ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○人生の岐路に立っていると感じる、この頃である。

2011-01-06 15:29:23 | Weblog
○人生の岐路に立っていると感じる、この頃である。
 どこまでも粘っこく生き抜いてやる、とついこの間まで思っていた。生の一回性ということを自覚すればするほど、その想いは強くなっていった感がある。残された人生の、それほど長くない時間を、この世界の中で、自分がさほど興味を持てなかった事柄を生き方の目標の一つに数えてもいた。しかし、僕が忘却していたことがある。それは、この世界というのは、己れの意気込みだけで成り立つほど甘くはない、ということであった。大きな失策をしたのではないが、僕を巡る状況が激変しようとしているのである。もはや、この2.3年を費やして実行しようとしていた事柄にも興味が持てる状況ではない。自分の心の中のどこかしらで、生き急ぎ、あるいは死に急ぎの感性が支配的であったので、常に焦燥感に見舞われている始末だった。
 ある関係性の崩壊の危機に直面して、僕は、上記のような自己のありさまを直視することになった。短時間でなさねばならぬことの実現をイメージしながらの、息せき切った行為の集積の疲労感と徒労感が、僕を肉体的にバテさせた。こころとからだのバランスは、よく出来ているもので、肉体のスタミナが剥がれ落ちたら、心のカタルシスが同時に自己の内面で起こっていることに気づいたのである。いろいろな雑念が一挙に自身の体内から抜け落ちた感がある。人間とはどこまでも欲深いもので、人生が残り少なくなれば、それなりに欲動のあり方も底深くなるようだ。そういうことにも気がついた。
 もともと分かっていたことなのである。自分の生のあり方とは、いろいろなしがらみが、意図的であれ、無意識的なものであれ、自分からどんどんと剥がれ落ちていき、たとえて言えば、老境に達しようとしている自分の姿とは、デフォルメして表現するならば、それは、たぶん丸裸に近いそれである。また、それでよいのである。カウンセラーという仕事を、いましばらくは続けるにしても、漂白された自己から視えるクライアントさんたちの姿は、自然と余分な想念を抱かずに感得することが出来る。もう、長らくはカウンセラーという仕事を続けることもなかろう。自己表出が過ぎて、かえってクライアントさんにご迷惑をおかけしたこともあるが、たぶん、いましばらくは続けるであろうこの仕事については、いまが、僕の最も冴えている時期だ、と思う。つまらない宣伝をする意図はないが、同じカウンセリング料を支払ってカウンセリングを受けるおつもりならば、たぶん、僕と対峙することがクライアントさんの利益になると思う。
 なんだかやっと、来し方、行く末について、あらゆる邪心がとれて、自己の内面との対話が出来る、と感じている。人生の総括と称して、このブログを書きはじめて以来、ほぼ、1000に及ぶブログをありとあらゆるジャンルを素材にして書き綴ってきたが、いまにして思うに、その結末は想いのほか、シンプルなものに帰結するような気がする。書きはじめた当初、僕の想念はいくつもに枝分かれして、分岐した数だけ生の総括のあり方が異なるのだろう、と思っていたフシがあるが、いまは、まったくそれとは逆の予測の上に立って、これを書いている。
 そもそもひとりの人間の生の軌跡など、それほど多岐に渡って書き綴れるものではないだろう、と、いまにして思う始末である。ひとつに収斂させること、あるいは、限りなくそれに近い生の総括にすること。それが、いまの僕の目論見である。
 種田山頭火は、自己の生からあらゆる雑念を払拭していくために、ひとり孤独に野原を駆け巡り、俳句という究極の表現手段で、己れを、また、己れにまつわる生のすべてを書き遺した天才である。それも俳句という最低限の約束ごとすら破壊しつつ。邪念だらけの男だったと感じるが、山頭火は、己れの邪念さえも俳句という表現手段を破壊しつつ、生の真理に昇華させ得たのではなかろうか。いっときの山頭火ブームも過ぎ去った感のある今日、あらためて山頭火の死に方に想いを馳せてみたい、と心底思う。
 僕なりの漂泊の旅の準備を整えなければ、と感じている。とは言え、いましばらくは、ボヤキ漫才風に、これを書き綴ってもいこうと思うので、興味を持っていただける方に捧げる自分自身への、お笑いの鎮魂歌としたい。もうしばらくお付き合いくださいね。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム        長野安晃


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