ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

シナリオなき人生劇場としての生の舞台から、絶対に降板はしないでいよう、と思う

2008-10-17 21:00:33 | 観想
○シナリオなき人生劇場としての生の舞台から、絶対に降板はしないでいよう、と思う

人生とは凡庸で、退屈極まりなく、社会通念や社会制度という牢獄のような、身動きのとれないものだ、と考えることも出来れば、角度を変えて眺め直してみれば、生とはまさにシナリオなき人生劇場そのものだとも言えるのではなかろうか。もし生が人生劇場的舞台の上で繰り広げられるシナリオなき活動の連続体であるとすれば、人は各々の生という演技力を常に磨きつつ、鍛練し尽くした演技を劇場舞台の上で、観客である他者に対して余すところなく述べ伝えなくてはならないのだろう。このように人生を劇場にたとえるとするならば、自己の演技力としての生の力を鍛えるべき、孤独なリハーサルの時期を除けば、本舞台における磨き抜かれた演技としての生は、観客という他者抜きには意味をなさない。それが切なきひとり芝居であれ、芝居を投げかけられる他者としての観客は必ずいる、ということである。どのような形態の芝居であれ、人生劇場にはあくまでシナリオなき生の発露の場が眼前に広がっているのである。シナリオという言葉を敢えて使うとするなら、人はどこまでも自分自身の力で、自分固有のシナリオを即興で書きあげなくてはならないだろう。それが人生というものの本質ではあるまいか。

人を愛し、愛を愛しむことのできない精神性など、人生劇場に登場する役者としてはヘボ役者、いつまでも自分の控室も与えられない大部屋つきの冴えない役者だろう。できることなら人生、真っ向勝負で貫いて、人生劇場の役者として、主役がはれる人間になりたいものだが、このまま舞台が進行していくとすると、僕などは、役どころの定まらぬ脇役で終わるならまだしも、劇場の舞台の上にも立てぬままに、人生劇場から寂しく降板していくのがオチではなかろうか。最近つくづくそう思えてならないのは、単なる気弱のなせる業なのか、はたまた努力の甲斐なく表舞台から姿を消してゆく、はかないやさぐれ役者のなれの果ての姿が見え隠れしているからなのかも知れない。すでに実人生からリタイアする年齢だ。なのにまともな年寄り役すらこなせず、性懲りもなく、いまだに青年の役どころに憧れ続けているという、この精神性はいったいなにものであろうか?

しかし、これがまぎれもない僕の実像なのである。たとえて言うなら、人生劇場の舞台から落っこちて、ニッチモサッチモ立ち行かなくなったドジな落ちこぼれ役者なのである。 とは言え、僕はまだ人生劇場から降りたわけではない。さらに言うと人生劇場の舞台から降板して忘れ去られた役者でもない。ヘボでもやはりいまだ現役なのである。死の瞬間が訪れるまで、たぶん名優には決してなれはしないが、ヘボのままに周囲から引退を促されつつも、厚顔にも脇役に甘んじつつ、しぶとく進歩のない演技を続けていることだろう。観客のブーイングに気おされることもなく、舞台から降りぬ覚悟を僕は心密やかに決めているのである。 ならば、これからの僕にとって必要なのは、派手な舞台の上に舞う女優なのではない。女優はあくまで芝居の上における主役なのであって、脇役の僕に主役級の、個性主義の相手役の女優は必要ない。主役と絡む場面すらないだろう。またそのようなことも望んではいない。いま、僕に必要なのは、多くの観客の大きな拍手でもなく、名声でもない。 数は圧倒的に少なくとも、脇役の存在を静かに認めてくれる眼力のある少数派の観客と、舞台のソデから稽古を伴にした数少ない同じ脇役の静かで、豊かな鑑賞眼だけである。たぶん、僕の役者としての、そして人間としての評価はこの人たちによって定まるだろう。それで構わない。かつてはド派手な活躍を夢見た青年俳優も、いまや老いさらばえ、老いゆえの力なき、それでいて渋みのある演技が出来ればそれで満足だと思っている。人生とは諦念の歴史だと言って憚らない人々もいるが、僕の脇役としての人生とは、決して諦念の結末が招いたものではない。むしろ、老いてもいまだ老いたしぶとさで、残り少なき人生を、他者との関わりの中で全うしようとしている。それが人生劇場における僕の覚悟である。今日の観想である。

○推薦図書「セルフ・ヘルプ」 ローリー・ムーア著。白水Uブックス。「作家になる方法」「別の女になる方法」といった一見してハウツーものの文体で、まるで実際の自分とは別人になれるかのごときパロディに徹し切った彼女の作品は、現代人の孤独な人生も並はずれた彼女のユーモア感覚で、深い哀しみすら何ほどか生の営みの中に溶け込ませてしまうような不可思議な世界が繰り広げられています。お勧めの書です。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

コングラッチュレーションズ!(Congratulations!)

