憲法9条改正反対等と言う護憲派の方々は、家の鍵を開けっ放しで寝とけば良い。また、窓も開けっ放しにしとけば良い。更に、金庫も開けっ放しで寝とけば良い。そうして世の中の人が皆良い人ばかりと信じて、楽観的に暮らしておけば良い。そうする事で、強姦や強盗に遭い、痛い目に遭う事で、初めて世の中の本当の姿を知る事となり、平和ボケから目が覚めるものと思われる。
国内の治安の為に、警察が存在する。警察は拳銃を持って武装している。警察が武装している事によって、犯罪への抑止力が高まっている。性善説の様な「理想的」な世の中で良い人ばかりであるならば、警察は必要ない。また、家の鍵をずっと開けていても安全である。しかし「現実」の世の中は性悪説の様になっており、悪い人間が沢山存在する。それは聖書にも書いてある事である。聖書ははっきりと、「人間はみな悪である」と書いてあるのである。人間は皆、「原罪」という悪の性質を、産まれた時から抱えながら生きている。生い立ち等が影響する等して、「原罪」から悪の芽が伸びて来るのである。それ故、誰しもが悪人、罪を犯す事が考えられるのである。
国外に於いても同じである。他国が皆良い国と思える様な「理想的」な世界であれば良いが、「現実」は悪い国、腹黒い国が存在する。長い歴史上、つい70年程前までは、白人至上主義の国々がアジア・アフリカで悪い事を行っていた。そして今でも、特に中東地域への介入等をして悪い事をしている。北朝鮮は拉致を行ったので勿論悪い国で有るが、それ以外にも、南シナ海を侵略して占有化しつつ有る支那(中国)、日本に悪口ばかりを言ってくる韓国等、悪い国は沢山有るのである。その為、外国の日本に向けての犯罪に対しての抑止力となっているのが自衛隊である。
しかし、自衛隊は縛りが多すぎて、対外的抑止力を思うように高める事が出来なかった。一昨年に成立した安保関連法案によって、集団的自衛権行使が可能となって、抑止力は高まった。しかし、外国の軍隊がネガティブ・リストである事に対し、自衛隊はポジティブ・リストである。他国の軍隊はしてはいけないことだけ決められている事に対し、自衛隊はして良い事だけが決められている。それ故、他国の軍隊と比べて行動範囲・許容範囲が極めて狭くなっており、抑止力が抑えられている。
自衛隊は勿論必要であり、その上で抑止力を更に高める必要が有る。現在の日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「理想的」な世界を想定して書かれており、正に性善説である。そして9条2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」も同様に「理想的」世界を想定しての文章である。現在の日本国憲法は、実は「フリーメーソン憲法」であり、性善説、グローバリズム、偽善の平和が謳われており、日本を失くして日本を世界政府のものにする為のものである。つまり、日本の護憲派の方々は、その偽善に騙されているのである。
9条1項で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあり、これは変えない。そしてこの1項を侵略戦争の事と捉えて、2項で「前項の目的を達するため」と有るので、以下の戦力不保持はあくまでも侵略戦争のみに対しての事を言い自衛戦争については戦力不保持は当てはまらないと言う適正な解釈が出来る。しかし適正な解釈だけでは曖昧となり一見すると矛盾にも感じ得る為に、2項をはっきりと自衛の為に戦力を保持すると明記して変えるのである。そして大元の憲法がはっきりすると、その下に繋がる法律も複雑にならず、一々細かく1件1件立てる必要も無くなって来る。それと戦争のみならず、各種テロや大規模災害等を想定する緊急事態条項の新設も、権限を一時的に集中して迅速な対応を行う為にも、勿論必要である。
特定秘密保護法、安保関連法、テロ等組織犯罪処罰法、憲法改正の内の9条改正と緊急事態条項設置等と、何故急ぐ必要があるのか。それは、第三次世界大戦の危機への備えの為である。第三次大戦は、イルミナティ・フリーメーソンによって第一次大戦が始まる前から計画されている。2つの大戦は、既に計画通りに行なわれた。これから3つ目の大戦が起こる様に計画されている事を、日本の指導者の方々は知っているのである。よって、それらを反対する方々は、その計画を知らないだけなのか、危機意識が足りないのか、世界政府に媚びて逃れようとしているのか、備えを怠るつもりであろうか?。平和ボケにも程がある。
