今日はこの原稿を書こうとしていて、もうすぐ書き上がるか、と思った瞬間にコンピュータがフリーズして原稿を失った。それも2度も。書き上がる寸前にである。たぶん、おセンチなことを書きつらねていたから、コンピュータが嫌がったのかも知れない、と思って諦めることにして、3度目の挑戦である。
僕はこれまでに一度18歳の頃に死を考えた。それは学生運動に挫折して東京の秋葉原という不思議な街に神戸から逃げた頃のことである。神戸で育った僕にとっては、秋葉原という電気屋が立て込んだだけの街は奇怪な街に感じた。でも当時の僕には、その奇怪さが、逆に自分を引きつけたように思う。どうにも居心地が悪かったからである。逃避した自分にはこれくらいの居心地の悪さが丁度よい、と思ったように記憶している。この街は昼間はどこから集まってくるのだろう、という疑問が湧くほどの人だかりなのである。ちょっとした荷物を持ってこの街をうろついていると、店員募集の張り紙が目に入った。僕は何となくその店に入って、雇ってくれるように頼み、住み込みで雇ってもらった。僕は大学受験を放棄して、東京に逃げてきたわけだから、何とか生活だけはできるようにならないといけないと何故か思って焦っていたのである。電気屋の小僧の時代である。この街のもう一つの顔は、夜になると人と出会うことさえ難しくなるくらい、もぬけの殻のようになるのである。まるで波うち際からさっと波が引いていくように、ゴーストタウンさながらになるのが、この街の夜の光景だった。雑踏と孤独との深い繋がりを感じさえした。それはまさに僕の当時の心境にぴったりだった。夜空を見上げると綺麗な星が瞬いていた。その瞬時、僕はもう死んでもいいのかな、と思ったのである。しかし、その一方で生に対する強い執着心も同時に湧いてくるのが不思議だった。その時は僕はもう電気屋の店員で生涯を終わろう、と思ったように記憶している。しかし、僕にはどのような希望も湧いてはこなかった。半年が過ぎた。仕事に慣れてきた頃、自分の意識が猛烈な勢いで変化していくのを感じた。それは、理由は分からないが、大学を受けよう、という漠然とした想いだけが、僕を突き動かしたようだ。何だか留置場から釈放されたような気分だったように思う。もう僕は囚われるものはないのだ、という解放感が何故だか心の中から湧いてくるのを感じたのである。死はおあずけになった。
神戸のもういまは亡くなっていない祖母の家に転がり込んだ。学生運動に足を突っ込んでいたので、高校1年の1学期までしか勉強していないかった。残された時間は半年。僕は金の当てもなしに私学の大学に絞って勉強した。3教科なら、なんとかなるような気がしたからである。受験料は神戸のそごうデパートでアルバイトした。残された半年の内の20日間くらいはそのことに費やした。デパートに入っている靴売り場だったが、そこの店長に正社員にならないか、と誘われて、ついその気になりそうだった。それだけ受験勉強のしんどさにまいっていたのだろう。ともあれ、大学は数校受験して行きどころだけは幸いにしてつくれた。その中には東京の慶応大学の文学部も入っていたが、もう東京はごめんだった。何だか、また死を考えそうだったからである。で、結局僕は京都の大学に籍を置いて、その大学を出て、京都の私学の中学高校併設の学校に23年間も勤めた。23年間も、と書いたのは、たぶん僕には定年退職までは教師という職業はもたないと思っていたし、僕の組合運動の結果と宗教教育に対する反発とが理事会を怒らせて、うまい具合に学校を追放されたのである。いま、カウンセラーという仕事に行き着いたから言えることだが、追放されたときはやはり敗北感でいっぱいだったし、47歳にして生活の糧を失ったわけだから、えらいショックを受けたのである。だから僕は18歳の頃とは違って、そのときは完璧な自殺未遂者となった。それも2度も。いずれも首を吊ったが、一度は苦しさ故に途中で放棄したのと、二度目は完璧な行為に仕上がったが、どうしたわけか安物のネクタイを二つ結んで実行したので、(僕はネクタイを集めるのが趣味だったので、お気に入りのネクタイを使うのを避けたのだ。何故だろう?)ネクタイがブチ切れた。それで畳にお尻をしたたかに打ちつけて失敗した。たぶん生を意識することの方が大きかったのだ、と思う。死にたくはなかったのだろう。一片の希望もなかったが、死を選び取ることの難しさを思い知った。僕は幼い頃から何度か死にかけた経験があるが、いずれも死なずに生きてきたわけで、どうも死はこわくはないにしろ、生に対する執着心もそれ以上に強かったに違いない。
いまもときおり、死に時か? と感じることもないではない。しかし、そう思ったら、意識的に生き抜くことをイメージすることにしている。何故かというと僕には、人生とはどこかで、喜んだら、次は哀しみが襲ってくるような気がするし、またその反対も同じようにあるような気がしてきたからである。最近とみにそう思うようになってきた。人生はその人、その人にとって帳尻が合うように出来ているように感じるからである。僕はまだ、二度自殺未遂した頃の心の痛みが解消されていないから、きっとまだ死とは反対の喜ばしいことが起こるかも知れない、と信じるようになってきたようだ。まだ帳尻が合っていない、と感じているからである。だから、まだ生きている。これからも生き続ける。まだまだ、だ、と思って生きている。それが僕の現況なのである。
