伊藤 整の小説の解説を僕は書こうとしているのではない。僕は今日、たぶんいまどきの若者たちは、もう聞いたことも観たこともない男優についての観想について書く。知らない人たちにはまるで興味のない話なので、読みとばしてほしい。今日は自分のためだけに書く。なんだか、そんな気分だ。
田宮二郎という俳優は、彼の役者人生において、栄光と挫折を自分の存在を賭けて表現した人である。昔にしては背が高く、スマートで、甘いマスク。そして同性も異性も刺激する声色。まるで、実社会には存在していないかのような生活感のない、恰好の良さ。それらの要素はすべて、スクリーンの向こう側で存在し続ける特別な魅力を持った個性として、僕たちの前に圧倒的な存在感を持って、迫ってくるような男優、それが、田宮二郎という役者の意味であった、と僕は思う。田宮二郎の役どころはたくさんあったが、僕の記憶の底に残ってどうしても離れないものが二つある。一つは今 東光作の「悪名」の映画化で、勝 新太郎演じる、八尾の朝吉の弟分を演じた田宮二郎。勝 新太郎が任侠道に徹した昔気質のやくざとするなら、その弟分の田宮二郎は勝 新太郎とは対象的な現代的センスをもった、軽妙ですらあり、女たらし、というよりは女から寄ってくるような男前のチンビラ役であった。しかし、このチンピラ役の田宮二郎は単なるチンピラではない。八尾の朝吉に引けをとらぬ任侠道に女を漁りながらきちんと筋を通す役柄、それがいかにも田宮二郎という俳優を魅力的な存在として銀幕に映し出した。こういう軽妙な役どころの田宮二郎のすばらしさは、言葉と体のキレの良さに集約されている。田宮二郎が演じる弟分の存在によって、勝 新太郎演じる八尾の朝吉の、昔ながらの任侠の存在意義は原作以上に大きくなった、と思う。それだけ、田宮二郎のハマリ役であったのだ、といまにして思う。
もう一つ挙げるとするなら、田宮二郎の演じた財前五郎役である。山崎豊子原作の「白い巨塔」の映画化。栄光を目指し、その道を、ある時は手を汚しながらも医師としての、大学における最高の権威を手中に納めかけ、その光が見えかけた。田宮二郎演じる財前五郎は、癌摘出の権威であった外科医でありながら、自らが癌のためにあれほど夢見てきた権威を取りこぼさざるを得ない悲劇的な役どころとしてこの世界から姿を消す。栄光を目指し、自らの死という壁に阻まれて、挫折していく姿はまさに<イカルス失墜>そのものの具現化であった。モノクロの映画で、田宮は人間の栄光への憧れと、その裏に隠された汚辱さとをあますところなく演じてみせた。彼の演技は完成の域に達していた、と僕は思う。
つい先頃、テレビの連ドラで、唐沢寿明演じる財前五郎も秀逸であった。あの演技は現代における最高の「白い巨塔」の再現であった、と思う。たぶん田宮二郎のモノクロ版の映画に迫る栄光とその挫折体験が表現されていたであろう。その連ドラが終わり、田宮二郎がテレビの連ドラで、再び同じ財前五朗を演じた番組が再放映された。残念ながら、このときの田宮二郎の財前五郎は、モノクロ版の映画とは比べようのない無残な出来ばえであった。唐沢寿明には到底及ばぬところまで田宮二郎は落ち込んでいた、と思う。この番組の最終回が放映される直前に田宮二郎は、猟銃を口にくわえて自殺した。それは田宮二郎という俳優の終わりを意味するだけでなく、田宮二郎という日本の映画界にとっての象徴的な存在の終わりを告げたのでもあった。死を決意する直前、田宮は狂ったように友人たちに電話をかけまくった。新たな事業を始めるのだ、というのが、その内実であった、と聞く。しかし、実際に田宮がそのような事業の準備を始めていた形跡はなかった、とも聞く。
田宮二郎は、映画界の星であった。しかし、その栄光の裏に隠蔽された不安と焦燥感が、田宮の俳優としての存在意義を喪失させてしまった。田宮はまさにイカルスその人であった。そしてイカルスが体に羽をロウでくっつけて飛び続けながら、太陽という存在、栄光の象徴的な存在の前に、ロウは溶け出してイカルスは墜落する。田宮二郎の死は<イカルス失墜>における死そのものであった。
しかし、田宮二郎はいったい、何に絶望し、失墜したのであろうか? 僕にはいまだに謎のままである。
〇推薦図書「氾濫」伊藤 整著。新潮文庫。伊藤 整は、この小説で、人間の真実の姿にあくまで迫ろうとします。その結果読者が読み取るものは、逆に人生の真実が見えれば見えるほど、人は偽りの中で生きざるを得ないというパラドックスに直面せざるを得ないことに気づいていきます。それはあたかも田宮二郎という役者の生きざまとその死をイメージさせるのに十分な内容を備えた作品です。伊藤 整は、「イカルス失墜」のような短編ではなく、長編にこそ価値ある作品を残しています。いまはあまり読まれなくなった作品ですが、一読の価値があります。
