○自分って、なんて嫌なヤツだったのだろうかって、思う
このところ、自分の教師時代の総括の最終段階に入っているような気がするのは、かつての自分の姿を、事実以上でもなく、事実以下でもない、等身大の、自分の教師としてのイメージが、心の中でより鮮明で、透明度を増しながら具象化してきているのが皮膚感覚で諒解できつつあるからだろう、と思う。
僕は教師になる前の自分が大嫌いだった。70年安保闘争の時代を、いっぱしの革命家気取りで、駆け抜けた。その結果は無残なものだった。人をたくさん傷つけた。勿論恐らくはそれ以上に自分が深く傷ついた。人生の青年期という貴重な時期に、僕は生きるための心のエネルギーを得るどころか、たぶん最も死に近い泥沼のような、光の喪失を伴った生の底の底を這いずり回っていた感がある。喪失感だけが若い頃の僕という存在を支配していた、と思う。高校生であった僕の中から、おとなたちが生き抜いている実社会という、大きな壁に立ち向かうだけの勇気はすでに砕け散っていた。残された選択肢は逃げること、現実から身を逸らすこと、自分自身の存在すら透明化させてしまうこと。僕はそのことだけのために神戸という住み慣れた街を去った。そこから大学という、僕にとっては、逃避の場としての、ひとときの、独りぼっちの、読書のためだけの4年間に辿り着くまでの経緯についてはすでに何度か書いた。詳記することは避けるが、やはり僕は読書しつつ、自分を嫌悪していた、と思う。新たに発見し得たものなど何一つなかった、と言って過言ではない。僕は大学生活という貴重な4年間を、まるで真空地帯をスリ抜けるようにして駆け抜けることしか出来はしなかった。神戸を去って、東京に降り立ち、京都に行き着いた果てに僕が得たものは、さらに深まった喪失感だけだったのではなかったか? と思う。ロクな人間ではなかったはずの自分が、実社会に対峙せねばならないときが訪れた。当時、何をなすべきか? という単純な自問さえ、僕には重く、苦しげな難問に感じた。
人生には偶然の出来事だって時折起こる。どこをどのように間違えたのか、僕は自分の価値観から最も遠いはずの、人を育てるという仕事に就いていた。教師という仕事が、聖職などという古びた感覚などひとかけらも持ち合わせてはいなかったが、それにしても将来何がしかの新たな価値観を身につけるはずの、若者たちと同じ空気を吸わなければならなくなったのである。そのような環境に何の間違いか、僕は降り立つことになってしまったのである。これが僕の社会人としての足跡のはじまりであった。否定したくても、出来ない事実として、僕は学校という空間で23年という長きに渡る時間を費やすことになった。新たな価値意識など何一つ発見出来ずに社会に投げ出されたのである。拠り所は、かつての左翼運動で身につけた、小さな自由への憧憬の念だけだった、と思う。たぶん、正確に言うと、極左主義の運動論の合間に、一人の優れた社会科教師に教わったジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」「エミール」「新エロイーズ」「告白録」の断片的な思想が、僕を支えていたのではなかろうか? ルソーという優れた思想家が考え抜いた、個人と集団・自然と社会・孤独と連帯という深き考察の表層をすくい取るように、僕は自分のつまらない人間としての本質を誤魔化しながら、なにほどか教師に似た仕事をこなしていたように思う。決して自分に、教師という存在が生徒たちに示すべき、掛け値なしの受容力や、優しさがあった、などと言うつもりはない。もし、卒業生の一人なりとも、そのような意識を僕から受け取ったと言ってくださるならば、それはあくまで僕の虚像が彼女にそう言わせたに過ぎないと思う。はっきりと告白しておくが、僕は教育者などではなかった。敢えて言うならば、運動論としての集団づくりのセミ・プロに過ぎない存在だった、と規定せざるを得ないだろう。
エセものはどこまでいってもエセものなのである。僕に決定的に欠けていたものは、生徒をどこまでも受容する力、さらに言うならば、愛という概念の欠如だった。だからこそ、僕はつまらないものをつまらないものとして放置できなかったのだ。つまりは、教育に専念できなかったのである。僕が教育という意匠の底から発した最も大きな抗いは、僕が勤めていたかの女子学園を支配する大宗教教団という権威に対するそれであった。他者を真の協力者にするだけの力量など当時の僕にはなかった。それはあくまで僕一個の孤独な闘いであった。たぶん、僕は自分の教師としてのエセもの性を自ら葬りたかったのだ、といまにして思う。敗北を闘いの初めから認識した抗いが挫けるのは時間の問題だった。僕が学校を追われたとき、自分の中のエセもの性を同時に葬り去った。僕なりのおとしまえのつけかただった、と認識している。後悔はない。いま、少しだけ、自己嫌悪が薄らいだ、歳老いた自分がいる。今日の観想である。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
