易の初歩について少しずつ書いていこうかなぁ、と考えています。
自分自身、初心に立ち返って基本を復習しながら、同時に、これから易(易経)を学ぼうとしている人への手引き的なことをしてみようと思っています。
実際の易経の原文に当たっていただくと実感すると思いますが、色々と難解な言葉が並んでいます。また、それに加えて数多くの象徴的・隠喩的な表現が山ほど出てきます。そのため、世の中にはそうした内容を逐一考察した分厚い解説書も出ていたりするのですが、ここでは導入という性質上、特に面倒な話を書くつもりはありません。
読み進めるのに最低限必要となる専門用語と、基本となるシンボルの捉え方を覚えてもらうことにはなりますが、なるべく順を追って説明していきますので、あまり構えずにいて下さい。どうしても頭に入れておくべき言葉や内容は必然的に繰り返し出てきますので、徐々に慣れてゆくだろうと思います。
今日はその序論・概論ですが、同時に番外編のようなものです。話題の骨子は次のようなことです。
1.易には元来、占いの側面と道徳的・哲学的側面がある
2.易は現代科学による発見と通じるものがある
3.易は万物渾然一体の太極に始まり、陰陽二気→四象→八卦→六十四卦になる
この内、一番目と三番目について既に知っている人(概念を理解している人)にとっては、今日の記事は読んでも読まなくても後の本編に支障ないだろうと思います。
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1. 易について
1-a. そもそも「易」って何?
易という言葉自体を知らない人に「易って何?」と聞かれたとしたら、易に詳しい方は一体どんな風に答えるのだろうと、これを書きながら思い巡らせています。この素朴な質問は、ともすると易を学ぶ人が一生涯かけて追求することになるテーマかもしれないからです。
正直なところ、今の自分には易(えき)や易経(えききょう)と呼ばれるものを一言でこういうものだと言うことは難しいのですが、あえて言うなら、「人間を含めたこの世界の諸法則を総合したもの」という感じになるでしょうか。しかし、それでは抽象的過ぎて何の説明にもなっていないですね。
学問的にはどうこう、シンボル的にはどうこう、字義的にはどうこう、と色々な説がありますが、ここでは単純に、易とは「変化に関する実践哲学(理論と実践の学問)」と言っておきます。
その意味については追々説明していきますので、この段階で深くこだわる必要はありません。今は端的に、一般に認識されている占いとしての側面と人生に対する哲学的側面の両方の意味合いがある、という風に覚えておいて下さい。
また、易にも周易と呼ばれるものと五行易(断易)と呼ばれる系統があり、それぞれで占い方が異なっています。ただ、ここではそれらの違いについて解説はせず、どちらにも共通する概念(後述する専門用語:八卦、六十四卦など)をメインに話を進めます。興味のある人は一通り基本的なことを学び終えた後で、両方の系統を学んでみると良いと思います。
1-b. 占いとしての側面と哲学的側面
現在、雑誌などで扱われるメジャーな占いを挙げると、例えば占星術、四柱推命、タロット、数秘術、風水、気学、姓名判断…という感じでしょうか。これに近現代になって明かされ段々と普及してきた専門的な占いを含めると、実に多様化しています。
一方で、今から数百年~千年・二千年前では、何かを占うというと易が主軸ではなかったかと思います。また、ここ日本では、国の機関に属し占いを専門とする人間がいた時代では、占断する際に六壬などの他の占術も使っていたことが知られています。
それから時代は下って――、現代ではなかなか見かけませんが、明治・大正や昭和の前期など一昔前には街角に机を出して対面で占う人(辻占い師)もそれなりにいたようです。今では、たまに店を出している人を見かけても手相見だったりで、易を使って辻占をしている人は少ないのかもしれません。あるいは、たまたま自分が遭遇していないだけかもしれませんが。
何であれ、記録に残っている歴史の期間を見ただけでも、人間は様々なことに対して「今後どうすべきか」という行動指針を占いの結果に求めてきました。それは、大きな規模では国や政治に関わる決断であり、小さな規模では町や個人生活に現れる問題への指南でした。
沢山の占いが知られている現代にあっては、指針を得るために使われる占いは何も易である必要はなくなっています。しかし、古来から今に至るまで易が好まれて使用されてきた背景には、易が備える深い哲学性、すなわち長きに亘って観察され蓄積されてきた自然や人類の叡智が込められていることにあります。
