前回の復習&易の三義について
今日の話を書き始める前に、前回の内容を簡単におさらいしておこうと思います。
# 易は、悩みや問題に対する助言・行動指針を示す占いの側面と、道徳や精神修養に役立つ思想哲学としての側面がある。理屈ばかりでもダメ、占いだけに走ってもダメ。理論と実践をバランスよく統合してゆくことが大切。
# 易は、太極をその始源として、陰陽二気(両儀)、四象、八卦、六十四卦と展開されるものであり、目に見える現実世界(陽=外側・表面)のみならず、感性的・心理的な領域(陰=内側・裏面)にも照応するシンボル体系である。
# 易は、占い(運命学)や精神世界と関連するだけでなく、現代科学で見出された様々な知見とも概念的に通じる、またはその可能性がある。
前回の序論・概論ではそんなようなことを主軸に書きましたが、今回はパート2として、易の三義(さんぎ)の意味を僕なりに解説していきます。
これも本論に入る前の番外編ですので、占い的な活用を求める限りは読まなくても支障はないかもしれませんが、易を学ぶ以上は三義それぞれの概略くらいは把握しておくほうがいいと思います。
2. 易の三義
前回も少し触れた内容ですが、易には三つの基本的な仕組みがあると昔から考えられてきました。この三義を提唱したのは紀元150年前後に生きた鄭玄(じょうげん)という人だそうですが、その後、「いや五義ある」「いや六義あるぞ」という具合に主張がなされてきました。
それでも、本質的なところではやはり三義だろうと思いますので、ここでは一般に説かれる「変易(へんえき)・不易(ふえき)・易簡(いかん)」の三つに関して説明を入れておきます。
ここにその概略を箇条書きにしますので、沢山は読めないよという方は、とりあえずこの内容を頭に入れておいて下さい。
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<変易> 全てのものは常に変化し続けていることを表す言葉。別の状態になろうとする動的な働きや異化作用、不安定さを説明するもの。物理学での「運動の法則」に通じる。
<不易> 変化の対概念としての不変性を表す言葉。同じ状態に留まろうとする静的な働きや同化作用、安定性、および変化の背後にある一定の秩序を説明するもの。物理学での「慣性の法則」に通じる。
<易簡> 変化と不変に基づく必然性(順序・循環・分岐・誘引・反射といった作用)を表す言葉。また、これらシンプルな法則が柔軟に組み合わさることで多様な現実が作られていることを示す。物理学での「作用・反作用の法則」に通じる。
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蛇足ですが、これらは占星術での「活動星座(カーディナル)・不動星座(フィクスト)・柔軟星座(ミュータブル)」や「アンギュラーハウス・サクシーデントハウス・ケーデントハウス」の概念と通じるものかもしれません。
2-a. 変易(へんえき)
私たち人間を含め、どんな生き物も、またどんな出来事であっても、その姿形は時と共に変化します。例えば子供の成長を思うと、時の過ぎ行く早さに驚く人は多いでしょう。また、そうした見た目だけでなく、考え方や価値観、感情の変化など内面の移り変わりも常に起きています。
占いという側面から言うと、誰しも運が良いと感じる時もあれば悪いと感じる時もあるし、いわゆる「普通」の状態で過ぎてゆく時もありますが、そのどれであっても永続はしません。言い換えれば、気づいていようがいまいが常に何かが変わっている、別の状態にシフトしているということです。
どんなに楽しい時もどこかで区切りが差し込まれるように、悲しみや辛い時期もいずれは時と共に緩和され、あるいは癒され、あるいは忘却の彼方に消えていきます。変化がポジティブさ(陽)とネガティブさ(陰)の両面を併せ持っていることは、誰に言われるまでもなく各自が感じ取っていることだろうと思います。
「突き詰めれば陰陽、究極的には太極(無極)」というシンプルな観点からすると、根本的に易は、陰(収束方向)か陽(拡張方向)か、あるいは中庸(両極を鳥瞰する視点に立って統合する、矛盾を抱き込んで新しい道を創り出す)か、という選択が全ての基調になっています。
この選択は、ある一つの卦から他の全ての卦へと変化する可能性を持ちます。そして、同時発生的に他との関連性が生まれて影響力を及ぼしていく。
易にとって一つの卦は一つの現実の象徴であり、条件によって制約されない限り、無数に変化する可能性を秘めています。そのため、一個の存在にとっての全体、及び、全体にとっての一個の存在という双方の視点に対する理解が欠かせません。
なぜなら、何かに作用を及ぼすことは同時に自分自身の変化を伴うからです。逆に言えば、自分自身が変化することで、それ相応の影響を他者や周りの状況に与えることになる。これは後で説明する「易簡」の法則に関する内容ですが、精神世界で言われる「鏡の法則」や物理学での「作用・反作用の法則」と同じものと僕は考えています。