田宮二郎という俳優は、彼の役者人生において、栄光と挫折を自分の存在を賭けて表現した人である。昔にしては背が高く、スマートで、甘いマスク。そして同性も異性も刺激する声色。まるで、実社会には存在していないかのような生活感のない、恰好の良さ。それらの要素はすべて、スクリーンの向こう側で存在し続ける特別な魅力を持った個性として、僕たちの前に圧倒的な存在感を持って、迫ってくるような男優、それが、田宮二郎という役者の意味であった、と僕は思う。田宮二郎の役どころはたくさんあったが、僕の記憶の底に残ってどうしても離れないものが二つある。一つは今 東光作の「悪名」の映画化で、勝 新太郎演じる、八尾の朝吉の弟分を演じた田宮二郎。勝 新太郎が任侠道に徹した昔気質のやくざとするなら、その弟分の田宮二郎は勝 新太郎とは対象的な現代的センスをもった、軽妙ですらあり、女たらし、というよりは女から寄ってくるような男前のチンビラ役であった。しかし、このチンピラ役の田宮二郎は単なるチンピラではない。八尾の朝吉に引けをとらぬ任侠道に女を漁りながらきちんと筋を通す役柄、それがいかにも田宮二郎という俳優を魅力的な存在として銀幕に映し出した。こういう軽妙な役どころの田宮二郎のすばらしさは、言葉と体のキレの良さに集約されている。田宮二郎が演じる弟分の存在によって、勝 新太郎演じる八尾の朝吉の、昔ながらの任侠の存在意義は原作以上に大きくなった、と思う。それだけ、田宮二郎のハマリ役であったのだ、といまにして思う。
もう一つ挙げるとするなら、田宮二郎の演じた財前五郎役である。山崎豊子原作の「白い巨塔」の映画化。栄光を目指し、その道を、ある時は手を汚しながらも医師としての、大学における最高の権威を手中に納めかけ、その光が見えかけた。田宮二郎演じる財前五郎は、癌摘出の権威であった外科医でありながら、自らが癌のためにあれほど夢見てきた権威を取りこぼさざるを得ない悲劇的な役どころとしてこの世界から姿を消す。栄光を目指し、自らの死という壁に阻まれて、挫折していく姿はまさに<イカルス失墜>そのものの具現化であった。モノクロの映画で、田宮は人間の栄光への憧れと、その裏に隠された汚辱さとをあますところなく演じてみせた。彼の演技は完成の域に達していた、と僕は思う。
つい先頃、テレビの連ドラで、唐沢寿明演じる財前五郎も秀逸であった。あの演技は現代における最高の「白い巨塔」の再現であった、と思う。たぶん田宮二郎のモノクロ版の映画に迫る栄光とその挫折体験が表現されていたであろう。その連ドラが終わり、田宮二郎がテレビの連ドラで、再び同じ財前五朗を演じた番組が再放映された。残念ながら、このときの田宮二郎の財前五郎は、モノクロ版の映画とは比べようのない無残な出来ばえであった。唐沢寿明には到底及ばぬところまで田宮二郎は落ち込んでいた、と思う。この番組の最終回が放映される直前に田宮二郎は、猟銃を口にくわえて自殺した。それは田宮二郎という俳優の終わりを意味するだけでなく、田宮二郎という日本の映画界にとっての象徴的な存在の終わりを告げたのでもあった。死を決意する直前、田宮は狂ったように友人たちに電話をかけまくった。新たな事業を始めるのだ、というのが、その内実であった、と聞く。しかし、実際に田宮がそのような事業の準備を始めていた形跡はなかった、とも聞く。
田宮二郎は、映画界の星であった。しかし、その栄光の裏に隠蔽された不安と焦燥感が、田宮の俳優としての存在意義を喪失させてしまった。田宮はまさにイカルスその人であった。そしてイカルスが体に羽をロウでくっつけて飛び続けながら、太陽という存在、栄光の象徴的な存在の前に、ロウは溶け出してイカルスは墜落する。田宮二郎の死は<イカルス失墜>における死そのものであった。
しかし、田宮二郎はいったい、何に絶望し、失墜したのであろうか? 僕にはいまだに謎のままである。
〇推薦図書「氾濫」伊藤 整著。新潮文庫。伊藤 整は、この小説で、人間の真実の姿にあくまで迫ろうとします。その結果読者が読み取るものは、逆に人生の真実が見えれば見えるほど、人は偽りの中で生きざるを得ないというパラドックスに直面せざるを得ないことに気づいていきます。それはあたかも田宮二郎という役者の生きざまとその死をイメージさせるのに十分な内容を備えた作品です。伊藤 整は、「イカルス失墜」のような短編ではなく、長編にこそ価値ある作品を残しています。いまはあまり読まれなくなった作品ですが、一読の価値があります。