ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

つまらねぇ時代だなあ

2008-10-03 00:55:03 | 政治経済・社会
○つまらねぇ時代だなあ

僕の人生、振り返ったら、うまくいかなかったことの方が圧倒的に多い。当然僕の記憶に刻まれた人生のさまざまな段階における出来事の結果は、いつも何ほどかほろ苦い味をともなっているような気がする。ほろ苦さこそが人生か、と居直ることもできなくはないが、それもどこか切ない気がする。たぶん、僕がいつまでも大人になりきれないのは、いや、それなら大人の定義は何か?ということになるだろうが、少なくとも今日という日に言えることは、人生の何たるか?に関しての結論は出ていないということだけである。

今日の出来事を振り返ってみると、実にくだらないことでマンションの住民からクレームが、それもかなり間接的な方面から耳に入ってきた。中国の文化大革命を指揮した晩年の毛沢東が人民の中にスパイ組織をつくり、そのために信頼していた人間から当局に反動者として訴えられ、人生を台無しにされた人々の数ははかり知れないだろう。人民が中心であるはずの共産主義に、人民どうしが監視し合うという、日本の軍国主義時代の隣組制度と同種の組織が出来ることに落胆と絶望を隠せなかったのは、僕の記憶の中では消し難いものとして残ったままである。しかし、よく考えてみれば、人民と言おうと、民衆と言おうと、市民と言おうと、国民と言おうと、時としてすばらしい連帯の実績を残しているし、また今後もその可能性に満ち溢れてはいるが、その片側で、実にくだらないプチ・ブル(小市民)的要素も確実に存在し、この種の性向は、どのような政治体制・経済体制下にあろうとも、否定し難いほどのエゴイスティックで、他者を犠牲にして憚らぬ残酷さも分かち持っているわけで、たぶん僕が小田実のような市民主義を信じ切れなかったのは、市民という名のエゴイストたちの虚妄を心の深いところで軽蔑していたからに他ならない。

勿論小田においては、市民のこのような限界性、自己愛という名の、己れ可愛さという性向をも受容した上で、運動論を組み立てていたのだから、僕などに敵いっこないのは当然のことか。

小田のようには絶対になれない自分がいる。僕は心の底の底から、市民とか国民と呼び慣わされている人間集団が大嫌いである。生涯変わることはないだろう。かつて日本人が貧しかった頃、貧しさは必ずしも人間を卑しくはしなかった。むしろ貧しさは素朴な人と人との連帯を生み出す原動力になった。それに比べて、高度経済成長を経た後の日本人は醜悪ですらある。手にする金の額が増えて、まさにプチ・ブルの卑しさで権利ばかりを主張する。うんざりである。具体的には書かないが、先ほどのマンションの理事会の話の内容などは、聞くに堪えないようなアホらしいものである。マンションと言ったって、単なる集合住宅だ。それも殆どは銀行にローンを組まされて、根抵当がついている。建売住宅も同じような環境のもとで、物件の名義だけを馬鹿高いローンで買っているようなものだ。ローンが支払えなくなれば、銀行に持っていかれる。何せ、抵当権は所有者にはなく、銀行側にあるからだ。たぶん、しこしこ貯めた頭金を全額頭金とやらに注ぎ込んで、残りをローンで借りて、さらに抵当権をつけられて、元本の2倍~3倍の総額を生涯かけて支払う市民とやらが、セコイことに、スパイ組織のような理事会とやらをつくり、文句の言いたい放題。こんなアホウな時代があるか!セコイマンションだらけにしてしまった京都府政は、いったい何を考えているのだろう?セコイマンションを購入した名前ばかりの所有者たちの、日本軍国主義時代を想起させるようなスパイ組織にも劣らぬプチ・ブル性など、ドブにでも捨てるべきだ。否、いまやブチ・ブル性を捨てるべきドブすらない。たぶん地面の下を流れている下水道には、人間の醜悪さの残骸が溢れるように流れ続けていることだろう。誤解なく。僕の書きたかったことは、ずいぶん前に流行った「清貧の思想」とは似ても似つかぬ内実である。しかし、つまらねえ時代だなあ。つくづくそう想う。

○推薦図書「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」 橋本 治著。集英社新書。あの「桃尻娘」を世に問うた橋本 治が現代を切って捨てる気持ちよさをぜひとも味わってください。お勧めです。

文学ノートぼくはかつてここいた
長野安晃