そして、いざという時の自衛戦争は勿論必要である。他国が攻めてきて大切な人やものを守らず逃げるのは卑怯であり無責任である。守る事は、義務であり責任である。勿論、武力に任せて短気を起こす事も卑怯となる。あくまでも忍耐の上に忍耐を重ねた末に、道義に適った自衛戦争を行うのである。この事は、真理の上に立った行動となる。自衛戦争で命を失う事は、後の永遠に繋がる行為である。特攻隊の方々は、自らの命を犠牲に捧げて、創造主によって後の永遠を授けられた。特攻隊の生き方と死に方は、正にイエス・キリストと同様である。特攻隊をはじめとする旧日本軍の方々は、イエス・キリストと同様にして「一粒の麦」となって撒かれ、その後の日本の繁栄に繋がっただけでは無く、それぞれが後の永遠の命・魂を得たのである。
新約聖書・ヨハネの福音書12章24・25節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」
吉田松陰
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
戦争で死ぬか、病気で死ぬかの違いだけであり、いずれ人間はこの世で死ぬ。数年~数十年違うか否かぐらいで、百年も千年も寿命の違いが有る訳では無い。この世の寿命を重んじるか、死んだ後の命・魂を重んじるか。この世の短い命よりもこの世での死の後の方が長く、或いは永遠なのである。かつての日本の武士は、長い寿命を望むよりも、大義の為、名誉の為、忠義の為に、そして勇と仁、礼、誠の心を持って、且つ死をも恐れない克己心を持って、潔く自害する死を選んだ。武士道は、陽明学とキリスト教と同じく知行合一、実践躬行である。
葉隠
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
人間、痛い目に遭わないと、人の気持ちも解らない人が多い。大した失敗や苦労もせず、順調に世間一般的なレールからはみ出さずに生きて来て年を重ねた人達は、物事に対する理解が不足している。それ故、年を重ねてから初めてリストラに遭ったり、事故等のトラブルに遭遇する等した時に、路頭に迷うばかりで融通が効かず、仕舞には自殺を考えてしまう者もいる。
一方、いじめられたり、差別されたり、大きな怪我や病気をしたり、自然災害やその他人災に被災された方々は、痛みを知っている為に危機意識が高く、備えの意識が働く。
Preparationの意味は、心構え、覚悟、準備、備え、予習、練習、下調べ、地ならし、そして安息日の前日、ミサの前の祈りである。危機に遭遇する運命・宿命を悟り覚え、身の回りの物や飲食品、金銭等の準備をするだけでは無く、心の備え、その時の為の心を用意しておき構えておく。心を構える為に、予習・練習となる修行を積んでおく。
また、危機に遭遇した時の減災を考えるだけでは無く、死ぬ可能性をも考えておく必要が有る。危機において運良く助かる場合も有れば、一方で死ぬ事も勿論考えられる。故に、「死への備え」が必要である。死んだ後、人間はどうなるのか、その事を考えれば、どの様な備えをするべきかは答えが出て来る。
キリスト者(クリスチャン)の場合には、その事の答えは解っているものと思われる。しかしそうでない者、例えば仏教徒の場合は輪廻転生で再び別の生物にでもなってこの世に生まれて来るという様な考えがあるのかもしれない。キリスト者の場合は、この世の生命は短いもので、死んだ後の永遠の命を信じる。但し、この世での行いが悪く心が汚れていれば、後の永遠を創造主から受ける事は出来ない。創造主である神は、その心を見て選別し、悪い者を排除する。つまり、後の永遠を得たいと思うならば、この世での短い間に不遇に遭おうとも、後の永遠において幸福に感じられる様な事がある事を信じ、またこの世で受けている境遇に感謝し、欲望から離れた生き方をし、自分の内面を省みて「悔い改め」をする。この事が、「死への備え」となる。人に悪口を言ったり、嘘をついたり、人を妬んだり、人を恨んだり……等の事も、社会生活上に於いての刑事的な事にはならないが罪である。
外側の備えだけでは無く、内側の備え、「心の備え」が、特に「死への備え」としては必要な事である。「死への備え」となる「心の備え」とは、「悔い改め」の事である。
本ブログ過去の関連記事
・2017/08/16付:「『非戦』は『道義に外れた戦争に非ず』、忍耐の末のやむにやまれぬ自衛戦争、守るは義務・責任、公義の為の捧命・犠牲、左傾・性善説化した教界と距離を置く聖書基準の視点から提示・・『キリスト者の戦争論』を読む」
