に決定的なダメージを受けてしまうことなどない、と考える方がどうかしているのである。人は必然的とも言えるほどに、心に傷を受ける。しかし、その人に深い思索の経験と他者からの深い思索の影響から、自分なりの思想の編みなおしが常になされつつある(そう、これはいつも現在進行形なのだ。生あるかぎり)場合は、心に受けた傷は、傷口が化膿などすることなく、傷の治りと伴に、新たな思想の地平が見えてくるものなのである。繰り返して言うが、思想とはあくまで日常性から乖離したものではダメである。日常性にしっかりとその思索の根拠を置き、その上でさらなる思索の深化を遂げるための、他者からの深い思想をくみ取り、現状の自己の思想の編みなおしを絶えることなく行い続けることである。たぶん、生きていることの醍醐味の大いなる要素であるに違いない、と僕は思う。みなさん、しっかりと思索されますように。

○推薦図書「葉桜の季節に君を想うということ」 歌野晶午著。文春文庫。以前紹介したミステリーですが、これがなかなか深い人間洞察に満ちています。難しい文学に疲れた方はぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

生活と思想について想うこと

2008-06-15 01:21:07 | 哲学
○生活と思想について想うこと

生活が思想を形成するのか、思想が生活のありようを決定づけるのかを断定するのはかなり困難な問題だろう、と思う。物事をあまり考え詰めたことのない人々は、恐らくは前者、つまりは生活が自分の考え方を創るのである、と漠然とだが感じてはいるだろう。しかし、僕の考え方からすれば、もしも、生活のあり方がその人の考え方、思想を形作るならとするならば、果してその人にとっての生活とは一体、どこから生まれ、どのようにその生活を受け入れているというのだろうか? という深い疑問が生じることになる。人が、息を吸い、食らい、飲み、排泄する、という生物学的な側面から見れば、確かに生活がその人の思想を創るのだ、と言えなくもない。大体において、幼い頃の人間とは、大人の生活の影響下に強く支配されているのであり、その支配下から抜け出せずにもがき苦しむ人も珍しくはないからである。この時点から、自分独自の思想を普通は発展させていくものだろうが、大人の、特に親の、と言い換えてもよいが、その支配下から抜け出せないで、一歩たりとも前進できないままに、自らも大人になってしまう人も決して珍しくないのも認めざるを得ない現実である。現代に有り余るほどにいるマザコン男であれ、マザコン女であれ、ファザコンのそれであれ、自分の小さな生育歴から抜け出せないままに大人になって苦労する人たちは不幸である。こういう人々は必ず自分の子どもに同じ不幸の連鎖を伝えてしまうからである。

僕は、人というのは、長じて己れの思想を構築し、構築しては瓦解に遇い、崩壊の中から再構築し、思想というものの姿が確立されることになるが、こうして、人は確立し得た思想の力で自らの生活を決定づけるもの、と考えているのである。いや、そうでなければ、世の中には、所謂歳老いたお子ちゃまが氾濫することになるからである。現に、そういう醜悪なる歳老いたお子ちゃまたちが今世紀を席巻している感すらある。当然不幸の連鎖が連綿として続いていく。だから、この種のお子ちゃまには可能な限り関わらないことである。これが幸福を逃がさないための大切な心得えである。

思想が生活を決定づける。これが僕の結論である。ただし、思想が生活を決定づける、という場合、その思想は鍛え抜かれたそれの場合だけである。意識的な思想の構築のための鍛練が抜け落ちている場合は、人は、その瞬間、瞬間の皮膚感覚のごとき要素で、生活という次元に停まることになるわけで、こういう生活は人間の生活とは到底いいがたい、と僕は思う。敢えて言うならば、虫のごとき知覚を持った生活意識に限りなく近いものであろう、と推察する。

構築・破壊・再構築というプロセスを踏んだ思想が根底に据わっている生活には、人の心の痛みや、苦悩や、歓びや、哀しみが、生活そのものの中にしみ込んで、ある意味において潤いのある生を実現できるはずなのである。例えば、幾つになっても自分の哀しみの中に身を置いていたり、溢れ出るような感情すら抑制せざるを得ないような生きかたの中に身を潜ませている大人たちは、その実体を剥いて言えば、単なる怠け者である。生きることにおいて怠惰なのである。生における怠惰から何が生まれ出るというのか? 新しい価値意識など、生起する余地など、どこにもありはしない。そういう人々はせいぜい息をひそめて生きていくことである。ただ、大人として、子どもに自分の至らなさを連鎖させないことくらいはできるはずである。思想の構築が出来ない人になし得る唯一の行為は、近親者に対して、意識的に己れのネジくれた心性を受け渡さないことである。これが最低限の生きるマナーだ、と僕は思う。

生きることは多様で複雑怪奇である。どのようなことが先に待ち受けているやも知れないが、たとえ、どのようなことがあるにせよ、ギリシャ神話に登場するシジフォスのごとき、永遠なる無意味な繰り返しとも思える営為の中から、己れの殻を打ち破るエネルギーを引き出してくるべきであろう。その意味において、思想は常に動態的であり、その動態的であるが故に、構築と再構築を繰り返しつつ、常に新たな地平を見るような思想を、生活という場に投げ入れることで、生に輝きが出てくるのではなかろうか? 今日の感想である。

○推薦図書「どちらでもいい」 アゴタ・クリストフ著。ハヤカワepi文庫。人生における絶望と喪失感と死とが色濃く刻み込まれたモノクロームの文体にいっとき酔ってはみませんか? お薦めの書です。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