〇推薦図書「宇宙の根っこにつながる生き方」天外伺朗著。サンマーク文庫。僕はこの著者が言っていることを丸ごと信じているわけではないのですが、自分の生の力や、自分を生きさせている力があることも、案外あるのかも知れない、と思うのです。そういう意味で今回はこの書を推薦します。
僕はこれまでに一度18歳の頃に死を考えた。それは学生運動に挫折して東京の秋葉原という不思議な街に神戸から逃げた頃のことである。神戸で育った僕にとっては、秋葉原という電気屋が立て込んだだけの街は奇怪な街に感じた。でも当時の僕には、その奇怪さが、逆に自分を引きつけたように思う。どうにも居心地が悪かったからである。逃避した自分にはこれくらいの居心地の悪さが丁度よい、と思ったように記憶している。この街は昼間はどこから集まってくるのだろう、という疑問が湧くほどの人だかりなのである。ちょっとした荷物を持ってこの街をうろついていると、店員募集の張り紙が目に入った。僕は何となくその店に入って、雇ってくれるように頼み、住み込みで雇ってもらった。僕は大学受験を放棄して、東京に逃げてきたわけだから、何とか生活だけはできるようにならないといけないと何故か思って焦っていたのである。電気屋の小僧の時代である。この街のもう一つの顔は、夜になると人と出会うことさえ難しくなるくらい、もぬけの殻のようになるのである。まるで波うち際からさっと波が引いていくように、ゴーストタウンさながらになるのが、この街の夜の光景だった。雑踏と孤独との深い繋がりを感じさえした。それはまさに僕の当時の心境にぴったりだった。夜空を見上げると綺麗な星が瞬いていた。その瞬時、僕はもう死んでもいいのかな、と思ったのである。しかし、その一方で生に対する強い執着心も同時に湧いてくるのが不思議だった。その時は僕はもう電気屋の店員で生涯を終わろう、と思ったように記憶している。しかし、僕にはどのような希望も湧いてはこなかった。半年が過ぎた。仕事に慣れてきた頃、自分の意識が猛烈な勢いで変化していくのを感じた。それは、理由は分からないが、大学を受けよう、という漠然とした想いだけが、僕を突き動かしたようだ。何だか留置場から釈放されたような気分だったように思う。もう僕は囚われるものはないのだ、という解放感が何故だか心の中から湧いてくるのを感じたのである。死はおあずけになった。
神戸のもういまは亡くなっていない祖母の家に転がり込んだ。学生運動に足を突っ込んでいたので、高校1年の1学期までしか勉強していないかった。残された時間は半年。僕は金の当てもなしに私学の大学に絞って勉強した。3教科なら、なんとかなるような気がしたからである。受験料は神戸のそごうデパートでアルバイトした。残された半年の内の20日間くらいはそのことに費やした。デパートに入っている靴売り場だったが、そこの店長に正社員にならないか、と誘われて、ついその気になりそうだった。それだけ受験勉強のしんどさにまいっていたのだろう。ともあれ、大学は数校受験して行きどころだけは幸いにしてつくれた。その中には東京の慶応大学の文学部も入っていたが、もう東京はごめんだった。何だか、また死を考えそうだったからである。で、結局僕は京都の大学に籍を置いて、その大学を出て、京都の私学の中学高校併設の学校に23年間も勤めた。23年間も、と書いたのは、たぶん僕には定年退職までは教師という職業はもたないと思っていたし、僕の組合運動の結果と宗教教育に対する反発とが理事会を怒らせて、うまい具合に学校を追放されたのである。いま、カウンセラーという仕事に行き着いたから言えることだが、追放されたときはやはり敗北感でいっぱいだったし、47歳にして生活の糧を失ったわけだから、えらいショックを受けたのである。だから僕は18歳の頃とは違って、そのときは完璧な自殺未遂者となった。それも2度も。いずれも首を吊ったが、一度は苦しさ故に途中で放棄したのと、二度目は完璧な行為に仕上がったが、どうしたわけか安物のネクタイを二つ結んで実行したので、(僕はネクタイを集めるのが趣味だったので、お気に入りのネクタイを使うのを避けたのだ。何故だろう?)ネクタイがブチ切れた。それで畳にお尻をしたたかに打ちつけて失敗した。たぶん生を意識することの方が大きかったのだ、と思う。死にたくはなかったのだろう。一片の希望もなかったが、死を選び取ることの難しさを思い知った。僕は幼い頃から何度か死にかけた経験があるが、いずれも死なずに生きてきたわけで、どうも死はこわくはないにしろ、生に対する執着心もそれ以上に強かったに違いない。
いまもときおり、死に時か? と感じることもないではない。しかし、そう思ったら、意識的に生き抜くことをイメージすることにしている。何故かというと僕には、人生とはどこかで、喜んだら、次は哀しみが襲ってくるような気がするし、またその反対も同じようにあるような気がしてきたからである。最近とみにそう思うようになってきた。人生はその人、その人にとって帳尻が合うように出来ているように感じるからである。僕はまだ、二度自殺未遂した頃の心の痛みが解消されていないから、きっとまだ死とは反対の喜ばしいことが起こるかも知れない、と信じるようになってきたようだ。まだ帳尻が合っていない、と感じているからである。だから、まだ生きている。これからも生き続ける。まだまだ、だ、と思って生きている。それが僕の現況なのである。
〇推薦図書「宇宙の根っこにつながる生き方」天外伺朗著。サンマーク文庫。僕はこの著者が言っていることを丸ごと信じているわけではないのですが、自分の生の力や、自分を生きさせている力があることも、案外あるのかも知れない、と思うのです。そういう意味で今回はこの書を推薦します。