○シナリオなき人生劇場としての生の舞台から、絶対に降板はしないでいよう、と思う
人生とは凡庸で、退屈極まりなく、社会通念や社会制度という牢獄のような、身動きのとれないものだ、と考えることも出来れば、角度を変えて眺め直してみれば、生とはまさにシナリオなき人生劇場そのものだとも言えるのではなかろうか。もし生が人生劇場的舞台の上で繰り広げられるシナリオなき活動の連続体であるとすれば、人は各々の生という演技力を常に磨きつつ、鍛練し尽くした演技を劇場舞台の上で、観客である他者に対して余すところなく述べ伝えなくてはならないのだろう。このように人生を劇場にたとえるとするならば、自己の演技力としての生の力を鍛えるべき、孤独なリハーサルの時期を除けば、本舞台における磨き抜かれた演技としての生は、観客という他者抜きには意味をなさない。それが切なきひとり芝居であれ、芝居を投げかけられる他者としての観客は必ずいる、ということである。どのような形態の芝居であれ、人生劇場にはあくまでシナリオなき生の発露の場が眼前に広がっているのである。シナリオという言葉を敢えて使うとするなら、人はどこまでも自分自身の力で、自分固有のシナリオを即興で書きあげなくてはならないだろう。それが人生というものの本質ではあるまいか。
人を愛し、愛を愛しむことのできない精神性など、人生劇場に登場する役者としてはヘボ役者、いつまでも自分の控室も与えられない大部屋つきの冴えない役者だろう。できることなら人生、真っ向勝負で貫いて、人生劇場の役者として、主役がはれる人間になりたいものだが、このまま舞台が進行していくとすると、僕などは、役どころの定まらぬ脇役で終わるならまだしも、劇場の舞台の上にも立てぬままに、人生劇場から寂しく降板していくのがオチではなかろうか。最近つくづくそう思えてならないのは、単なる気弱のなせる業なのか、はたまた努力の甲斐なく表舞台から姿を消してゆく、はかないやさぐれ役者のなれの果ての姿が見え隠れしているからなのかも知れない。すでに実人生からリタイアする年齢だ。なのにまともな年寄り役すらこなせず、性懲りもなく、いまだに青年の役どころに憧れ続けているという、この精神性はいったいなにものであろうか?
しかし、これがまぎれもない僕の実像なのである。たとえて言うなら、人生劇場の舞台から落っこちて、ニッチモサッチモ立ち行かなくなったドジな落ちこぼれ役者なのである。 とは言え、僕はまだ人生劇場から降りたわけではない。さらに言うと人生劇場の舞台から降板して忘れ去られた役者でもない。ヘボでもやはりいまだ現役なのである。死の瞬間が訪れるまで、たぶん名優には決してなれはしないが、ヘボのままに周囲から引退を促されつつも、厚顔にも脇役に甘んじつつ、しぶとく進歩のない演技を続けていることだろう。観客のブーイングに気おされることもなく、舞台から降りぬ覚悟を僕は心密やかに決めているのである。 ならば、これからの僕にとって必要なのは、派手な舞台の上に舞う女優なのではない。女優はあくまで芝居の上における主役なのであって、脇役の僕に主役級の、個性主義の相手役の女優は必要ない。主役と絡む場面すらないだろう。またそのようなことも望んではいない。いま、僕に必要なのは、多くの観客の大きな拍手でもなく、名声でもない。 数は圧倒的に少なくとも、脇役の存在を静かに認めてくれる眼力のある少数派の観客と、舞台のソデから稽古を伴にした数少ない同じ脇役の静かで、豊かな鑑賞眼だけである。たぶん、僕の役者としての、そして人間としての評価はこの人たちによって定まるだろう。それで構わない。かつてはド派手な活躍を夢見た青年俳優も、いまや老いさらばえ、老いゆえの力なき、それでいて渋みのある演技が出来ればそれで満足だと思っている。人生とは諦念の歴史だと言って憚らない人々もいるが、僕の脇役としての人生とは、決して諦念の結末が招いたものではない。むしろ、老いてもいまだ老いたしぶとさで、残り少なき人生を、他者との関わりの中で全うしようとしている。それが人生劇場における僕の覚悟である。今日の観想である。
