ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

生という平衡感覚

2008-10-27 02:34:30 | 観想
○生という平衡感覚

生きるという営為のプロセスにおいて、人はしばしば自分でも想像し得なかったような力を発揮することに驚き、勇気を奮い立たせ、眼前の壁に立ち向かうことができる。またその一方で、想像を絶するほどの脱落感に襲われ、生きる意欲すら喪失することもある。これが人生か、と思い切れれば苦労はなかろうが、人は自己の内面に起る心の高揚感と失楽観との狭間で右往左往しつつ生きているというのが、人生というものの妥当なとらまえ方ではなかろうか?それは日常語で言えば、人生の喜びであり、また哀しみでもある。人はこのような両極の間を行きつ戻りつしながら、自分の内面と向き合いながら、なんとか折り合いをつけつつ日常という地平を命の限り生き抜く。問題なのは、折り合いのつけかたなのではないか、と僕は思う。

この世界に生を受けて以来、自分では少々永すぎると思える人生行路を走り抜けてきた。人生、山あり谷あり、というが、僕の場合は谷底でもがいている時期の方が圧倒的に永い。その過程で何度か死と直面したが、その度に何故か生き残った。たぶん神を信じる人であるなら、神に自分は生かされていると錯誤してもおかしくはない生き残り方である。僕は絶対者を信じない人間ゆえに、単なる確率の問題だろう、と思っているし、その確率の問題から言えば、何でもない事柄で、唐突なる死を甘受して差し支えないと覚悟してもいる。たぶんこのような考え方はずっと以前から抱いていた感覚であるから、時によって、人生を投げやりに生き、またある時には、どうせ永くはない命なのだ、居直るしかないではないか、とタカを括って生きてきた感が強い。たぶん、この種の生きざまからは、他者に対する優しさや思いやりという感覚は、日常的に見慣れた現れかたをしなかっただろうことが、いまになって理解できる。簡単に言うと、たぶんに自分勝手な表現手段しか持ち合わせていなかった、ということである。人を傷つけただろうし、それにも気づかず自分では真逆の解釈をしていたのかも知れない。

 教師という仕事に就いた時期があった。自分では、最悪の困難に陥った生徒の助けになった、と思い込んでいた。しかし、心のどこかに不全感がずっと居座り続けていた。自分は何かを見逃してはいまいか?という疑念がどうしても拭えなかった。忘れられないままに永いときが過ぎ去った。その後、僕は当然のごとく、教師という仕事からはみ出し、現在に至る。何かの偶然なのか、僕の心の中にわだかまり続けていた生徒も大人の女性になり、ある日僕のもとを訪ねて来てくれた。彼女の話からやはり自分の中の不全感は根拠あるものであり、彼女を救えたかに見えて、その実、自分のなし得たことと言えば、自己満足程度のことに過ぎなかったことを思い知らされた。彼女の苦悩はもっとずっと深いところにあった。僕は彼女の苦悩を根底のところで見抜いてやれなかった。会いに来てくれたとき、彼女はすでに日常語で言うところの幸福など掴めぬところまで追い詰められていた。絶望感が僕を再び追い詰めた。彼女が置かれている立場や環境の本質を彼女に伝えること以外に僕に出来ることなど何一つなかっただろう。

しかし、人は助けるも、助けられるも、その時宜を逸すると、有効な言葉も無効になってしまう。約10日間の彼女との対話の結末は、実ることなく再び彼女を明らかな苦境の中に戻すことにしかならなかった。彼女の裏切りなどではない。明らかに僕の不甲斐なさゆえの出来事である。彼女が直面している環境と人との関係性の重さに想いを馳せれば、彼女の心の内面にもっと深く届く言葉を投げおくれたはずなのだ。再び大きな不全感に見舞われている自分を認識せざるを得ないが、残念ながら、いまとなっては、「タラ・レバ」の範疇での言葉の重みなどで、彼女の心を動かすことなど出来はしなかったのだろうとも思う。

救いのない結末が彼女には待ち構えているだろう。そして、彼女に関わりながら、何の助けにもなれなかった僕の心も救いのない状況に陥っている。いまさら理屈で自分の不甲斐なさを塗り固めるつもりはない。また、開き直る意図もない。この欠落感を忘却したり、安逸な埋め合わせをすることなく、残された生を、またこつこつと生き抜くだけである。決して自己正当化もしない。出入りの激しかった自己の生に、真実を誤魔化すことのない平衡感覚だけは付加しつつ、それを抱き続けながら生を全うしようと思う。少なくとも、いま、この時点で、彼女には生き残っていてほしい、と心底願う。

○推薦図書「迷宮遡行」貫井徳郎著。新潮文庫。人生のラビリンスに迷い込んだ人間の本質をミステリーという手法を使って、描き切った感のある良書です。この作者は才能に溢れています。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