○精神の強靱さについて想うこと
人の精神が強靱であることには、己れの心の奥深くに眠る精神の繊細さを犠牲にしてこそ手に入れられる代物だ、と錯誤している場合が多いのではなかろうか? つまりは精神の強靱さとは、この場合、他者に対するある種の非情さを意味することすらある。他者に対してできるだけ思い入れぬことによって、自分が傷つくのを恐れる心性のことである。確かに他者と関わらなければ、他者との間に精神的ストレスなど生起するはずもないし、他者との距離感によって、自分の精神の安定感を保つことである、という誤謬と、精神の強靱さがむすびついたとき、このような人はもう手のつけようもないほどに、頽廃した心の持主ということになる。頽廃した心の持主にとっての強靱さとは、他者を切って捨てて、何らの心の痛手も感じ得ない、無感動な(Apathy)な心性に支配された、どうにも扱い難い個性を生きる指標にしてしまった人のことを言うのである。神を信じていない僕が言うのもおかしな話だが、こういう人のことを、悪魔に魂を売り渡した人間と称するのではないだろうか? と勝手な解釈をしている。
人が精神の強靱さを身につけ得るのは、自己の裡に人並み優れた他者に対する共感の念を抱いていられる人のことである。これは表層的な同情心とは似て非なるものだ。同情心からは、他者の不幸を目の当たりにして、そのことに対して、他者が陥っている不幸なる心境なり、境遇なりに自己投影し、しかしそれはあくまで自己投影に過ぎないのであって、そこから出てくる結果は、他者に対してはそれほど役にも立たない言葉や、まったく的外れの言葉を投げかけることくらいではないか、と推察する。このような思い入れのされ方ならば、困り果てた他者に関わらない方が余程マシか分からない。単なる同情心から発せられる言葉は、不幸に陥った人間との関わりの距離感を計りながらの、計算高い、お為ごかしの言葉であるが故に、かえって他者を傷つけてしまうのである。ここで言う他者とは、肉親、他人の区別を問わない。こういう人のことを一般に偽善者と呼び倣わしているのである。偽善からは人を救うというエネルギーなど、湧きだしてくる余地はないのである。偽善は従って、自己満足の領域に属する精神の型である。
ただ、偽善であれ、金を出す偽善は留保つきでも世の中のためにはなる。最も質の悪いのが、金も出さないお為ごかしの言葉で、物事を綺麗に整理整頓してしまうような人々である。こういう人々の思想は、すべてが自己完結しているが故に、どこにも出口なく、従って何の発展性もないのである。金を出す偽善者とは、アメリカの金持ちがせっせとやっているcharityもどきの金の投入である。もっとも、アメリカにおいては、charityに金を出すことによって大きな節税対策になるので、結局大金持ちは、気分よく与え、与えることによってますます金持ちになるという仕組みが出来上がっている。それに比べて、日本の政府は、金持ちから金を引き出すための施策を持っていない。法人税をどれだけたくさんとれるのか? ということばかりを考えているから、お役所の中でつまらない贈収賄事件などが頻発する。国民のなけなしの税金は、大概の場合国民に換言されることもなく、まあ金持ちも金の出しどころを失っている、というのが現況なのだ。
金など要らぬ、と思って生きてきた。しかし、そうではない。金が必要なとき、他者を頼らざるを得ない自分の、中途半端な生活実態に嫌気がさした。金儲けも一つの才能である。僕はこの歳になるまで、この種の才能を無視し続けてきたのである。金は汚い? いや、そんなことはない。金に困り果てて、他者に頼ろうとする心が卑しいのである。この歳にして、どれだけのビジネスが可能なのか? しかし、僕の脳髄の中では、自分に可能なビジネスを起こす準備が整いつつある。避けてきただけのことなのだ。やって出来ないはずがない。また、この歳でハローワークに行って、まともな仕事になどにつけるはずがない。金とは無縁の生活が待ち受けているだけだ。もう自分でやるしかない。そう確信した。自分がこれまでやってこなかったこと、事業による収益のあげ方。これがいまの僕の課題だ。カウンセラーも良き仕事だったが、こと、金儲けという点で言えばチャチな仕事だ。人を限定的に救えても、ただそれだけだ。もっと大きなことに目を向けて晩年を生き抜きたい。心がそう定まれば、自然に行動はついて来る。人生とはそういうものだ。がんばるしかない。最期の挑戦だ、と腹を括っている。精神の強靱さが、いまの僕に求められているのだろう、と思う。
