ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人生の時の時

2008-06-16 11:37:31 | 観想
○人生の時の時

確か同じような題名の小説か評論かは読んでもいないので分からないが、石原慎太郎前東京都知事が書いていたように記憶する。勿論今日、僕が書くのは石原とはまるで異なることを考察し、文字を紡ぎだすことになる。少し横道にそれるが、石原慎太郎の名前を出したついでに、彼のことを小説家として少し弁護しておいてあげよう、と思う。ご存じのように石原は芥川賞作家である。受賞作品名を知らぬ人はなかろう。「太陽の季節」。しかし、確かに石原にとっては、この作品で芥川賞を受賞し、作家としての地位を確固たるものにできたのだからよし、としても構わないが、僕の観察眼から見ると、石原の「太陽の季節」は、当時の時代性を、確かにお上手な文体で、かなり極端に描ききった、という点での評価だった、と認識している。映画化もされた。思えば石原の不幸は、彼の最も不出来な作品によってあまりに有名になりすぎた、という点に在る。石原の作品の傑作はこれもまた不幸なことに殆ど絶版になったままである。推察するところでは、彼は自民党議員として政界に進出したが、彼の作品のもつ、破壊的で刹那的な綱渡りのような、読む者の神経を張りつめさせるような作品群を、石原自身が保守政治家として立ち上がろうとしているとき、それらの優れた作品群を自ら捨てたのかも知れない。

石原という個性からすれば、彼の「太陽の季節」以外の優れた作品を復刻させても出版社は絶対に損はしないはずだし、また売れもする。お笑いのようだが、石原の唯一の文庫本発刊されている作品は、彼の最も出来の悪かったはずの「太陽の季節」一作品だけである。その他弟の石原裕次郎の思い出やら、いくつかの評論は単行本の形で出版されはしたが、彼の持味であるハードボイルドタッチの、それでいて人間の真実に迫り得る作品の多くが、この世界から姿を消したままなのである。「化石の森」一つ文庫復刻されてはいない。決して褒めたくはない人格だが、石原には優れた作品が他にもたくさんあるのだ。僕の書棚には、それらがきちんと整理されて衰えることなく、作品自体の意義によって、その存在理由を主張しているかのようである。

横道に逸れ過ぎた。僕の人生の時の時について語ろう、と思う。何度も書いたが、僕は23年も英語の教師をしていた。自分で言うのもおかしな話だが、僕は努力家ではあるので、それなりの英語教育に関する理論も僕なりに考察し文章化している。僕が学校を去るまでの後年の11年間に渡って、学校が出版している「研究紀要」(誰一人読まない代物だ)に、たぶん真面目に読めば、英語教師ならすぐに語学教師としての存在理由に気がつくだろうし、現在文部科学省が唱えているコミュニケーション能力としての英語運用に関する、正当な反論と、本来身につけるべき英語力の内実が詳細に論述されているはずである。たぶん学校の図書館や国会図書館に埋もれているはずだが、この事態に関しては、僕は石原とは違って、自分の本意では決してない。より多くの悩める語学教師に読んでもらいたいものばかりである。とは言え、僕には英語教師という職業、私学という閉じられた職場、その中で繰り広げられる腹の探り合いのような人間関係と会話には、まずおとなしく定年までは我慢など出来はしなかったし、また教師存在としての自分壊しを日々着々としていたように思う。
 
その後転じて、いまはある企業を起こし、それで生業をたてているわけだが、はっきりと言って、語学教師よりは、この仕事の方がいくら自分に向いているか分かりはしない。この仕事は正解だったから、今後も続ける。仕事がある限りは。あるいはまた、別の事業に気を引き付けられるのかも知れないけれど。

さて、やっと僕の人生の時の時について語る場が来たが、これを読んで頂いている方々には、詳細をいまのところ書けないのでまことに申し訳ないことなのだが、只今進行中のこととて、秘匿の意味をご理解して頂きたい、と思う。僕が人生の時の時、と言ったのは、自分の裡に新たな可能性とそれに伴うかなり具体的な知恵と行動力が生じて来て、それらはまさに確信となった、ということである。恐らくはこの能力は、初めから僕の中には存在していたが、長い間教師という食うには困らない仕事をしていたせいで、自分で封印していた感がある。あるいは、もっとあからさまに言えば、自分の中に在る発揮すべきちょっとした冒険心と大胆さを、教師という仕事の隙間に挟み込むことは、当時の僕にとっては有害だろう、と推測したからではなかろうか? いずれにせよ、思いどおりに教師という縛りはとれた。いまは自由業に属する心理カウンセラーである。心情的に何も邪魔するものなど存在しない。いよいよ踏み出すときが来た、と確信する。60歳になる年齢を迎えて、僕は新たな活路を切り開く。人生、いつからでも気づいたときが、始まりなのである。気づきが確信に変われば、行動するまでだ。躊躇することもなく、恐れすらない。心はまことに晴れやかである。僕の人生の時の時が動き出したのである。大胆さを忘れず、それでいて緻密さを常に分かち持ち、繊細な判断力で、今後の道を切り開いていく。そんな覚悟が出来た1週間であった。後ろなど向きはしない。冷静になるための一旦停止はある方が正しいが、本質はあくまで前進あるのみである。今日の観想である。

○推薦図書<「原因」と「結果」の法則> ジェームズ・アレン著。サンマーク出版刊。「人間は思いの主人であり、人格の制作者であり、環境と運命の設計者である」という一文が胸に落ちた方は、この書をお薦めします。人生の時の時をまだ迎えておられない方々にもなにほどかの気づきがあるかも知れません。しかし、この種の書はあくまで心の持ちようを喚起してくれるだけの効用しかないことをお忘れなく。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