発達障がい・こころのやまい

専門外ながら相談を受けることがあり、その際に読んだ本や集めた情報を書き留めました(本棚9)。

「心の怒りに火をつけない」(アルボムッレ・スマナサーラ著)

2015-03-03 07:36:25 | 
副題:ブッダの言葉〈法句経〉(ダンマパダ)で知る慈悲の教え
角川文庫、2011年発行



 「こころの病」ではありませんが、パニックの対処法として役立ちそうなので、この項目に入れました。

 著者は“スリランカ上座仏教長老”とのこと。
 私自身が最近、怒りを覚えることが何回かあり、この気持ちをうまく処理できないものかと自問自答しているときに見つけた本です。

 はじめの方は「怒ってはいけない」「怒るとその対象と同じレベルになってしまう」など、「そんなことわかってます」と言いたくなるようなあまり役に立たない文言が続き、読むのをやめたくなった頃に「怒りを解消するヒント」が出てきました。

 それは、自分の行為・所作をゆっくり確認しながら過ごすこと。
 歩く、止まる、座る、食べる、噛む、・・・などの動作を、心の中で確認しながら過ごす。
 怒っている自分の心を見つめ、体を見つめ、呼吸に集中すると、怒りが消え失せていくというのです。

 フムフム・・・“怒り”だけでなく“不安”にも有効かもしれませんね。
 これをマスターすると、瞑想に繋がっていくのかな?

 ただ、怒りが発生しやすい心理状態というものがあるはずですが、それに触れていないのが残念。
 底辺に横たわる現代社会の“不寛容さ”を変えない限り、世界にはびこる“怒り”が消えることはありません。

 ほかに気になった文言。
 自分の存在価値を認めることを「自我」と呼んでいます。
 人間の成長には乳幼児期に大切にされて「自己肯定感」が育つことが「自我の確立」に重要であることが児童心理学で云われています。
 しかしこの本では、「自我」の度が過ぎると「私は偉い」=「傲慢」になるという危険性を指摘しています。
 それが傷つけられると「怒り」が発生し、戦争を含めた人間が起こすあらゆるトラブルの原因になると記されています。

 私の中でちょっと混乱しています・・・。

 通読すると、仏教の本質がチラチラ見え隠れしてくる感覚もありました。
 ほんの1時間程度で読み終わりましたが、内容は濃いと思います。


<メモ>
 自分自身のための備忘録。

・腹を立てて、誰が不幸に舏るかというと、憎しみに満ちている自分自身なのです。自分が錨で汚れてしまえば、自分も悪人も、もうすでにどこか似ているのです。

・何を言われても、なにをされても、自分の心に錨の火をつけないことです(そんなこと云われてもなあ・・・)。

・生きると言うことは、他の命を奪うことでもあります。これまで生きてきたのは、多くの命を奪ってきた証なのです。

・罪を犯した者だけが悪いのではありません。殺人犯は、殺人を犯すところまで孤立していたのでしょう。彼が怒りで凝り固まっているとき、なぜ周囲の人が彼の気持ちを理解してあげられなかったのでしょうか。私たちの社会も、同じように罪があると云えるのではないでしょうか。
 ましてや未成年が罪を犯したのなら、大人の社会にも責任があります。少年は、犯罪者であって、同時に被害者でもあります。

・「あの人が悪い」「上司が悪い」「社会が悪い」「政府が悪い」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない」と思っている人です。しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者と同じようなレベルなのです。
 相手のどうでもいいことや、不完全なことを探し出して争うのではなく、「どこか仲良くできることはないか。どこか共通点はないか」と必死で探した方がいいのです。

・闘って勝つことが、幸福への道ではありません。戦いに挑んでも、勝つ人は一人もいないのです。負けた人は、負けて悔しい思いをします。勝った人は、負けた人に恨まれます。さらに敵が増える結果になります。

・運動会の競争で云えば、勝ち負けを争うのではなく、それぞれが悔いなく自分の力を出し切るのです。自分の能力を発揮することが大事なのです。一等になった人は、勝ったのではありません。自分の能力を発揮したのです。最下位の人も負けたのではありません。自分の能力を発揮したのです。

