タッタ、タッタ、タッタ、妻を追いかけて走った。
少し息が切れて、立ち止まった。左へ曲がる路地の前だった。
「ここは!?懐かしい」
思わず声に出してしまった。
この辺は以前によく通ったところなのに、この路地のことはずっと気がつかなかった。
病気になる前は何時も車で通っていた。最近は病気で、歩くことが少なくなって、滅多に通ることが無かった。
この路地を入っていくと、確か長谷の大通りに突き抜ける。小学校の頃、この路地でよく遊んだ。
どうしてここで遊んだのだろう。
確か、この路地のどこかに友達の家があったような気がする。
その家の前で今頃はよくコマを回したな。コマの芯に釘を入れたり、周りにビニールテープを巻いたりして、丈夫で破壊力のあるコマに改造したんだ。
弟がいてトオルちゃんがいて、夏には従妹がいた事もあった。
まだ誰かがいたんだけれど思い出さない。誰だったんだろう。
もう少し先へ行くと江の電の線路があって、その先の家にはシイの木があった。
石の塀から大きなシイの木が外へあふれるように出ていた。秋にはシイの実がいっぱいなったんだ。
塀の外にいっぱい落ちたシイの実を拾ったんだ。ポケットがザクザクして、その実を食べながらワーワーと騒ぎながら遊んだのだった。
落ちている実が少ないと、塀に登って木を揺すってとったんだ。その家の人から怒られたことなんか一回もなかったな。
シイの実なんか何年食べてないのだろう。
それにしても、この路地は狭いな、昔はもっと広かったような気がしたのだけれど。
遅れないように、サッサ、サッサ、と歩いて行くと、「かいひん荘」の前に出た。
小さい割烹旅館なのだが値段は高めのところだ。
何年か前に、叔父さんの法事で入ったことがあった。
和室だったのだけれど、時代劇の、抜荷をしている廻船問屋の部屋みたいに、畳の上に椅子とテーブルを置いて座った。
劇ではギヤマンの壺を見ながら、廻船問屋の主人が悪い代官とワインを飲んでいるのだが、そんなことは無かった。
最近はよくあるスタイルだ。食事は和食。出てきたものは全く覚えていないのだが、美味しかったことだけ覚えている。
そのまま、どんどん進もう、置いていかれてしまう。
由比ガ浜通りに出た。
笹目だ。バブルの頃にこの辺は鎌倉でとっても高かった住宅地だった。
どうして、そんなに高かったのだろう。信じられない。
今はマンションになっているのだけれど、昔は映画館だった。
小学校の時、3本立て60円ぐらいだったと思う。
鎌倉駅の周辺だけで映画館は5件あった。
映画全盛の頃。
この映画館は中にストーブが置いてあった。
石炭を入れるやつだった。
でも、それだけでは、冬は寒くて、ストーブの周りに立ってあたりながら映画を見ている人がたくさんいた。
伴淳アチャコの「二等兵物語」や小坂一也の映画なんかやっていた。松竹系の小屋だった。
年中、フィルムが途中で切れて、つなぐ間待っていることがあった。
でも、それは、良いほうでフィルムが届かなくて、上映が遅れることがしばしばあったのだ。
霧が濃くて遂には届かなかったことがあった。
その時は、メモに映画館のハンコを押したものを配って次回はこれで入れます、と言っていたのを覚えている。しかも、そのメモは、古いポスターを切った紙だった。
この映画館は火を出して燃えてなくなってしまった。寒くて、働いている人が、古いフィルムを燃して暖をとっていたのだが、その火が移ったようだった。
東映系は小町通りにあった、「名画座」。近藤勇の片岡千恵蔵、水戸黄門の東千代之介、白馬童子の山城新伍、新吾十番勝負の大川橋蔵、丹下左膳の大友柳太朗、次から次へと出てくる。
よく考えると、みんな今は生きていない。
「市民座」は洋画が多かった。菩提樹、五つの硬貨、ドラキュラやフランケンシュタインも見た。
本当の題は違ったと思うのだけれど、ケセラセラも見た。
鎌倉の裏駅、銀座通り(今は御成通り)には「鎌倉劇場」があった。ここは日活系。石原裕次郎や宍戸錠はここでやっていた。
その後、日活ポルノになってもここだった。
ずっと、後になって裏駅の駅前に「テアトル鎌倉」ができた。
ここは、大映系や洋画をやっていた。森繁久彌の駅前シリーズ、加山雄三の若大将シリーズ、梅宮辰夫の不良番長シリーズもここだった。
この頃の映画は面白かった。映画に格式も芸術も何も無かった気がする。ただ、面白いかどうかだった。
こんなに賑わっていた映画館も今は1件もなくなってしまった。
暮れてきて、こんな寒い日にはその頃を思い出す。
妻に置いていかれないように、しっかり歩こう!
