ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

血の繋がりなんてなくっても・・・

2007-02-02 02:10:57 | Weblog
僕はこれまで頼りにしてきた、叔母叔父夫婦と絶縁し、恨み状まで書いたし、実の母親には絶縁状を、この正月に一度に書いて送った。何故か、自暴自棄のような感覚にも陥った一瞬もあったが、僕の場合は血の繋がりによる人間関係に恵まれなかっただけの話であって、血の繋がりなんてなくてもたくさんの人に助けてもらい、感謝の念を抱けるようになった。これは僕自身の人生にとって大きな財産になるだろう、と確信している。だから、僕はいま結構幸福なのである。血縁ほど僕にとっては信じられないものはこれまでなかったからである。勿論素敵な両親や祖父母に恵まれた人々は幸いである。それはこの上もない幸運だから、素直に受け入れることが大切だ、と思う。心の耐性が確実に強くなるのはカウンセラーでなくても諒解できるだろう。
だからといって他人が無条件に信じられるわけではない。友人の保証人になってあげたおかげで、一家離散の憂き目に合った人々や自殺にまで追い込まれた人々も大勢いらっしゃる。だから、人は信じることが前提だ、という感覚は大切にしていれば、案外と騙されることが少ないのではないか、と感じている。こちらから信用できない環境に入らない限りは、大概の場合は味方こそできるが敵はそんなに出来ない。ともかくもひろい環境に自分の身を置くことが時には大切だ。
たとえば、僕の勤めていた西本願寺の私立学校なんかだと転勤はないし、永年同僚の発言や行動を見て知ってしまっているから、これは血縁のような関係になってしまう。こうなると、もうその人たちとの話の中から新たな展望が開けれくるどころか、お互いに警戒し合うだけの関係になってしまう。だから息がつまる。僕が前にこの場であの職場には23年が限度だったと書いたのはそういう意味合いが込められている。たとえ定年まで勤めあげたとしても、その後の人生は別に心を割って話し合う人が出来るでもなし、何となく重度のうつ病にでもなっていたかも知れない。いったい、僕の人生とは何だったのだろうか、というような疑問が次々と湧いてきた、と思われる。さらに言うと、子どもとは離れ離れになってしまったが、前妻との定年後の人生を想像すると、かなりげんなりするものがあるように感じられる。僕は学校を追放されて、お金が目当てだった、という彼女に殆どの蓄財を持たせて別れたのは正解だった、と今にして思う。
僕にはこれからもいろいろなすばらしい人々と出会うだろう、という確信に近い想いがある。小説を真面目に読み出したから(勿論カウンセラーとしての専門書もがんばって読んでいますから安心してください)、人間にとって表現力やコミュニケーション能力の大切さもよく理解できるようになったし、それこそが人間にとってなくてはならないものだ、と感じられるようになった。寡黙な方は文章で自己表現されたらどうか、とおもいます。あるいはカウンセリングにみえて、話せることを話す訓練をされることを勧めます。僕は血縁を切ってしまいましたが、それ以上に、他者との可能性に今後の人生の可能性を感じてもいます。決して不幸ではありません。カウンセラーとしてみなさんの力になれる精神的な力が裡にたくさん溜まっていますから、京都カウンセリングルームにいらっしゃる方はどうか安心してお越し下さい

〇推薦図書「愛の断想・日々の断想」ジンメル著。岩波文庫。ジンメルは何より、人間としての「愛を知る人」です。哲学的断想ですが、簡単な文章の中にはっとさせられる真理が読み取れる作品です。一読の価値はありますよ。

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