易の思想は、基本的にとてもシンプルなものです。詳しくは次回の記事で扱う予定ですが、易の三義という見方があり、「変易・不易・易簡(簡易)」という三つです。ただし、変化にしても不変にしても、それは何らかの存在あってのことですから、正確に言えば「存在するものにとっての三義」という概念になると思います。
まあそれはともかく、この変化の法則をいかに有用のものとするかということが、易経の全体を通して(時には暗に)語られています。こうした人生哲学があるからこそ、単に占いの結果に一喜一憂するだけの状態に陥らずに、心を育み、精神を豊かにする(昔の言い方をすれば育徳する)ためにはどうすべきかを忘れずにいられるのです。
しかし、このことは同時に、占いを行う者に対する辛辣なまでの教訓にもなります。易の示唆することは時に非常に厳しく、その時点での(おそらく表層意識での)本人の意に反するような場合もあるからです。それでも、それが真剣に占った結果であれば真摯に受け止めなくてはなりません。その上で、よりよい変化をしていける方法を考え、適切に行動することが必要です(それを実行するには大変な勇気がいるかもしれませんが)。
1-c. 智慧の宝庫
易経は、英語では「the Book of Changes:変化の書」と翻訳されています(また、発音からそのまま「I Ching(イーチン)」とも呼ばれます)。
人間も動物も微生物も、また自然界や大宇宙に至るまで、認識されるスパンの違いこそあれ、この世のありとあらゆるものが刻一刻と変化し続けています。
意識(感情や思考)の移り変わり、心臓の鼓動、呼吸、血液の流れ、脳神経を伝わる電流、筋肉や細胞の動き、容姿の変化、一瞬毎に紡がれる言葉や音の数々、人生に現れる幾つもの起伏、月の満ち欠け、潮の満ち引き、風の吹く方向、街並みの変遷、季節の巡り、遠くの星の自転や公転、果ては宇宙それ自体の膨張、それからミクロ領域では原子や素粒子の振動など、全てが変化を基調として存在しています。
もっとも、易経は何千年も前に形作られた理論体系ですから、脳科学やDNA配列のような現代科学でようやく見出された知見を、その当時の人達が有していたかどうかは分かりようもありません。しかし概念やシンボリズム、そして太極や陰陽に始まる八卦・六十四卦・384爻という易の理屈の中に「(宇宙を含めた)創造されたものの全て」が包含されるという考え方をしています。
脳のニューロン(神経細胞)のパルスも、遺伝子の変異も、天体の軌道も、突き詰めれば一瞬一瞬の変化に基づいていますから、易は時間を扱う学問であると言えます。また、生き物であれ物体であれ時間は空間とも密接に関係していますから、これは同時に空間の学問でもあると言えると思います。
そうなると、変化とは時空間に存在するもの全てに関わる核心的な問題となります。こうして易の思想は人間生活や地球環境を超えて、全宇宙にまでその対象範囲が広がってゆくわけです。
1-d. 宇宙を統括する象徴体系
とはいえ、これは帰納的な考え方で、実際には易の考え方は逆です。あるいは、時空の概念にこだわらなければ双方向でさえある。
太極または無極という全てが渾然一体となった極みから(これを全一の神や大いなる魂などと呼ぶのは各人の自由ですが)、現代のインフレーション~ビックバン理論で始まる宇宙の歴史のように、爆発的に創造生成された事物が急速に拡張していく様子が、易では太極→陰陽→四象→八卦→六十四卦という風に表現されています。
考え方としては、八卦を掛け合わせて六十四卦を作るように六十四卦を重ねて4096もの卦を想定することもできます。現に二千年ほど前(前漢時代)の焦贛(しょうこう)という人がそれを考えていたらしいのですが、現実問題としてそこまでの細分化は必要ないと判断され、現在も六十四卦までの構成で分類上は十分であると考えられています。また、僕自身もそれでOKだと思っています。
要約すると、最初に私たち人間を含む全宇宙を形成するための物質が凝縮された、しかも時空という概念を超越した最高度の密度で存在する一点があり、それを易では太極とか無極という言葉で表現しています(この辺の概念にも皇極という状態を含むなど諸説ありますが、ここでは深入りはしません)。