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
国内の治安の為に、警察が存在する。警察は拳銃を持って武装している。警察が武装している事によって、犯罪への抑止力が高まっている。性善説の様な「理想的」な世の中で良い人ばかりであるならば、警察は必要ない。また、家の鍵をずっと開けていても安全である。しかし「現実」の世の中は性悪説の様になっており、悪い人間が沢山存在する。それは聖書にも書いてある事である。聖書ははっきりと、「人間はみな悪である」と書いてあるのである。人間は皆、「原罪」という悪の性質を、産まれた時から抱えながら生きている。生い立ち等が影響する等して、「原罪」から悪の芽が伸びて来るのである。それ故、誰しもが悪人、罪を犯す事が考えられるのである。
国外に於いても同じである。他国が皆良い国と思える様な「理想的」な世界であれば良いが、「現実」は悪い国、腹黒い国が存在する。長い歴史上、つい70年程前までは、白人至上主義の国々がアジア・アフリカで悪い事を行っていた。そして今でも、特に中東地域への介入等をして悪い事をしている。北朝鮮は拉致を行ったので勿論悪い国で有るが、それ以外にも、南シナ海を侵略して占有化しつつ有る支那(中国)、日本に悪口ばかりを言ってくる韓国等、悪い国は沢山有るのである。その為、外国の日本に向けての犯罪に対しての抑止力となっているのが自衛隊である。
しかし、自衛隊は縛りが多すぎて、対外的抑止力を思うように高める事が出来なかった。一昨年に成立した安保関連法案によって、集団的自衛権行使が可能となって、抑止力は高まった。しかし、外国の軍隊がネガティブ・リストである事に対し、自衛隊はポジティブ・リストである。他国の軍隊はしてはいけないことだけ決められている事に対し、自衛隊はして良い事だけが決められている。それ故、他国の軍隊と比べて行動範囲・許容範囲が極めて狭くなっており、抑止力が抑えられている。
自衛隊は勿論必要であり、その上で抑止力を更に高める必要が有る。現在の日本国憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と「理想的」な世界を想定して書かれており、正に性善説である。そして9条2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」も同様に「理想的」世界を想定しての文章である。現在の日本国憲法は、実は「フリーメーソン憲法」であり、性善説、グローバリズム、偽善の平和が謳われており、日本を失くして日本を世界政府のものにする為のものである。つまり、日本の護憲派の方々は、その偽善に騙されているのである。
9条1項で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあり、これは変えない。そしてこの1項を侵略戦争の事と捉えて、2項で「前項の目的を達するため」と有るので、以下の戦力不保持はあくまでも侵略戦争のみに対しての事を言い自衛戦争については戦力不保持は当てはまらないと言う適正な解釈が出来る。しかし適正な解釈だけでは曖昧となり一見すると矛盾にも感じ得る為に、2項をはっきりと自衛の為に戦力を保持すると明記して変えるのである。そして大元の憲法がはっきりすると、その下に繋がる法律も複雑にならず、一々細かく1件1件立てる必要も無くなって来る。それと戦争のみならず、各種テロや大規模災害等を想定する緊急事態条項の新設も、権限を一時的に集中して迅速な対応を行う為にも、勿論必要である。
特定秘密保護法、安保関連法、テロ等組織犯罪処罰法、憲法改正の内の9条改正と緊急事態条項設置等と、何故急ぐ必要があるのか。それは、第三次世界大戦の危機への備えの為である。第三次大戦は、イルミナティ・フリーメーソンによって第一次大戦が始まる前から計画されている。2つの大戦は、既に計画通りに行なわれた。これから3つ目の大戦が起こる様に計画されている事を、日本の指導者の方々は知っているのである。よって、それらを反対する方々は、その計画を知らないだけなのか、危機意識が足りないのか、世界政府に媚びて逃れようとしているのか、備えを怠るつもりであろうか?。平和ボケにも程がある。
