ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

語学と思想

2010-03-12 22:03:18 | Weblog
物事を考え詰めるという胆力が衰えてきていると感じた。こういうときは、読書の森の中に深く分け入っても、状況は好転しないということは経験上よく知り得ているのである。このような状況を敢えて言葉にするなら、日本語の思考回路が閉塞しかけているという表現がよく事実を物語っていると思われる。ドロっとした血液の流れの中にいくら新たな思想を流し込んでも、それは脳髄の中枢にまでは行き着くことなく虚しく宙づり状態になる。

思想を紡ぎ出すと云っても、そのコア-になる要素はあくまで言葉なのである。言葉に依らない思想というものは存在し得ないのである。言葉が思想となり、思想となった言葉が新たな思想の展開の大切なツールともなる。これは発話するかどうかという観点では推し量れない。発話の能力を何らかの病気で失ったとしても、人は考えるという行動をやめることが出来ないのである。角度を変えて云えば、いくら体が健康であっても、物事を積極的に考えない人間の存在理由はない。それは死に等しいからである。

考えようとしても、自己の思想が発展することなく、同じ円環の中をぐるぐると廻っているとしたら、やはり、機械が潤滑油を必要とするように、人間にも人間にふさわしい潤滑油を必要としていると思い直して、それ相応の対策を練る必要があるだろう。

僕にとっての思想の新たな回路を創り出す有効な手段とは、語学の鍛錬である。日本語とはまったく異なった言語体系をもった外国語の鍛錬が、自分の日本語による思考回路にさまざまな支線を創り出してくれる。どのような外国語でもよいが、残念なことに、僕は語学的才能にはあまり恵まれてはいないので、何か国語も操る術はない。せいぜい英語とフランス語だが、フランス語は現在のところ錆ついてしまっている。先日ユニクロで買い物をしていたら、きれいなフランス人の女の子が二人でとりとめもないことを喋りながら僕の横を通り過ぎたが、僕には殆ど聞きとれなくなっていた。僕の脳髄の中のフランス語は死滅はしていないものの、錆ついて使いものにするには、かなりの再訓練が必要なようだ。高校時代におもしろくもない学校の英語の授業に飽き飽きしていたから、芦屋にある(いまも健在だ)セイドー外語学院で、最初からフランス人のマダムから教えてもらったので、きちんと錆を落とせばいまだにフランス語の方が英語よりは上質だろう。

とは云え、手近なところからの訓練となるとやはり英語なので、今回の思想のオーバーホールには英語の鍛錬を課題に据えた。使い古した英語教材はもう役には立たないので、先日から良質な教材はないかと探していたら、うまく巡り合った。プロゴルフプレーヤーの石川遼くんの使っている語学教材の上級を使ったこともあるが、僕の考えでは、あれはあまりよく出来た教材ではない。英語のメソッドが確立していず、単なる開発者の経験則に寄る教材なので、たぶん石川遼くんも僕の発見した教材の方を使った方が数段英語がうまくなるだろうに、と思う。

それはともかく、行き詰ったときは、思考の回路の支線を増設する。その手段が僕にとっては、語学というツールを使うだけのことである。よく語学は頭の柔らかい若い頃の訓練でしか、習得できないなどと語学に立ち向かわない言い訳にする人がいるが、それは全く当を得ていない。もし、歳をとることが思考の柔軟性を剥ぎとることと繋がっていたとしても、その角質化した思考に再び新鮮な血液を流すことの出来る大切なツールが語学なのだから、人間何歳になっても語学を遠ざける理由などないのである。しばらくは、眠りかけた英語の再開発に沈潜してみようと思う。今日の観想である。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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