宝満山の草木類
先日のコシアブラに続いて第二弾です。
写真は推定有智山城内に見られる「お茶」の木です。
大半は高さ30cm程度の低平なもので
あちこちにまばらに見られます。
この木も伐採作業のときに事前説明して
切り残したものの一つです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/09/34842f5c91379055120af666e7edc9f8.jpg)
推定有智山城内の「お茶の木」
山中では特定の場所でお茶の木が自生しています。
お茶は本来栽培品種で自然に生えているものではありません。
山裾では北谷の集落の路傍、山中では内山辛野遺跡周辺
ここの推定有智山城内、中宮周辺、筑紫野市側の東院谷などです。
宝満のお茶の木にはエピソードがあります。
宝満山の仏教・修験道から見た歴史書「竈門山旧記」には
戦国時代の戦乱で疲弊した宝満坊中に対して
黒田藩主長政の採った施策が記載されています。
「豊州求菩提山茶園を以為扶持。是山猶如此すへしとて
永々課役有間敷旨被仰出也。此比四五ヶ寺山下住茶園
くわたつといへとも于終不可有利。山上す茶の実数十石
拝領被下。其地谷山、九重原上辺也。」
推定有智山城の辺りがまさに「谷山、九重原」であり、
城内に見られるお茶の木はその末裔と見られます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/4b/c15ea196bc3e14466c02ebbafbf7ef13.jpg)
今回の伐採で発見された推定「茶園の石垣」
その証拠に今回の伐採で確認されたのですが
城内ではおよそ山城に必要と考えられない
高さ20cmほどの石を並べた段々の
畑の跡と考えられる施設が連続して営まれています。
この石の段々が茶園に係わる開墾の痕跡と考えられます。
「旧記」では利潤が上がらず事業は
終わったように記載されていますが、
明治前半に編纂された「福岡県地理全誌」には
北谷の項の物産に「茶」の記載があります。
山内でのお茶の栽培は山伏から里人に
引き継がれたのではないでしょうか?
遡って戦国時代に山中が豊後大友宗麟によって支配された際に、
「旧記」では、寺院の前栽、茶園まで検地されたとされており
長政下賜の茶の実以前にも坊中には
小規模なお茶の栽培があったようです。
山中の雑木に歴史有り!
先日のコシアブラに続いて第二弾です。
写真は推定有智山城内に見られる「お茶」の木です。
大半は高さ30cm程度の低平なもので
あちこちにまばらに見られます。
この木も伐採作業のときに事前説明して
切り残したものの一つです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/09/34842f5c91379055120af666e7edc9f8.jpg)
推定有智山城内の「お茶の木」
山中では特定の場所でお茶の木が自生しています。
お茶は本来栽培品種で自然に生えているものではありません。
山裾では北谷の集落の路傍、山中では内山辛野遺跡周辺
ここの推定有智山城内、中宮周辺、筑紫野市側の東院谷などです。
宝満のお茶の木にはエピソードがあります。
宝満山の仏教・修験道から見た歴史書「竈門山旧記」には
戦国時代の戦乱で疲弊した宝満坊中に対して
黒田藩主長政の採った施策が記載されています。
「豊州求菩提山茶園を以為扶持。是山猶如此すへしとて
永々課役有間敷旨被仰出也。此比四五ヶ寺山下住茶園
くわたつといへとも于終不可有利。山上す茶の実数十石
拝領被下。其地谷山、九重原上辺也。」
推定有智山城の辺りがまさに「谷山、九重原」であり、
城内に見られるお茶の木はその末裔と見られます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/4b/c15ea196bc3e14466c02ebbafbf7ef13.jpg)
今回の伐採で発見された推定「茶園の石垣」
その証拠に今回の伐採で確認されたのですが
城内ではおよそ山城に必要と考えられない
高さ20cmほどの石を並べた段々の
畑の跡と考えられる施設が連続して営まれています。
この石の段々が茶園に係わる開墾の痕跡と考えられます。
「旧記」では利潤が上がらず事業は
終わったように記載されていますが、
明治前半に編纂された「福岡県地理全誌」には
北谷の項の物産に「茶」の記載があります。
山内でのお茶の栽培は山伏から里人に
引き継がれたのではないでしょうか?
遡って戦国時代に山中が豊後大友宗麟によって支配された際に、
「旧記」では、寺院の前栽、茶園まで検地されたとされており
長政下賜の茶の実以前にも坊中には
小規模なお茶の栽培があったようです。
山中の雑木に歴史有り!