○美醜という問題について考える
美と醜というテーマは永遠に人を捉えて離さない観念である。再度言い直すと、美と醜とは、具象的なる存在では決してなく、あくまで観念的な存在物なのである。シェイクスピアが魔女に言わせた言葉-きれいはきたない。きたないはきれい。-に凝縮されているように、美は醜となり、醜は美ともなり得る存在である。つまり人は観念の世界において、ある存在物や出来事を美しいと感じ、はたまた醜いと感じるのである。人の感得する美醜とは、あくまで観念の生み出したドラマとして感受できるものである。
人はときとして、自他の表層的な現れだけを指して、美しいと言ったり、醜いと言ったりする。確かに表層的な美醜はある距離感を置けば、それがあたかも単なるオブジェのごとき存在として使い得る観想ではあるだろう。とりわけこの種の観想は、芸術作品や自然現象には該当すると思われる。しかし、人が他者を評する場合における美醜の判断素材などにあまり明確な根拠はない。さらに言えば、人が人を美しいと言ったり、醜いと言ったりする場合、判断する側の人間の内奥の美意識のあり方によって、美醜の決め方は異なるのは当然のことである。つまりは表層的なものに惹きつけられるごとき、安逸な価値基準しか持ち得ない人間には、美醜は、あくまで表面的なそれでしかない。無論そこには判断する人間の、分析不能な<きれいはきたない。きたないはきれい>という倒錯した観念が介在するのは必然でもある。さらに平たく言うと、世の中に蔓延るきれい、ときたないという区別ほど信用に値しないものはない、ということである。
美しいとか醜いと評価される側の人間にとって、それは性別を超えて、自己評価にどれほど確信が持てるか、という一点によって、その人独自の美醜が決定づけられる。つまり人は自分を美しいと感じることが出来れば、あくまで美しいのであり、自分を醜いと錯誤したその瞬時に、人は美とは永遠に隔絶した位置にまで遠ざかることになる。
そうであれば、人間における美醜の問題とは、判断者においては、あるときにはきれいはきたないということになり、別の場合においてはその真逆の判断が下されることになる。それはあくまで根拠の希薄な心の領域で決定づけられるような脆弱なる結果論に過ぎないのではないか?あるいは評価される側の人間にとっては、自己肯定感の確信の強弱によって、決定づけられるものではなかろうか?自己肯定を個性の歪曲なく出来る人間は、自分を美しいと感じることができ、自己肯定どころか自己否定が勝る人間にとっては、個性が歪曲した分だけ、自己の醜悪さが増すのである。
このように人の美醜の価値判断の基準など、どこまで行っても曖昧で表層的な主観主義が支配する心の領域で生起する問題であり、美しさが醜さに、醜さが美しさに変動する性質を持った価値基準である。勿論、人は美しいと感じるがゆえに美しい他者を愛でるのであるが、その美しさそのものが、事のはじまりから変動を繰り返す可能性に満ちた存在なのである。心変わりという、昔ながらの表現にはたぶんこの種の思想が底に在る。心変わりしたその瞬時、美は醜となり果てる。人の心の酷薄さは意外に美醜の価値基準において、分かりやすく現出するのである。
人は、心だけが清らかであっても美しいとは定義づけられない。無論肉体だけが整っていたとしても美しいと言えないのは当然である。何故なら、人の存在とは、心と身体という総合体として捉え得るものであり、それを<からだ>という概念で規定すれば、当然のごとく、人の美醜とは心と身体の総合体としての<からだ>の美しさそのものであり、心と身体を分離した美醜の規定など何ほどの意味もないのは当然であろう。人の美しさとは、あくまで<からだ>の美しさと同義語である。<からだ>の美しさが崩れれば、当然のごとく、<きれいはきたない。きたないはきれい。>という倒錯が生じる。人の美醜とは煎じ詰めれば、このようなものではなかろうか?今日の観想である。
○推薦図書「愛の衣裳」伊藤俊治著。ちくま文庫。20世紀の夜にざわめくいまだ知られざる身体>の可能性を、刻印されたヌードという素材をもって論じています。作者の卓抜な筆力が、身体の美をあますところなく描いています。無論僕の論理の片面における論証です。よろしければどうぞ。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