そして、この変易は物理学で言う運動の法則、慣性に対する摩擦(別方向にかかる力)や加速力のようなものです。同じ状態に留まろうとする性質に対して、それを変容させようする働き。易の場合、陽としての外向きの力(押す・加える、広げる)と、陰としての内向きの力(引く、収める)の違いを考慮する必要がありますが、基本的に運動法則と同じものだと考えていいと思います。
例えば、あなたが誰かを変えたい・変わって欲しいと望んでいるとします。このとき、その本人に直接話をもちかける場合もあれば、まず自分が変わることで結果的に相手に良い影響を与える(あなたにとって望む変化を引きつける)手段をとる場合もあるでしょう。
押すか引くか、そっと見守るかはその時々の状況次第で判断が変わると思いますが、どんな方法であれ動機の正しさは重要です。それに、期待値が大きすぎたり、見返りを求めていたり、あるいは何か利己的な理由が絡んでいるようでは、なかなか上手く行かないものです。
こういうところは単なる吉凶占いでは如何ともしがたいことであり、どうしても人間としての魅力や徳性(品位)、理解力、状況を的確に捉える力などが必要になってくるのだと思います。そして、そのための指標や参考となるべく、易には道徳的・哲学的側面もしっかり用意されている。もっとも、本来的には占いに対する教訓というよりは「道」の探求に関する指南書のような感じかもしれませんが。
長くなってきたので、そろそろ次へ進まないといけませんね。
何らかの存在・出来事が姿を現すと、それが発展・維持される時もあれば、衰退する時もあります。また、大切なものが失われる前に保存することで、後に再生される場合もあります。そうした変化の法則が易の根底にあると繰り返し述べてきましたが、その変化自体にも一定不変の秩序があって、順序に従って進行しています。それが以降に説明する不易や易簡です。
2-b. 不易(ふえき)
物事であれ人であれ常に変わってゆくという法則が変易でした。しかし、その当事者(物)としての「存在」それ自体は、どんな変化の最中でも変わらずそこにあります。
表面上の姿形はその都度変わってゆくとしても、その本体である魂(それをなんと呼ぶかは人それぞれだと思いますが)は不滅、または「死んだらどうなるか分からないじゃないか」という言い分を受け入れた場合でも、少なくもこの世に生きている以上は存在し続けます。これが僕の考える「不易」の一つの意味です。
また別の意味としては、変化そのものにも秩序があり、理由もなくランダムに変化しているわけではない、ということが挙げられます。例えば変易の中で書いた、「一つの卦(現実)が他の全ての卦(現実)に変化する可能性がある」というのも、どういう場合にどの部分が変化するか、いつ頃に変化するかということへの易なりの条件(方法論)があります。
それからもう一つは「変化」と対概念という意味での不変性です。つまり、不変性が土台にあるからこそ、“常に”変化するものが成り立ち、存在しうるという共依存的な関係。
六十四卦のそれぞれは四象・八卦を経て一つ一つ層を重ねることで形作られますが、これは何事も原因があって結果がもたらされるという仕組みを象徴していように思えます。ちょっと抽象的表現になりますが、現実生活での時間的進展や空間的推移、そして蓄積されていく経験を易卦の構成に準えているのではないか、ということです。
例えば人間の生涯を考えてみると、赤子としての誕生後、幼年期、学童期、青年期、中年期、老年期と時を重ねて最後には死んでいきますが(病気や事故などで若くして亡くなるのでなければ)、そこには順序があります。成熟した大人や腰の曲がった老人が、いきなり母親の胎内から生まれてくることはありませんよね。これも自然界における一つの不変的法則と言えるものだと思います。
また、太陽の運行や季節の移り変わりのような、平時の感覚では不変的とも思える循環作用(反復性)も易が示す法則の一つです。まあ、これは相対的な見方であって絶対(永続するもの)ではないわけですが、人間の限られた認識範囲を基準とした場合、宇宙に関することのような非常に長いスパンの出来事を不変に感じても可笑しなことではありません。
不易の説明の最後に、変易のところでも使った慣性や摩擦の話をここでも例にしてみます。
無重力状態のような外力のかからない場所で等速直線運動をしている物体をイメージしてみて下さい。または、自分自身が宇宙飛行士になって同じスピードで宙を飛んでいると考えてもいいです。
このとき、その物体やあなたは時間的にも空間的にも移動しながら変化し続けていますが、自分で止まろうともがいたり、他から外力が加えられない限り、速度も方向も一定のままで変わりません。これは「変化の内に不変性が同居する」ことを想像してもらうための一つの例です。このことを安定と不安定と表現してもいいかもしれません。
まあ、地球上では重力はあるし摩擦や抵抗はあるしで真の等速直線運動は困難ですが、例えばこれが自分の人生だったらどうでしょうか?
