ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

潔く生き抜き、潔く死を受け入れたい、と思う

2008-10-31 00:26:03 | 観想
○潔く生き抜き、潔く死を受け入れたい、と思う

若い頃の主な関心事とは、人はなぜ生きるのか?あるいは人はなぜ死なねばならないのか?という、とても本質的な哲学的思念の只中でもがいているものだろう。それがはっきりとした思想になり得なくても、生きることの退屈感や、重圧感に打ちひしがれそうになりながら、個性的な違いによって、何らかの抗いに身を晒すのが若さというものである。僕から見ると、青年という、考える自由を最も多く持ち、苦悩する自由さえ最も純粋な形で表現し得る時期に、大人の価値観に対して、何らの疑念も持たず、社会的エリートへの道のりをひた走るような青年たちが、現代という時代を実につまらない存在にしてきた大人たちの焼き直しのような存在に見えて、実に厭な感じを抱いてしまうのを禁じ得ない。

たぶん、自分の生と死というものを、ある種の潔さの中に閉じ込めることが出来るのは、ちっぽけな存在者たる自分が、この世界から立ち去ることになるにせよ、世界は厳然として存在し続け、しかしその一方で、世界の未来を託してゆけるであろう、若い人々が営々と生の営みを絶えることなく、この世界の只中で、永続させてくれるのだろうという、密やかなる希みがあるからだ。確かに自己という一個の人間はちっぽけな存在に過ぎないが、自己の生と死というものを、それ自体として閉ざしてしまうような死生観は、いかにもさもしいと僕は思う。閉じた生も死も、僕には自己の美意識たる<潔さ>からは程遠い概念性である。潔いとは、何も右翼の腹切りや、自爆テロに殉じるテロリストのような決断を意味しない。僕にとっての潔さとは、生も死もあくまで世界に開かれた概念が生み出す可能性を指して言うのである。自己の生が、他者の生に対する力に繋がり、自己の死は、死を終末とするのではなく、勿論輪廻転生などという馬鹿げたスピリチュアリティを意味するのでもなく、あくまで死は死そのものとして受容するが、未来を担う人々がこの世界を限りなく広げてくれることを願うという意味で、自己の死も世界に開かれたものと考え得るものである。その意味で、僕の死生観は神など信ぜずして、そのままに開かれた概念性を持ち得ると確信する。それが僕の裡なる<潔さ>の定義でる。

だからと言って、自分など決して人に褒められるような生きかたはしていない。むしろ、脱線に次ぐ脱線の連続が自己総括としての僕の生きざまである。多くの人を傷つけた記憶の方が生々しく自分の脳髄を支配しているし、逆に、人のためになれたことなど、かなり手前勝手に考えても、数えるほどしかない。そんな人間なのだから、別に上からの目線で青年たちにもの申すつもりなど毛頭ない。むしろ青年たちに懇願したいくらいのものである。「オレはもう何も出来ずこの世界から立ち去るし、そして君たちに残してやれることなど一切なかったわけで、何かを言い残す資格などないけれど、君たちには、出来ることなら後悔のない人生を歩んでほしい。後悔のない人生ほど、他者のためになり得る可能性を秘めた生きかたなんだから」と、人知れず呟いて、この世界から立ち去りたいものである。それが僕の覚悟である。

現代は、いまの大人の大半が恩恵を蒙ってきたような価値観など、どこをどう探しても見つかりはしない世界である。だからこそ、学歴社会をはじめとする既成の価値など信じてはいけない。所詮、大人の唱える価値観などは、自分の経験則の中から拾い出した浅薄なものに過ぎないからである。さらに言えば、大人だって、自分が生き残るためには、君たち青年を犠牲にしても憚ることはないだろう、ということである。こんな日本社会の中に閉じこもらず、チャンスがあるなら、世界へ飛び出せ!そして、文字通り自己の世界観を広げよ!訪れ来る死を待つだけになってしまった哀しきおっさんの、小さな世界に対する見切りのつけかた、それを敢えて<潔さ>と呼ばせてくれるなら、自分の矮小な生と死が、未来に生きる人々へと繋がりますように、と切に願う。

○推薦図書「スペインの墓標」 五木寛之著。実業之日本社。 激動と反抗と狂気の‘60~’70年代を生き抜いた男の生きざま、女のいきざまを描いた五木の最も存在理由の深かったかなり前の作品集の復刻です。いまや五木寛之は、仏教精神にすがりつき、人生釧めいた書ばかりを書いては儲けている作家になり下がりましたが、この時期の五木は掛け値なしですばらしい、と思います。どうぞ、楽しんでください。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