ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○ただ、おまえがいい。

2011-07-28 23:29:04 | Weblog
○ただ、おまえがいい。

いまは、すべてのカドがとれて、ええおとうちゃんみたいになってしまった中村雅俊だけど、デビュー当時、とくにこの歌を歌ってテレビドラマの主人公として活躍していた頃の中村は、先の見えない、心的には無目的に限りなく近い状態のまま閉塞しつつあった時代に、社会という、学生時代とは別次元の世界に飛び出そうとしていた若者たちに、大いなる勇気を与えてくれる、あるいは、そういう幻想を与えてくれる役者だった、と思う。同じ質の、いくつかのシリーズ番組を通して、中村は破天荒(といってもとても限られたものだったけれど)な青年を演じ、それぞれの主題歌を歌ったが、その中で特に深く記憶の底に眠っているのが、主題歌の題名なのか、単なる歌詞の中の言葉なのかは定かではないが、「ただ、おまえがいい」というイントロからはじまるこの歌だったのである。

うろ覚えの歌詞の一部を再現すると、「ただ、おまえがいい、煩わしさに投げた小石の、水平線の軌跡の中に、通り過ぎてきた青春のかけらが飛び跳ねて消えた。その照り返しを、頬笑みを、映しているおまえ~」なんてことだったと思う。勿論、当時の若者受けする恋歌だが、中村雅俊主演ドラマの内実と合わせて聞くと、生きることを考えつめて、生がどうにも煩わしいものだと感じてもいるけれど、それでも、えい!と手につかんだ小石を投げるように、心のあり方を変えようとする。その瞬時に青春という、特別の時間の中を生きてきた自分の生の軌跡も、それが生のかけらに過ぎないにしても、決して無意味でもなく、全否定すべきものでもないことが胸に落ちる。無論、青春のいっときの輝きは砕けて飛び跳ねて消失してしまうものであるにしろ、きっと、自分の青春のかたちは、自分の中なのか、誰かの心の中なのかは定かではないにしても、記憶の底に残り続けるものに違いない。この歌詞は、そんなふうに語りかけているような気がして、僕にとっては、忘れ得ぬものになった。映像と歌の旋律と中村雅俊の歌声は小さな組曲のごときものとして心の底に沈殿してもいる。「ただ、おまえがいい」とは、僕にとって、忘却の彼方へと捨て去るべきではないもの、換言すれば、若き頃に感得したすべてのものたちが、残像としてでも心の片隅に焼き付いているもの、という認識なのである。少なくとも僕にとっては、恋歌に託した大切なメッセージと同時に、幼い恋の行く末の見えなさ、先が見えないことによって惹起される不安感と不全感の、苦く、甘酸っぱい若さの残像そのものとして居座り続けている観想なのである。

「ただ、おまえがいい」という認識のありようは、この世界には、数えきれないほどの価値意識があるけれど、暗中模索しつつ、もがきながらたったひとつでも自分にとって意味あるもの、あるいは意味ある人との遭遇の価値を見据えることのできる能力ではなかろうか?そんなことは誰にでもできる、と豪語する人は幸いである。しかし、僕に言わせると、殆どの人間は、生の猥雑物にまみれながら、生の只中に在って、ひとり孤独に、自分にとっていったい何が大切なのだろうか?という自問をする瞬時が繰り返し現れ出るのではなかろうか、と思われてならないのである。たぶん、こういうことを考えているから僕はいつまでも自己のエイジングの実体と、観念の未成熟さというインバランスの只中に放り込まれているのだろうか、と慨嘆するのだろう。しかし、しかし、である。このインバランスの中にも、生の意味を見いだせる可能性は大いにある、とも思ってもいるのだから、なんとも、自分の存在自体がインバランスそのものなような気がしないでもない。みなさんは、どのような想いを抱いて日々をお過ごしなのだろうか?

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長野安晃


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