ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

破壊・再構築・新生へ

2008-10-15 01:18:31 | 観想
○破壊・再構築・新生へ

人間、どんなところから生のホツレが出てくるかも知れない。そんなつもりは毛頭なかったということで、いったいどれほどの人々が順調な人生をフイにしていることか。しかし、さらによく考えてみれば、順調なはずの生に何らかのホツレが出てしまうというのは、もともと順調さという名のもとに隠された、生活の土台が腐りかけていた事を意味しているのではなかろうか。
 
腐った土台は、その根底から覆せ、というのが僕の目論見である。土台の意味をなさないものは破壊してこそ、新たな価値観の再構築が始まるのではないか?無論再構築という概念性そのものが、散逸してしまった旧価値のはしくれを採り集め、新たなネジで無価値なはしくれを繋ぎ合わせ、そこに内実を与えること。これが、再構築の本来の意味である。デ・コンストラクションとは、あくまで旧価値の枠内における価値の組み直し作業と考えればよい、と思う。現代フランス思想の出発点はまさにここにあるのであって、フランスという国が生み出してきた価値とは、本質的に保守的と言えなくもない。こんなことを書くと、フランスから次々と発信される左翼思想の代表格としてのジャンポール・ボードリアールなどは草場の陰から恨み事の一つも言うに決まっているだろうが、敢えて僕は、デ・コンストラクションを保守的な思想的土壌における旧思想の真摯な組み直し作業と称することにする。この段階における人間の思想の枠組みは、過去における成功体験なり、忘却したき思想の頽落などを、再構築の後にまで引きずるような悪しき可能性に満ちている。

無論、過去における経験知が含まれている限りにおいては、思想とあくまで真摯に向き合い、散見してしまった価値の一つ一つの評価を下し、砂の中からキラリと光る小石を拾い集めるがごときの、忍耐強い知的作業が必要であろう。自分のかつてのカウンセラーという仕事に引きつけて考えれば、カウセリングにおけるクライアントの過去の意識と行動の拾い集めの知的作業が、哲学的には、デ・コンストラクションの段階と言えなくもない。だからこそデ・コンストラクションという思想的営為が欠落したところに、新たな価値は絶対に芽生えることはないし、これをクライアントの問題として考えるとき、クライアントの過去という遺物の思想的な洗い流しなしに、単につらい過去を放り投げよ、などという無責任で、無思想なるカウンセリングなど、どこに存在価値などあろうか、と僕は思う。あくまでデ・コンストラクションの果てにこそ、まったく新しい価値意識の土台が構築され得るのである。

これを新生と呼ばずして何と称することができようか?人生に新生の可能性を感じられない場合、人は確実に死に至る。その意味において、人生とは本来死と背中合わせの関係性にあると言って過言ではないだろう。人は必ず、自己の人生に対して意識的にならざるを得ない時期が訪れる。それは生きている限りにおいて、度々訪れるはずである。人が意識的になったとき、思想上のデ・コンストラクションがはじまり、勿論、旧価値の再構築からは、新たなる再生、つまりは新生という革命的な精神のドラマなど、起こり得ない。この意味において、僕たちは常に新生を繰り返しながら生を全うしていかなければ、生きている意味など無きに等しいのである。無意識に生き、それこそ息絶えたならば、それを死と呼ぶがごとき、無知ゆえの恐るべき無思想には陥るまい。生き続けるならば、生の磁場に常に新生の可能性を秘めているような生きかたをしないで、何を生と呼べるであろうか?生はあくまで、旧価値の破壊から再構築へ、さらに新生へと進化していくべき可能性そのものではなかろうか?それなくして、人は生きているとは言えないのではなかろうか?今日の観想である。


○推薦図書「第十一の戒律」A・グリュックスマン著。新潮社刊。この書を推薦するのは、僕にとっては、上記の論考が覆る可能性を秘めた、力のある書です。それでも敢えて勇気をもって推薦します。お勧めです。どうぞ。

文学ノートかつてぼくはここにいた
長野安晃