このところ、自分の教師時代の総括の最終段階に入っているような気がするのは、かつての自分の姿を、事実以上でもなく、事実以下でもない、等身大の、自分の教師としてのイメージが、心の中でより鮮明で、透明度を増しながら具象化してきているのが皮膚感覚で諒解できつつあるからだろう、と思う。
僕は教師になる前の自分が大嫌いだった。70年安保闘争の時代を、いっぱしの革命家気取りで、駆け抜けた。その結果は無残なものだった。人をたくさん傷つけた。勿論恐らくはそれ以上に自分が深く傷ついた。人生の青年期という貴重な時期に、僕は生きるための心のエネルギーを得るどころか、たぶん最も死に近い泥沼のような、光の喪失を伴った生の底の底を這いずり回っていた感がある。喪失感だけが若い頃の僕という存在を支配していた、と思う。高校生であった僕の中から、おとなたちが生き抜いている実社会という、大きな壁に立ち向かうだけの勇気はすでに砕け散っていた。残された選択肢は逃げること、現実から身を逸らすこと、自分自身の存在すら透明化させてしまうこと。僕はそのことだけのために神戸という住み慣れた街を去った。そこから大学という、僕にとっては、逃避の場としての、ひとときの、独りぼっちの、読書のためだけの4年間に辿り着くまでの経緯についてはすでに何度か書いた。詳記することは避けるが、やはり僕は読書しつつ、自分を嫌悪していた、と思う。新たに発見し得たものなど何一つなかった、と言って過言ではない。僕は大学生活という貴重な4年間を、まるで真空地帯をスリ抜けるようにして駆け抜けることしか出来はしなかった。神戸を去って、東京に降り立ち、京都に行き着いた果てに僕が得たものは、さらに深まった喪失感だけだったのではなかったか? と思う。ロクな人間ではなかったはずの自分が、実社会に対峙せねばならないときが訪れた。当時、何をなすべきか? という単純な自問さえ、僕には重く、苦しげな難問に感じた。
人生には偶然の出来事だって時折起こる。どこをどのように間違えたのか、僕は自分の価値観から最も遠いはずの、人を育てるという仕事に就いていた。教師という仕事が、聖職などという古びた感覚などひとかけらも持ち合わせてはいなかったが、それにしても将来何がしかの新たな価値観を身につけるはずの、若者たちと同じ空気を吸わなければならなくなったのである。そのような環境に何の間違いか、僕は降り立つことになってしまったのである。これが僕の社会人としての足跡のはじまりであった。否定したくても、出来ない事実として、僕は学校という空間で23年という長きに渡る時間を費やすことになった。新たな価値意識など何一つ発見出来ずに社会に投げ出されたのである。拠り所は、かつての左翼運動で身につけた、小さな自由への憧憬の念だけだった、と思う。たぶん、正確に言うと、極左主義の運動論の合間に、一人の優れた社会科教師に教わったジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」「エミール」「新エロイーズ」「告白録」の断片的な思想が、僕を支えていたのではなかろうか? ルソーという優れた思想家が考え抜いた、個人と集団・自然と社会・孤独と連帯という深き考察の表層をすくい取るように、僕は自分のつまらない人間としての本質を誤魔化しながら、なにほどか教師に似た仕事をこなしていたように思う。決して自分に、教師という存在が生徒たちに示すべき、掛け値なしの受容力や、優しさがあった、などと言うつもりはない。もし、卒業生の一人なりとも、そのような意識を僕から受け取ったと言ってくださるならば、それはあくまで僕の虚像が彼女にそう言わせたに過ぎないと思う。はっきりと告白しておくが、僕は教育者などではなかった。敢えて言うならば、運動論としての集団づくりのセミ・プロに過ぎない存在だった、と規定せざるを得ないだろう。
エセものはどこまでいってもエセものなのである。僕に決定的に欠けていたものは、生徒をどこまでも受容する力、さらに言うならば、愛という概念の欠如だった。だからこそ、僕はつまらないものをつまらないものとして放置できなかったのだ。つまりは、教育に専念できなかったのである。僕が教育という意匠の底から発した最も大きな抗いは、僕が勤めていたかの女子学園を支配する大宗教教団という権威に対するそれであった。他者を真の協力者にするだけの力量など当時の僕にはなかった。それはあくまで僕一個の孤独な闘いであった。たぶん、僕は自分の教師としてのエセもの性を自ら葬りたかったのだ、といまにして思う。敗北を闘いの初めから認識した抗いが挫けるのは時間の問題だった。僕が学校を追われたとき、自分の中のエセもの性を同時に葬り去った。僕なりのおとしまえのつけかただった、と認識している。後悔はない。いま、少しだけ、自己嫌悪が薄らいだ、歳老いた自分がいる。今日の観想である。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