ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

金銭感覚の崩壊が意味するもの

2008-06-23 22:32:09 | 精神病理
○金銭感覚の崩壊が意味するもの

依存症の中に買物依存という病的な行動をとる人々がいる。この種の依存症に陥る人々の特徴は、まずはブラント物に手を出すことである。さらに、購入したブランド物に対して、購入した時点で興味を失う。そしてさらなる際限のない買物をすることになる。家族が気づいた頃にはたぶん一財産を食いつぶしているような状況である。

買物を異常にし過ぎるわけだから、それさえしなければいいのだろう? という疑問を家族の方はお持ちだろうが、この病気(と敢えて言うが)は、その現れが、過剰な買物という行為に現れているだけのことで、心の深層のところには、暗くて底なしの穴が空いている状況なのである。買物の過剰は、この心の暗黒を埋めるために、たまたま現れた一つの兆候に過ぎないのではなかろうか?

そもそも過剰な買物という行為によって、心の空洞を埋めようとする試みは、試み自体が、事の始まりから破産している。というのは、限りない金銭を放出することによって、その代償としてブランドという名の、漂白された物質的象徴を手に入れる、という行為自体が、不可能性を敢えて可能性に変質させようとする愚かで切ない行為だからである。買物依存症に陥っている人たちの殆どが、本来は物質的なものなど欲しがってはいないからである。このような人々の心の深遠には、底なしの、満たされない欲動が渦巻いている。そして、決して満たされない欲動のために、生の意義そのものが押しつぶされようとしているのである。

人は自らの存在理由が希薄になったとき、まず生活感覚というものを喪失する。最も最初にやってくる崩壊感覚とは、金銭感覚の崩れである。金の価値を喪失した人間にとって、金があろうとなかろうと、金という交換の道具によって、自らの心の深遠に穿たれた穴を埋めることができるかのように、物を買うのである。それも自分にはまるで意味のない高級品であればあるほど、心の空虚感を埋めることが出来るはずだと錯誤し、買物を繰り返すという行為によって、物質による、あるいは金による行為の、不可能性を誰よりも深く認識することになる。その刹那、心はますます空虚になる。しかし、依存という行為は、自分で心の空漠感を自覚すればするほど、切ないほどに、無意味な行為にのめり込んでいくことになる。こういう悲劇を指して、買物依存というのである。

だからこそ、単に金銭感覚の麻痺などという非難・批判的言辞では、買物依存という行為に拍車がかかりこそすれ、絶対にそれが終焉することなどあり得ない。この場合、金銭感覚の崩壊は、依存者の心的崩壊と同義語だからである。金銭感覚が崩壊した結果の依存症は、金銭感覚のよびもどしというような単純な行為によっては治まらない。このときの金銭とは、心の空洞という状況と通底しているからである。心が虚しいから金を空費するのだ。空費するという限りなき心の破壊行為によって、実際に破壊された心の崩壊という実体を自分の胸に落とすために行われる虚しい、確かめのための行為、それが、買物依存という行為が当事者にもたらす不幸のありようだ、とも言える。

買物依存を癒すには、買物をさせないように金銭を取り上げることではない。買物依存という精神的空洞感を埋めるための心の支えが必要なだけなのだ。被害に遇っている家族の方々は、この点を見逃している場合が殆どなのである。何故、不要なものに等しいブランド品に手を出すのか、という単純な自問をされるとよい。そういう観点から物事を眺めた場合、依存症の当事者は、買物そのものを楽しんで行っているだろうか? 他者によって、依存症に陥っている人々の心の底に穿たれた暗黒の存在に目をむけることが出来たとき、すでに依存症の癒しが、身近な人の力によってはじまっている、と考えて差し支えないのではなかろうか? 今日の観想である。

○推薦図書「身体の哲学」 野間俊一著。講談社選書メチエ。心と体は別のものではありません。互いに交差しあい、しかも他者のからだへと開かれています。今日の買物依存というテーマは単なる一つの例でしかありません。問題とすべきは、人間とはとてもやっかいな身体を生きている、というテーマです。推薦の書です。どうぞ。

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