○推薦図書「セルフ・ヘルプ」 ローリー・ムーア著。白水Uブックス。「作家になる方法」「別の女になる方法」といった一見してハウツーものの文体で、まるで実際の自分とは別人になれるかのごときパロディに徹し切った彼女の作品は、現代人の孤独な人生も並はずれた彼女のユーモア感覚で、深い哀しみすら何ほどか生の営みの中に溶け込ませてしまうような不可思議な世界が繰り広げられています。お勧めの書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人生とは凡庸で、退屈極まりなく、社会通念や社会制度という牢獄のような、身動きのとれないものだ、と考えることも出来れば、角度を変えて眺め直してみれば、生とはまさにシナリオなき人生劇場そのものだとも言えるのではなかろうか。もし生が人生劇場的舞台の上で繰り広げられるシナリオなき活動の連続体であるとすれば、人は各々の生という演技力を常に磨きつつ、鍛練し尽くした演技を劇場舞台の上で、観客である他者に対して余すところなく述べ伝えなくてはならないのだろう。このように人生を劇場にたとえるとするならば、自己の演技力としての生の力を鍛えるべき、孤独なリハーサルの時期を除けば、本舞台における磨き抜かれた演技としての生は、観客という他者抜きには意味をなさない。それが切なきひとり芝居であれ、芝居を投げかけられる他者としての観客は必ずいる、ということである。どのような形態の芝居であれ、人生劇場にはあくまでシナリオなき生の発露の場が眼前に広がっているのである。シナリオという言葉を敢えて使うとするなら、人はどこまでも自分自身の力で、自分固有のシナリオを即興で書きあげなくてはならないだろう。それが人生というものの本質ではあるまいか。
人を愛し、愛を愛しむことのできない精神性など、人生劇場に登場する役者としてはヘボ役者、いつまでも自分の控室も与えられない大部屋つきの冴えない役者だろう。できることなら人生、真っ向勝負で貫いて、人生劇場の役者として、主役がはれる人間になりたいものだが、このまま舞台が進行していくとすると、僕などは、役どころの定まらぬ脇役で終わるならまだしも、劇場の舞台の上にも立てぬままに、人生劇場から寂しく降板していくのがオチではなかろうか。最近つくづくそう思えてならないのは、単なる気弱のなせる業なのか、はたまた努力の甲斐なく表舞台から姿を消してゆく、はかないやさぐれ役者のなれの果ての姿が見え隠れしているからなのかも知れない。すでに実人生からリタイアする年齢だ。なのにまともな年寄り役すらこなせず、性懲りもなく、いまだに青年の役どころに憧れ続けているという、この精神性はいったいなにものであろうか?
しかし、これがまぎれもない僕の実像なのである。たとえて言うなら、人生劇場の舞台から落っこちて、ニッチモサッチモ立ち行かなくなったドジな落ちこぼれ役者なのである。 とは言え、僕はまだ人生劇場から降りたわけではない。さらに言うと人生劇場の舞台から降板して忘れ去られた役者でもない。ヘボでもやはりいまだ現役なのである。死の瞬間が訪れるまで、たぶん名優には決してなれはしないが、ヘボのままに周囲から引退を促されつつも、厚顔にも脇役に甘んじつつ、しぶとく進歩のない演技を続けていることだろう。観客のブーイングに気おされることもなく、舞台から降りぬ覚悟を僕は心密やかに決めているのである。 ならば、これからの僕にとって必要なのは、派手な舞台の上に舞う女優なのではない。女優はあくまで芝居の上における主役なのであって、脇役の僕に主役級の、個性主義の相手役の女優は必要ない。主役と絡む場面すらないだろう。またそのようなことも望んではいない。いま、僕に必要なのは、多くの観客の大きな拍手でもなく、名声でもない。 数は圧倒的に少なくとも、脇役の存在を静かに認めてくれる眼力のある少数派の観客と、舞台のソデから稽古を伴にした数少ない同じ脇役の静かで、豊かな鑑賞眼だけである。たぶん、僕の役者としての、そして人間としての評価はこの人たちによって定まるだろう。それで構わない。かつてはド派手な活躍を夢見た青年俳優も、いまや老いさらばえ、老いゆえの力なき、それでいて渋みのある演技が出来ればそれで満足だと思っている。人生とは諦念の歴史だと言って憚らない人々もいるが、僕の脇役としての人生とは、決して諦念の結末が招いたものではない。むしろ、老いてもいまだ老いたしぶとさで、残り少なき人生を、他者との関わりの中で全うしようとしている。それが人生劇場における僕の覚悟である。今日の観想である。
○推薦図書「セルフ・ヘルプ」 ローリー・ムーア著。白水Uブックス。「作家になる方法」「別の女になる方法」といった一見してハウツーものの文体で、まるで実際の自分とは別人になれるかのごときパロディに徹し切った彼女の作品は、現代人の孤独な人生も並はずれた彼女のユーモア感覚で、深い哀しみすら何ほどか生の営みの中に溶け込ませてしまうような不可思議な世界が繰り広げられています。お勧めの書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