・過酷な仕事をしていても、生きがいを持ってやっていれば疲れないものです。

・お釈迦様は「心をおさめたら、安楽をもたらす」と云われました。心が清らかになるように向上することが仏道なのです。

・心というものを具体的に捉えなければなりません。
 例えば「怒り」という感情があるとき、それを心の中に探しても見つかりません。しかし怒りの心は、荒々しい呼吸や、こわばった顔の表情、激しい心臓の鼓動、力の入った肩などとなって、具体的に体に表れます。その体の変化ー自分の体の動き、呼吸、歩き方、動作、そして感情などの具体的な動きから、心を捉えていくのです。今、起きている心の動きをつかまえたとき、はじめて心をおさめることができるのです。そのように心をおさめる方法を、誰でも具体的に実践できる道として説いたのが、仏教なのです。
(訓練法の一例)
 食事をするプロセス一つ一つの動作を、丁寧に確認します。「座ります、食べます、見ます、箸を取ります、運びます、口に入れます、噛みます、味わいます、飲み込みます」と。ゆっくり時間をかけて食べると、体に必要なものが入っただけで満足感が得られるようになります。痩せすぎの人も太りすぎの人も、ちょうど良い状態になっていきます。こうして体自体が必要としているものがわかってくると、不必要なものは自然に食べたくなくなります。
 この食事の瞑想をしてみると、今まで発見できなかった味がわかってきます。ご飯だけでも、噛むたびに味が変わっていきます。
 ゆっくり丁寧に食事をしていると、最初はいらだちが出てくるかもしれません。しかしそれでも実践してみるのです。それができるようになれば、人生のいらだちまでもが解消されてゆきます。

心をおさめる方法 ~今の瞬間の自分の体と心を見つめる
1.すぐに自分の心を見る
 腹が立っているときこそ、怒りをぶつけるのではなくて、自分の心を見つめるのです。「私は今、腹が立っている、怒っている」と二、三回くらい心の中で云うだけでも、サッと怒りは消えてしまいます。
2.呼吸を見つめる
 ただただ呼吸に意識を向けるのです。「吸う、吐く。体が膨らむ、縮む。」と、呼吸しながら言葉で確認してください。これだけでとてもリラックスすることができます。
3.歩く
 歩く際に、足の動きに気を向けます。左、右と足の動きを確認し、足の動きを感じるのです。こうすると、1キロも歩け別枯れてしまう人でも、四キロの道のりを歩いても疲れを感じなくなるでしょう。ただ歩くことに徹して、歩くことをよく味わうだけで、健康になります。
4.体の動きを確認する
 ゆっくりとした動作に意識を向けると、心が落ち着きます。悔やんでいる無駄な時間がなくなって、心が清らかになります。

・「執着」とは
 他の無常は認めても、「わたし」自身の無常を認めたがらないこと。「わたし」の変化を受け入れられないこと。
 ですから、やすらぎを得る道は、この「わたし」という思いを捨てることにあります。

・自我を捨てる
 自我の働きは「自分が最も大切で偉いのだ」という思い込みです。自我が消えてしまえば、相手が自分より劣るとか、立派だとか区別して争うことはなくなり、心は穏やかになるのです。
 出家の世界では「自分のもの」ということは一切認められません。自分の椅子さえ持ってはいけません。出家社会は自我のない世界の生きたモデルなのです。

・ヴィパッサナー(いつも目覚めて心をよく見る)
 何をしていても、どんなときでも、今の自分に気づいていくこと。
 息を吸う、吐くという呼吸の動きを一つ一つ味わい、楽しむことができれば、それは人生を楽しむことにも通じます。

・「しっかりしなさい」「がんばりなさい」という前に、まず自分をととのえる
 親は親としての役割をキチンと果たせば、子どももキチンとするのです。
 お釈迦様の教えは「他人の過失を見るのではなく、自分を見なさい」ということです。

・仏教は「得る道」ではなく「捨てる道」を教える
 「すべてを捨てる」ということは「何ものにも依存しない」ということです。それが真の自由と云うことです。

・「死を瞑想して観察しなさい」
 死の瞑想とは、さまざまな死に接したとき「自分もこのように死ぬのだ」と念ずることです。この瞑想を深めていくと、やがて「死ぬのが怖い、どうしよう」という不安や恐れはなくなってきます。すると、人とも争わなくなります。「どうせいつか死ぬんだから、争うなんてばかばかしい」というようになります。

・たれもが結局は死ぬのですから、そんなにびくびくしなくても、そんなに緊張してストレスを感じなくてもいいのです。

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