ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

生きた痕跡など残したいとは思わないな

2008-10-29 04:56:40 | Weblog
○生きた痕跡など残したいとは思わないな

僕の思い過ごしかも知れないが、人はどのような個性に生まれついても、自己主張という欲動からは自由にはなれないような気がする。目立ちたくないと言う人も、それは、文字どおりの自己主張という意味合いの反証としての現れなのであって、まったく自己を圧殺して生きることなど本来、人間には出来はしない、と僕は思う。自己主張とは何も自己の考えを表出するという狭い範囲に閉じ込めて捉える必要はない。この世界において、自分の意思に従って何らかの形で、自己表現をしたいと思い、この世界の中に生きている限りにおいて、生きる意味を模索しつつ生を全うするという行為そのものが、自己表現であり、自己表出である。むしろ人の心に深い傷のごときものが刻まれ、自己表現の機会を隠ぺいしたくなるような心性こそ、限りなく不幸なことなのではなかろうか。

自己表現するためには、当然のごとく他者の存在を抜きにしては語れない。物言わぬ壁に向かって物申すなどという行為は虚しく、また切ない行為であろう。己れの存在を語るには、必然的に語るべき対象があってこそ、自己表現に意味が付加されるのである。派手に世の中の注目を集められる人も、市井の人として生を閉じる人も、自己表出という意味合いにおいては、同質量である。つまりは自己表現という領域においては、有名・無名を問わないものだろう。正直に告白しておくと、僕自身は、個性的な問題なのだろうが、どのように差っ引いても、派手に世界に向かって自己表出をしたい人間である。その意味においては、いまに至るも、いかにも派手というには正反対の生きかたしか出来ていないわけで、自己評価としては、明らかに敗北した側の人間としての感性を抱いたままに、生を閉じることになるのだろう、と思う。まあ、自分の志向が分かっていながら、そうできなかったのだから、明らかに力量がなかったということだろう。致し方ない。これが自分の能力の限界か、と思う。生ある限り自己の志向の実現に関しては、決して諦めることはないが、答えは自ずと出てはいる。ただ、諦念という概念は僕には無縁なので、いつまでも辿り着けないものに対して、もがき続ける生涯なのではなかろうか?

ただはっきりと断言できることは、僕の欲動は生きている限りにおいてのそれであって、僕の自己表出の根強き願望は、自分の死をもって無に立ち返る。したがって、自己の死後のことなどは無責任なようだが、知ったことか、とも思う。僕から言わせれば、生きてナンボの世界こそが、世界そのものなのだ。だから、死しても自分の生きた痕跡を残したいという、かなり普通に通用する感覚は一切僕の裡にはない。僕にとっての死とは全ての終焉を意味するのであって、死後の世界など胡散臭い存在でしかないし、だからこそ僕は思想的には無神論者であり、政治的なスタンスにおいてはアナーキストであることを迷いなく貫きたいと思う。

死を迎えたら、様式化された死の儀式などまっぴらだし、衛生法などという法律などがなければ、死した自分の亡骸など、人の邪魔にならないところへでも棄ておいてくれればそれでよい。現実的にはそうもいかないのであれば、棺桶は値段がはりそうだし、日本は火葬で死者の後始末をするのであれば、大きめの段ボール箱にでも自分の遺骸を詰めてもらって焼いてもらえばよい。死の様式化に、つまらない金を使うくらいなら、生者のために使える金である方がどれほどよいか知れたものではない。馬鹿高い墓などもっての他だし、自分の死後の形式的な儀式めいたことも全てなきものにしたいと、死するときに書き遺そう、と思う。死者の遺言でもなければ、世間という目が死者である僕自身の意図を阻みかねないからである。繰り返すが、僕の中では死は全ての終焉である。終焉とは、その言葉どおりに、密やかにこの世界から立ち去るべきことを意味している、と信じて疑わない。

たぶん、僕の生は大いなる失策として終わるだろう。それならば、自己の死くらいは自己主張を貫きたいものだ、と心底思う。死者は死者らしくあくまでこの世界から静かに立ち去るべきであり、さらに言うなら、生の痕跡すら残す必要もないではないか。大切な誰それの記憶の中にしばらくの間、漠然としたイメージとして留まれれば、それに越したことはないが、他者と隔絶した死であってもそれでよし、とする。死するとき、出来る限り、己れの生の痕跡を残さず、この世界という舞台から去りたい。生という人生舞台から、自分の痕跡を綺麗さっぱりと取り払っておさらばしたい。どうと言うこともない観想だが、敢えて書き残す。

○推薦図書「ある意味、ホームレスみたいなものですが、なにか?」 藤井健伺著。小学館。死についての僕の勝手気儘な観想ですので、せめて推薦図書は、真逆の、生のドタバタ劇の中から生きる意味を見出せるような作品を推薦します。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