生活をひっくり返すような変化を頻繁に経験しながら生きている人は多くないでしょう。大概の人はむしろ、「ああ~、もっといい環境に移れないかなぁ」とか「もっと自分に合った仕事に変われたらいいのに」とか「あの人が恋人だったら素敵なのに」と思いつつ、それを実現するための行動に出られずに惰性で生きていたりするものです。僕だって人のことは言えません。
そして、これらは変化の法則を有効に活用できていない例であり、保守性という意味での不易のパターンに入っている状態と解することができるのではないかと思います。
2-c. 易簡(いかん)
変易も不易も共に“変化(動き・作用)”に関する本質的な法則ですが、それらの中には論理的整合性に基づいた順序や反復性、動きの継続に伴う拡大と縮小(栄枯盛衰)、突発または偶発的に見える転換、同質のものを牽引する働きといった色々なメソッドが内包されています。
けれども、それらも突き詰めれば変易・不易の変化という動静に対する反作用であり、自らが起こした行動(選択)の結果をもたらす力です。
かつての自分は、この易簡について「中立状態(ニュートラル)で、変易や不易へとシフトチェンジするレバーのようなもの」とみなし、日常の中で意識的にどんな現実を選択してゆくかが大事といった視点で書いています。
http://blog.goo.ne.jp/creative_imagination/e/246ad599f340f2a10469c536b5fb4536
http://blog.goo.ne.jp/creative_imagination/e/81316f779b5120e23748d3c0f3e7d11d
(http://ciarchives.nemachinotsuki.com/i-ching_three-meanings.html)
今はその考え方の逆バージョンとなる、「変易と不易双方の働きを受けて、それに対応する形でレスポンスを返すという反射の原理を示したもの」でもあるんだろうと考えています。
いずれにしても、この仕組み自体はシンプルで強力なものです。ちょうどプログラミングでの命令に対する処理のように、与えた指示を忠実に実行するのです。そしてこの素直さが易簡の最大の長所であり、同時に短所にもなります。いわば“諸刃の剣”です。
言うまでもなく易の基本原理は陰陽で、これが現実世界の二元性を司るエネルギーですが、人の感情や行動に置き換えると、陽は肯定(ポジティブ)・積極・明るさ・高揚・見栄・虚偽・押し付けなどを、陰は否定(ネガティブ)・消極・暗さ・沈静・内実・陰徳・受容などを象徴します。
そして、易簡は変易と不易によってもたらされた作用(この場合、命令として送り込んだ感情や考え方、行動)を忠実に返しますから、いま自分のいる状況に応じて適切なコマンドを出さなければ、必然的に色々な不都合や障害が生じてしまいます。
この点、動植物や大自然そして宇宙は、“あるべき時にあるべきことをなす”という行動原理が自ずと働いているように見えますが、人間を顧みると色々と恥ずべきことや反省すべきことが多いのではないかと思います。
倫理観の欠如、利己的な振る舞い、欲ボケ、傲慢さなどによりバグやエラーがたくさん生じ、人類というシステムが不安定になってしまっています。そして、この問題の解決には社会や世界全体の変化を促す必要がありますが、そのためには、まず先に一人ひとりが自分の中の問題点を丁寧に取り除いてゆかなくてはなりません。
まあ、そこまで大きな話でなくても、日常生活の中で求められる選択だとか心がけの一つ一つが、たとえ小さくとも変化の火付けとなっていることは疑いの余地はありません。朝起きる時に灯す感情という名の火により、その日の気分や調子も変わるでしょうし、寝入りに灯す火により質の良い眠りが得られるか、素敵な夢が見られるかも違ってくるでしょう。
そもそも、三義を含めた易の諸法則は、論理的・哲学的な思索のみから生まれたわけではなく、普段の感情の扱いや、特定の状況下での振る舞いがもたらす結果の観察、さらには様々な出来事の推移をつぶさに記録するといったことを、丁寧かつ根気よく続けることで体系化されてきたものです。
だから易を学ぶ者は、その根本である太極や陰陽、そこから派生した四象や八卦や六十四卦、それから道義や哲理を説く繋辞伝などの内容に対して考察を試み、できれば体験によって理解を深めながら、そこで得た気づきや知恵を日常にフィードバック(還元)することが大切です。(…と文章にするのは簡単ですが、かくいう自分自身の課題でもあります)
今日はできれば元亨利貞についても書きたかったのですが、三義だけで長文化してしまったため、それについては次回に譲ります。
もう少し概論が続きますが、お暇な方はお付き合い下さい。
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