そして、いざという時の自衛戦争は勿論必要である。他国が攻めてきて大切な人やものを守らず逃げるのは卑怯であり無責任である。守る事は、義務であり責任である。勿論、武力に任せて短気を起こす事も卑怯となる。あくまでも忍耐の上に忍耐を重ねた末に、道義に適った自衛戦争を行うのである。この事は、真理の上に立った行動となる。自衛戦争で命を失う事は、後の永遠に繋がる行為である。特攻隊の方々は、自らの命を犠牲に捧げて、創造主によって後の永遠を授けられた。特攻隊の生き方と死に方は、正にイエス・キリストと同様である。特攻隊をはじめとする旧日本軍の方々は、イエス・キリストと同様にして「一粒の麦」となって撒かれ、その後の日本の繁栄に繋がっただけでは無く、それぞれが後の永遠の命・魂を得たのである。
新約聖書・ヨハネの福音書12章24・25節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」
吉田松陰
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
戦争で死ぬか、病気で死ぬかの違いだけであり、いずれ人間はこの世で死ぬ。数年~数十年違うか否かぐらいで、百年も千年も寿命の違いが有る訳では無い。この世の寿命を重んじるか、死んだ後の命・魂を重んじるか。この世の短い命よりもこの世での死の後の方が長く、或いは永遠なのである。かつての日本の武士は、長い寿命を望むよりも、大義の為、名誉の為、忠義の為に、そして勇と仁、礼、誠の心を持って、且つ死をも恐れない克己心を持って、潔く自害する死を選んだ。武士道は、陽明学とキリスト教と同じく知行合一、実践躬行である。
葉隠
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
人間、痛い目に遭わないと、人の気持ちも解らない人が多い。大した失敗や苦労もせず、順調に世間一般的なレールからはみ出さずに生きて来て年を重ねた人達は、物事に対する理解が不足している。それ故、年を重ねてから初めてリストラに遭ったり、事故等のトラブルに遭遇する等した時に、路頭に迷うばかりで融通が効かず、仕舞には自殺を考えてしまう者もいる。
一方、いじめられたり、差別されたり、大きな怪我や病気をしたり、自然災害やその他人災に被災された方々は、痛みを知っている為に危機意識が高く、備えの意識が働く。
Preparationの意味は、心構え、覚悟、準備、備え、予習、練習、下調べ、地ならし、そして安息日の前日、ミサの前の祈りである。危機に遭遇する運命・宿命を悟り覚え、身の回りの物や飲食品、金銭等の準備をするだけでは無く、心の備え、その時の為の心を用意しておき構えておく。心を構える為に、予習・練習となる修行を積んでおく。
また、危機に遭遇した時の減災を考えるだけでは無く、死ぬ可能性をも考えておく必要が有る。危機において運良く助かる場合も有れば、一方で死ぬ事も勿論考えられる。故に、「死への備え」が必要である。死んだ後、人間はどうなるのか、その事を考えれば、どの様な備えをするべきかは答えが出て来る。
キリスト者(クリスチャン)の場合には、その事の答えは解っているものと思われる。しかしそうでない者、例えば仏教徒の場合は輪廻転生で再び別の生物にでもなってこの世に生まれて来るという様な考えがあるのかもしれない。キリスト者の場合は、この世の生命は短いもので、死んだ後の永遠の命を信じる。但し、この世での行いが悪く心が汚れていれば、後の永遠を創造主から受ける事は出来ない。創造主である神は、その心を見て選別し、悪い者を排除する。つまり、後の永遠を得たいと思うならば、この世での短い間に不遇に遭おうとも、後の永遠において幸福に感じられる様な事がある事を信じ、またこの世で受けている境遇に感謝し、欲望から離れた生き方をし、自分の内面を省みて「悔い改め」をする。この事が、「死への備え」となる。人に悪口を言ったり、嘘をついたり、人を妬んだり、人を恨んだり……等の事も、社会生活上に於いての刑事的な事にはならないが罪である。
外側の備えだけでは無く、内側の備え、「心の備え」が、特に「死への備え」としては必要な事である。「死への備え」となる「心の備え」とは、「悔い改め」の事である。
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・2017/08/16付:「『非戦』は『道義に外れた戦争に非ず』、忍耐の末のやむにやまれぬ自衛戦争、守るは義務・責任、公義の為の捧命・犠牲、左傾・性善説化した教界と距離を置く聖書基準の視点から提示・・『キリスト者の戦争論』を読む」
引用文献
・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)