美と醜というテーマは永遠に人を捉えて離さない観念である。再度言い直すと、美と醜とは、具象的なる存在では決してなく、あくまで観念的な存在物なのである。シェイクスピアが魔女に言わせた言葉-きれいはきたない。きたないはきれい。-に凝縮されているように、美は醜となり、醜は美ともなり得る存在である。つまり人は観念の世界において、ある存在物や出来事を美しいと感じ、はたまた醜いと感じるのである。人の感得する美醜とは、あくまで観念の生み出したドラマとして感受できるものである。
人はときとして、自他の表層的な現れだけを指して、美しいと言ったり、醜いと言ったりする。確かに表層的な美醜はある距離感を置けば、それがあたかも単なるオブジェのごとき存在として使い得る観想ではあるだろう。とりわけこの種の観想は、芸術作品や自然現象には該当すると思われる。しかし、人が他者を評する場合における美醜の判断素材などにあまり明確な根拠はない。さらに言えば、人が人を美しいと言ったり、醜いと言ったりする場合、判断する側の人間の内奥の美意識のあり方によって、美醜の決め方は異なるのは当然のことである。つまりは表層的なものに惹きつけられるごとき、安逸な価値基準しか持ち得ない人間には、美醜は、あくまで表面的なそれでしかない。無論そこには判断する人間の、分析不能な<きれいはきたない。きたないはきれい>という倒錯した観念が介在するのは必然でもある。さらに平たく言うと、世の中に蔓延るきれい、ときたないという区別ほど信用に値しないものはない、ということである。
美しいとか醜いと評価される側の人間にとって、それは性別を超えて、自己評価にどれほど確信が持てるか、という一点によって、その人独自の美醜が決定づけられる。つまり人は自分を美しいと感じることが出来れば、あくまで美しいのであり、自分を醜いと錯誤したその瞬時に、人は美とは永遠に隔絶した位置にまで遠ざかることになる。
そうであれば、人間における美醜の問題とは、判断者においては、あるときにはきれいはきたないということになり、別の場合においてはその真逆の判断が下されることになる。それはあくまで根拠の希薄な心の領域で決定づけられるような脆弱なる結果論に過ぎないのではないか?あるいは評価される側の人間にとっては、自己肯定感の確信の強弱によって、決定づけられるものではなかろうか?自己肯定を個性の歪曲なく出来る人間は、自分を美しいと感じることができ、自己肯定どころか自己否定が勝る人間にとっては、個性が歪曲した分だけ、自己の醜悪さが増すのである。
このように人の美醜の価値判断の基準など、どこまで行っても曖昧で表層的な主観主義が支配する心の領域で生起する問題であり、美しさが醜さに、醜さが美しさに変動する性質を持った価値基準である。勿論、人は美しいと感じるがゆえに美しい他者を愛でるのであるが、その美しさそのものが、事のはじまりから変動を繰り返す可能性に満ちた存在なのである。心変わりという、昔ながらの表現にはたぶんこの種の思想が底に在る。心変わりしたその瞬時、美は醜となり果てる。人の心の酷薄さは意外に美醜の価値基準において、分かりやすく現出するのである。
人は、心だけが清らかであっても美しいとは定義づけられない。無論肉体だけが整っていたとしても美しいと言えないのは当然である。何故なら、人の存在とは、心と身体という総合体として捉え得るものであり、それを<からだ>という概念で規定すれば、当然のごとく、人の美醜とは心と身体の総合体としての<からだ>の美しさそのものであり、心と身体を分離した美醜の規定など何ほどの意味もないのは当然であろう。人の美しさとは、あくまで<からだ>の美しさと同義語である。<からだ>の美しさが崩れれば、当然のごとく、<きれいはきたない。きたないはきれい。>という倒錯が生じる。人の美醜とは煎じ詰めれば、このようなものではなかろうか?今日の観想である。
○推薦図書「愛の衣裳」伊藤俊治著。ちくま文庫。20世紀の夜にざわめくいまだ知られざる身体>の可能性を、刻印されたヌードという素材をもって論じています。作者の卓抜な筆力が、身体の美をあますところなく描いています。無論僕の論理の片面における論証です。よろしければどうぞ。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