○推薦図書「思考は現実化する」 ナポレオン・ヒル著。きこ書房刊。読み直してみて、まさに思考こそが現実を形づくることが出来ると少なくとも錯覚させてくれる書です。自分の無力感で、心が弱っているときに読む本です。たいした書ではありませんが、敢えて書き置きます。これは最近文庫本になりました。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人の精神が強靱であることには、己れの心の奥深くに眠る精神の繊細さを犠牲にしてこそ手に入れられる代物だ、と錯誤している場合が多いのではなかろうか? つまりは精神の強靱さとは、この場合、他者に対するある種の非情さを意味することすらある。他者に対してできるだけ思い入れぬことによって、自分が傷つくのを恐れる心性のことである。確かに他者と関わらなければ、他者との間に精神的ストレスなど生起するはずもないし、他者との距離感によって、自分の精神の安定感を保つことである、という誤謬と、精神の強靱さがむすびついたとき、このような人はもう手のつけようもないほどに、頽廃した心の持主ということになる。頽廃した心の持主にとっての強靱さとは、他者を切って捨てて、何らの心の痛手も感じ得ない、無感動な(Apathy)な心性に支配された、どうにも扱い難い個性を生きる指標にしてしまった人のことを言うのである。神を信じていない僕が言うのもおかしな話だが、こういう人のことを、悪魔に魂を売り渡した人間と称するのではないだろうか? と勝手な解釈をしている。
人が精神の強靱さを身につけ得るのは、自己の裡に人並み優れた他者に対する共感の念を抱いていられる人のことである。これは表層的な同情心とは似て非なるものだ。同情心からは、他者の不幸を目の当たりにして、そのことに対して、他者が陥っている不幸なる心境なり、境遇なりに自己投影し、しかしそれはあくまで自己投影に過ぎないのであって、そこから出てくる結果は、他者に対してはそれほど役にも立たない言葉や、まったく的外れの言葉を投げかけることくらいではないか、と推察する。このような思い入れのされ方ならば、困り果てた他者に関わらない方が余程マシか分からない。単なる同情心から発せられる言葉は、不幸に陥った人間との関わりの距離感を計りながらの、計算高い、お為ごかしの言葉であるが故に、かえって他者を傷つけてしまうのである。ここで言う他者とは、肉親、他人の区別を問わない。こういう人のことを一般に偽善者と呼び倣わしているのである。偽善からは人を救うというエネルギーなど、湧きだしてくる余地はないのである。偽善は従って、自己満足の領域に属する精神の型である。
ただ、偽善であれ、金を出す偽善は留保つきでも世の中のためにはなる。最も質の悪いのが、金も出さないお為ごかしの言葉で、物事を綺麗に整理整頓してしまうような人々である。こういう人々の思想は、すべてが自己完結しているが故に、どこにも出口なく、従って何の発展性もないのである。金を出す偽善者とは、アメリカの金持ちがせっせとやっているcharityもどきの金の投入である。もっとも、アメリカにおいては、charityに金を出すことによって大きな節税対策になるので、結局大金持ちは、気分よく与え、与えることによってますます金持ちになるという仕組みが出来上がっている。それに比べて、日本の政府は、金持ちから金を引き出すための施策を持っていない。法人税をどれだけたくさんとれるのか? ということばかりを考えているから、お役所の中でつまらない贈収賄事件などが頻発する。国民のなけなしの税金は、大概の場合国民に換言されることもなく、まあ金持ちも金の出しどころを失っている、というのが現況なのだ。
金など要らぬ、と思って生きてきた。しかし、そうではない。金が必要なとき、他者を頼らざるを得ない自分の、中途半端な生活実態に嫌気がさした。金儲けも一つの才能である。僕はこの歳になるまで、この種の才能を無視し続けてきたのである。金は汚い? いや、そんなことはない。金に困り果てて、他者に頼ろうとする心が卑しいのである。この歳にして、どれだけのビジネスが可能なのか? しかし、僕の脳髄の中では、自分に可能なビジネスを起こす準備が整いつつある。避けてきただけのことなのだ。やって出来ないはずがない。また、この歳でハローワークに行って、まともな仕事になどにつけるはずがない。金とは無縁の生活が待ち受けているだけだ。もう自分でやるしかない。そう確信した。自分がこれまでやってこなかったこと、事業による収益のあげ方。これがいまの僕の課題だ。カウンセラーも良き仕事だったが、こと、金儲けという点で言えばチャチな仕事だ。人を限定的に救えても、ただそれだけだ。もっと大きなことに目を向けて晩年を生き抜きたい。心がそう定まれば、自然に行動はついて来る。人生とはそういうものだ。がんばるしかない。最期の挑戦だ、と腹を括っている。精神の強靱さが、いまの僕に求められているのだろう、と思う。
○推薦図書「思考は現実化する」 ナポレオン・ヒル著。きこ書房刊。読み直してみて、まさに思考こそが現実を形づくることが出来ると少なくとも錯覚させてくれる書です。自分の無力感で、心が弱っているときに読む本です。たいした書ではありませんが、敢えて書き置きます。これは最近文庫本になりました。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