ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

沈黙は金なり。ウソだろう?

2008-10-16 01:59:12 | 文学・哲学
○沈黙は金なり。ウソだろう?

沈黙という状態を、日本ではあまりにも過剰に評価する傾向があるように思う。言葉を発することの出来る人間が、敢えて言葉を拒絶するのである。そこに何らかの思惑があると考えるのが普通ではないだろうか?人がどのようなかたちであれ、某かの社会構造に組み込まれている場合、言語交通という手段は、その社会構造を円滑に機能させるための最も欠かせない重要なファクターである。人と人とがそれぞれ異なる価値意識を持ちながらも、言語交通という手段によって互いの異なる思想性を交わらせていくという土壌の上にしか、新たな価値の創造などという営為はまずなし得ないことである。異なる思想のぶつかり合いによってしか、人間が、人間にとって最も有意味な思想をかたち造り、その所属する社会を改善していくことなど出来はしないのである。もし、誰それが、議論を闘わせることを避けて沈黙という卑劣な行為を選択するのは、議論によって傷つきたくはない、という負け犬根性か、あるいはより積極的な、自らの意見を吐露しないことによって、自己の権威に対する従順さを主張するがごとき自己保身、あるいは暗黙による昇進への意思表示であるに違いない。沈黙することによって、自己保身や自己の従順さを権威に這いつくばって得ていくような心性を僕は心良しとはしない。沈黙するくらいならば、敢えて物申した上での敗北を僕なら選択するだろう。人間が生き続けるためには、自己主張に基づいた自尊心が何よりも必要である、と僕は信じる。

だいたいにおいて、沈黙は金なり、などとウソぶいている輩ほど、自らの沈黙が裏目に出る可能性があることを考えない。日本における沈黙の意味は、かつての古き日本の価値意識が現代に通用しなくなったときから、沈黙にもそれなりのリスクがついてまわることになったのである。このことを理解しないで、ある日突然リストラに遭ったり、あらぬところへと出向させられ、かつての地位を奪われるという悲喜劇の只中で、自身の身の処し方も分からないままに自死してしまうかのごとき自滅的行為の主因は、個としての人間の、手の届かない権威に対する唯一有効な手段-自意識を表現しようとする意思とその行為-を放棄した結果の、もの言えなかった人間の、無残な最期の姿である。大いに同情はするが、やはり僕には闘わずして、矢尽きた感を拭えない。

生きていくには、人はどのような仕事に就こうと、生きる勇気が必要である。この場合の勇気とは自己を自由に表現する意思力を育むということである。沈黙とは、まさに生きる勇気とは真逆の、勇気の反対概念である。ならば、人は生きるための勇気さえ裡に確固として保持していれば、死すら怖れはしないだろう。同じ死であれ、沈黙の果ての死と、自己を主張する意思を貫いて後の敗北によるそれとは、死の意味が異なる。その意味において、自己を主張出来なかった故の死など僕は認めないし、そのような死に方をするつもりもない。

とは言え、死とは常に不条理な存在でもあり、いくら自己の意思力を行使したとは言え、死は必ず平等に向こうからやってくる。この場合の<向こうから>というのは、特に宗教的なものを意味しない。死が不条理であるという別の表現であると認識してもらえればよい。不条理であるが故に、自己主張などという行為とは無縁の死も訪れる。病気や事故などによる死は、人の自由意思とは無関係なところから襲ってくる。予測不能な死など何とも胸糞が悪いが、それは受容するしかないだろう。要は、唐突な死が訪れるまでの、人それぞれの生きざまの問題である。後悔のない生きかたと後悔のない死とは同義語である。そうであるなら、生と真正面から向き合い、生を充溢させるように生き抜くべきだろう。生が長かろうが、短かろうが、そんなことは問題ではない。むしろ生の只中にいる間に、死を怖れるな!と強く言いたいだけである。沈黙は金なり、とはそもそも怖れに基づいた思想である。さらに言うなら、沈黙は負け犬の思想である。負け犬のままに死を迎えることなかれ!今日の観想とする。

○推薦図書「誘惑」 石川達三著。新潮文庫。もういまや石川文学を読む人は少ないのかも知れませんが、物語性としての生と死のモチーフがこの書にはふんだんに盛り込まれています。小説のおもしろさを見失ったとき、立ち戻るべき作家ではないでしょうか。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