(また、次回)
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少し息が切れて、立ち止まった。左へ曲がる路地の前だった。
「ここは!?懐かしい」
思わず声に出してしまった。
この辺は以前によく通ったところなのに、この路地のことはずっと気がつかなかった。
病気になる前は何時も車で通っていた。最近は病気で、歩くことが少なくなって、滅多に通ることが無かった。
この路地を入っていくと、確か長谷の大通りに突き抜ける。小学校の頃、この路地でよく遊んだ。
どうしてここで遊んだのだろう。
確か、この路地のどこかに友達の家があったような気がする。
その家の前で今頃はよくコマを回したな。コマの芯に釘を入れたり、周りにビニールテープを巻いたりして、丈夫で破壊力のあるコマに改造したんだ。
弟がいてトオルちゃんがいて、夏には従妹がいた事もあった。
まだ誰かがいたんだけれど思い出さない。誰だったんだろう。
もう少し先へ行くと江の電の線路があって、その先の家にはシイの木があった。
石の塀から大きなシイの木が外へあふれるように出ていた。秋にはシイの実がいっぱいなったんだ。
塀の外にいっぱい落ちたシイの実を拾ったんだ。ポケットがザクザクして、その実を食べながらワーワーと騒ぎながら遊んだのだった。
落ちている実が少ないと、塀に登って木を揺すってとったんだ。その家の人から怒られたことなんか一回もなかったな。
シイの実なんか何年食べてないのだろう。
それにしても、この路地は狭いな、昔はもっと広かったような気がしたのだけれど。
遅れないように、サッサ、サッサ、と歩いて行くと、「かいひん荘」の前に出た。
小さい割烹旅館なのだが値段は高めのところだ。
何年か前に、叔父さんの法事で入ったことがあった。
和室だったのだけれど、時代劇の、抜荷をしている廻船問屋の部屋みたいに、畳の上に椅子とテーブルを置いて座った。
劇ではギヤマンの壺を見ながら、廻船問屋の主人が悪い代官とワインを飲んでいるのだが、そんなことは無かった。
最近はよくあるスタイルだ。食事は和食。出てきたものは全く覚えていないのだが、美味しかったことだけ覚えている。
そのまま、どんどん進もう、置いていかれてしまう。
由比ガ浜通りに出た。
笹目だ。バブルの頃にこの辺は鎌倉でとっても高かった住宅地だった。
どうして、そんなに高かったのだろう。信じられない。
今はマンションになっているのだけれど、昔は映画館だった。
小学校の時、3本立て60円ぐらいだったと思う。
鎌倉駅の周辺だけで映画館は5件あった。
映画全盛の頃。
この映画館は中にストーブが置いてあった。
石炭を入れるやつだった。
でも、それだけでは、冬は寒くて、ストーブの周りに立ってあたりながら映画を見ている人がたくさんいた。
伴淳アチャコの「二等兵物語」や小坂一也の映画なんかやっていた。松竹系の小屋だった。
年中、フィルムが途中で切れて、つなぐ間待っていることがあった。
でも、それは、良いほうでフィルムが届かなくて、上映が遅れることがしばしばあったのだ。
霧が濃くて遂には届かなかったことがあった。
その時は、メモに映画館のハンコを押したものを配って次回はこれで入れます、と言っていたのを覚えている。しかも、そのメモは、古いポスターを切った紙だった。
この映画館は火を出して燃えてなくなってしまった。寒くて、働いている人が、古いフィルムを燃して暖をとっていたのだが、その火が移ったようだった。
東映系は小町通りにあった、「名画座」。近藤勇の片岡千恵蔵、水戸黄門の東千代之介、白馬童子の山城新伍、新吾十番勝負の大川橋蔵、丹下左膳の大友柳太朗、次から次へと出てくる。
よく考えると、みんな今は生きていない。
「市民座」は洋画が多かった。菩提樹、五つの硬貨、ドラキュラやフランケンシュタインも見た。
本当の題は違ったと思うのだけれど、ケセラセラも見た。
鎌倉の裏駅、銀座通り(今は御成通り)には「鎌倉劇場」があった。ここは日活系。石原裕次郎や宍戸錠はここでやっていた。
その後、日活ポルノになってもここだった。
ずっと、後になって裏駅の駅前に「テアトル鎌倉」ができた。
ここは、大映系や洋画をやっていた。森繁久彌の駅前シリーズ、加山雄三の若大将シリーズ、梅宮辰夫の不良番長シリーズもここだった。
この頃の映画は面白かった。映画に格式も芸術も何も無かった気がする。ただ、面白いかどうかだった。
こんなに賑わっていた映画館も今は1件もなくなってしまった。
暮れてきて、こんな寒い日にはその頃を思い出す。
妻に置いていかれないように、しっかり歩こう!
(また、次回)
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