その後、「全体」であったものが、作用と反作用だとか引力と斥力のような「異なる二つの方向性を持った力」に分化します。これを易では陰陽に分かれると言っています。この陰陽の概念については特に説明の必要はないと思われますが、端的に言えば、明暗(光と闇)、軽重、男女の性別、上下、左右、早い・遅い、熱い・冷たい(暑い・寒い)、尊い・卑しい、幸不幸(楽しい・苦しい)…などの二極性のことです。別の言葉で両儀(りょうぎ)とも言います。
そして、これがさらに枝分かれしていく。物理学では宇宙には「四つの基本的な力(相互作用)」(重力・強い力・弱い力・電磁力)なるものがありますが、そんなような感じで、易も、陽における陽(老陽)と陰(少陰)に分かれ、同様に、陰における陰(老陰)と陽(少陽)に分かれます。これを四象(ししょう)と言います。
人に馴染みのある概念では、春夏秋冬の四季がそれに対応するという説明が大抵の易の本には書かれていますし、実際、それでイメージが付くでしょう。陽を光や熱とみなせば、陽の陽は夏であり、陽の陰は春、逆に陰の陰は冬であり、陰の陽は秋という風にです。また、それと似たように考えるならば、朝・日中・暮れ・夜という一日を四分した状態を象徴として当てはめることもできますし、太陽の位置関係から東西南北にも関連付けられます。
日本の神道には一霊四魂という思想があるそうですが、もしかしたらこれも仁義礼智信のように四象や五行の観点と対応するものなのかもしれません。以下にまとめてみます。
陽の陰 : 少陰/春、朝(旦)、木、東、仁、荒魂? (少陽とするテキストもある)
陽の陽 : 老陽/夏、真昼間、火、南、礼、幸魂?
土、中央、信、直霊
陰の陽 : 少陽/秋、夕暮れ、金、西、義、和魂? (少陰とするテキストもある)
陰の陰 : 老陰/冬、真夜中、水、北、智、奇魂?
次いで、宇宙創成のエネルギーが寄り集まって、いつしか様々な星や銀河を形成していくように、易の場合でも、親階層(太極→両儀→四象)から派生しつつ各自の重力(類友の法則)で引き合った陰陽のエネルギーが順次重なり、八卦という一つの象徴的意味を持ったグループに落ち着きます。これが万物の異なった有り様(状態)を示す型となります。
ちょっとラフですが、概念図を作ってみました。(2014/08/16 ちょっと見づらかったので作り直しました)
陽・陽・陽と重なった状態を乾(けん)と呼び、天(父・健)を象徴する
陽・陽・陰と重なった状態を兌(だ)と呼び、沢(少女・悦(説))を象徴する
陽・陰・陽と重なった状態を離(り)と呼び、火(中女・麗)を象徴する
陽・陰・陰と重なった状態を震(しん)と呼び、雷(長男・動)を象徴する
陰・陽・陽と重なった状態を巽(そん)と呼び、風(長女・入)を象徴する
陰・陽・陰と重なった状態を坎(かん)と呼び、水(中男・陥)を象徴する
陰・陰・陽と重なった状態を艮(ごん)と呼び、山(少男・止)を象徴する
陰・陰・陰と重なった状態を坤(こん)と呼び、地(母・順)を象徴する
そして、時が下って天の川銀河に太陽系が生まれ、太陽系に地球などの惑星が誕生し、その地球に生き物が生まれ、ついには人類として生きるようになり、文明が勃興し、その栄枯盛衰を繰り返し…という歴史が紡がれてきたように、易においても、これらの八卦が重なって六十四卦384爻となり、また各卦が多彩に変化し、また結びついて様々に展開されてゆく構造ができあがります。
当初は太極から分化した陰陽二気でしかなかった状態から、段々とエントロピー(ここでは乱雑さの意味で使います)が増大し、表面上の無秩序さや複雑さが増しています。しかし、そのぶん具体性を伴い出すため、物事や出来事そして生命が織り成す多様性を大枠的にであれ捉えることができるようになります。
八卦や六十四卦になってくると幾つもの陽と陰とが混在するため一見複雑に思えますが、それも易の三義にある易簡の法則(「陰陽に象徴される異なる方向性のどちらを選択するか」というシンプルさの組み合わせ)によって、全ての卦(=あらゆる現実・世界の象徴)が作られているということは変わりません。それは例えば、押したら逆に押し返される物理的な反作用のように、また、与えたら与えられる因果応報の精神法則のように、本質的には簡明な仕組みがその根底に流れています。
八卦や六十四卦については、また追って一つ一つ取り上げていこうと考えていますので、今は細かくは書きません。
今日はひとまず序論・概論、もしくは番外編としました。
次回は、易の三義および元亨利貞について書いていこうと思っています。
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