2008-10-17 00:06:15 | 観想
○コングラッチュレーションズ!(Congratulations!)

人間この歳まで生きていると、なかなか自分の年齢に伴う環境の変化を自覚出来ないもので、時折耳に入ってくる、かつての友人の訃報や、病変による体力の衰えや、エリート社員だったのに、リストラされただとか、妻に先立たれたというような不幸な現実を前にすると、さすがにいかに自分が年老いたのか、諒解できる。何となく自分の生活の変化に対応するのに必死なときは、友人たちは無事に人生行路を歩んでいるはずなのに、いったいこの俺は何をやっているのやら、という慨嘆ばかりが漏れるのだが、それにしても、自分が如何に壊れていようと、かつての友人たちが、かつてのイメージのままに、人生を闊歩してくれていると思うだけで、安心させられもする。無論同時に友人たちへのある種の羨望が裡に湧いてくるのも否定はしないが、僕の場合は圧倒的に、友人たちの人生に対する揺るぎない足場の確立を望んでいて、またその望みが多分に僕の精神の安定に役立ってもいる。その意味で、追放された、かの学園に対する恨み・つらみは確かにあるし、そこで何らの友情も育めなかった自分を情けなくも思うが、それ以前・以後に築いた人々との関係性における不幸な変化を聞くのは、自分の結構惨めっぽい現実がありながらも、そのことはさておいて、彼らに対する入れ込みようはただならぬものがあり、自分の危うい生の足場すらさらに危うくなってしまう。世の中、いったいどうなっているのか?という大きな疑問符が頭の中をぐるぐると回る。

特に青年の頃の友人たちの勇壮な姿が瞼に焼き付いているだけに、彼らのうちの誰かの訃報などが入ってくると、僕自身の存在理由を揺るがせるに十分な影響をもっている。彼らの死によって、自分の生への拘りが増すのではない。すでに自分の生への執着心など、どれほど微細なものであるか、十二分に検証済みである。そんな感情よりも、自分がかつて生き抜いた青春の頃の、あるいは教師を追放された後の苦悩の渦中の思念そのものが誰それの死という現実によって揺らいでくるのを如何ともし難いのである。

人は、どのように孤独に見えても、あるいはいっとき、孤立という状況下に置かれようとも、そこから這い上がれるのは、たとえその瞬間において、幻像であれ、幻像こそが精神の地獄を彷徨っている自分を鼓舞してくれる大切な要素であり、その意味において、人間における孤独や孤立というものは、確かな精神の絆によって支えられているのではないか、と僕は思う。いまは幻像であれ、その幻像の中に確かな内実が、かつて存在したというリアリティは、いまの苦しみを超克させ得る力をもっている。だからこそ、人は、かつて深く関わった他者に対して如何なるジェラシーの念も、恨みの感情も抱くべきではない。他者の成功は、自身の不幸を乗り越えさせてくれる心の栄養を与えてもくれるからだ。

成功の渦中にある関わりの深き他者の突然の死、あるいは成功という衣を剥ぎ取られて末の自死という行為は、深く自分を落ち込ませる要素を孕んでいる。それこそ自意識過剰なのかも知れないが、自分が死に見舞われる方がよほどましではないか、とすら感じてしまう。だが、同時に先に死にゆく者たちが、不幸だとは限らないのではないか、とも思う。死とはもともと不条理なものなのである。不条理性がどのような形であれ、襲ってきたとしても、僕と関わった人々であるなら、当然に僕以上に不条理な死というリアリティを理解しているはずだろうし、死する瞬間に、自己の生の総括をきちんとやるはずである。それが自分の死の後に残る形としての総括なのか、あるいは物言わず死を受け入れるのかは別にして、彼らは彼らなりに、自己の生の総括を残された時間の中でしっかりとやり切っているに違いない、と思うことにした。そうであれば、たとえ短い生を閉じたにせよ、彼らに対して、彼らの死そのものに深く共鳴しなければならないと思う。そうして、彼らに直接届かぬにせよ、ごくろうさん!というひと声をかけてやろう、とも思う。人はいずれは自己の死を受容しなければならないのである。一回性の生を閉じなければならないのである。死というリアリティは平等にやってくる。だから、いまは死した友人たちに対して、ごくろうさん!という言葉とともに、コングラッチュレーションズ!という言葉をかけることで、彼らの死を物理的な生の停止という状況からさらなる高みへと止揚せしめようと思う。深き敬意を込めて。今日の観想とする。

○推薦図書「ラブコメ今昔」 有川浩著。角川書店刊。僕のようなおっさんから見れば、実に幼い居直りが原点になっているような短編集です。が、この作家にはおっさんをも惹きつける魅力が確かにあります。年齢に関わりなく、偏見を捨ててお読みください。お勧めです。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