狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

一意専心:うんちの為にトイレに行く程度の目的しかないから人の顔色で決める/No reading faces by "purpose" to devote ownself for the Creator

2020-01-10 00:10:00 | 世間・空気
 <※本当の投稿日時:2020/01/09 20:15
  ※True posted date & time:2020/01/09 20:15 >

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 
 



 新約聖書・マタイの福音書4章1~4節
  さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
  そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
  すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
  イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 The New Testament・The Gospel of Matthew 4:1~4
  Then Jesus was led up by the Spirit into the wilderness to be tempted by the devil.
  When he had fasted forty days and forty nights, he was hungry afterward.
  The tempter came and said to him, “If you are the Son of God, command that these stones become bread.”
  But he answered, “It is written, ‘Man shall not live by bread alone, but by every word that proceeds out of God’s mouth.' ”

  
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第一10章31節
  こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 10:31
  Whether therefore you eat or drink, or whatever you do, do all to the glory of God.

 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第二5章14~19節
  というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
  また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
  ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
  だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
  これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
  すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

 The New Testament・The Second Epistle to the Corinthians 10:31
  For the love of Christ compels us; because we judge thus: that one died for all, therefore all died.
  He died for all, that those who live should no longer live to themselves, but to him who for their sakes died and rose again.
  Therefore we know no one according to the flesh from now on. Even though we have known Christ according to the flesh, yet now we know him so no more.
  Therefore if anyone is in Christ, he is a new creation. The old things have passed away. Behold, all things have become new.
  But all things are of God, who reconciled us to himself through Jesus Christ, and gave to us the ministry of reconciliation;
  namely, that God was in Christ reconciling the world to himself, not reckoning to them their trespasses, and having committed to us the word of reconciliation.

 
 



 新約聖書・ピリピ人への手紙1章20~21節
  それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
  私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

 The New Testament・Epistle to the Philippians 1:20~21
  according to my earnest expectation and hope, that I will in no way be disappointed, but with all boldness, as always, now also Christ will be magnified in my body, whether by life or by death.
  For to me to live is Christ, and to die is gain.

 
 



 新約聖書・エペソ人への手紙5章15~21節
   そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
  機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
  ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
  また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
  詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
  いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
  キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

 The New Testament・The Epistle to the Ephesians 5:15~21
   Therefore watch carefully how you walk, not as unwise, but as wise,
  redeeming the time, because the days are evil.
  Therefore, don’t be foolish, but understand what the will of the Lord is.
  Don’t be drunken with wine, in which is dissipation, but be filled with the Spirit,
  speaking to one another in psalms, hymns, and spiritual songs; singing and making melody in your heart to the Lord;
  giving thanks always concerning all things in the name of our Lord Jesus Christ to God, even the Father;
  subjecting yourselves to one another in the fear of Christ.

 
 



 新約聖書・テモテへの手紙 第二4章1~8節
  神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
  みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
  というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
  真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
  しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
  私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
  私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
  今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

 The New Testament・The Second Epistle to Timothy 4:1~8
  I command you therefore before God and the Lord Jesus Christ, who will judge the living and the dead at his appearing and his Kingdom:
  preach the word; be urgent in season and out of season; reprove, rebuke, and exhort with all patience and teaching.
  For the time will come when they will not listen to the sound doctrine, but having itching ears, will heap up for themselves teachers after their own lusts,
  and will turn away their ears from the truth, and turn away to fables.
  But you be sober in all things, suffer hardship, do the work of an evangelist, and fulfill your ministry.
  For I am already being offered, and the time of my departure has come.
  I have fought the good fight. I have finished the course. I have kept the faith.
  From now on, the crown of righteousness is stored up for me, which the Lord, the righteous judge, will give to me on that day; and not to me only, but also to all those who have loved his appearing.

 
 



 新約聖書・使徒の働き20章17~27節
   パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。
  彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。
   「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。
  私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。
  益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
  ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。
  いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
  ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
  けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
  皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。
  ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。
  私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

 The New Testament・The Acts of the Apostles 20:17~27
   From Miletus he sent to Ephesus, and called to himself the elders of the assembly.
  When they had come to him, he said to them,
   “You yourselves know, from the first day that I set foot in Asia, how I was with you all the time,
  serving the Lord with all humility, with many tears, and with trials which happened to me by the plots of the Jews;
  how I didn’t shrink from declaring to you anything that was profitable, teaching you publicly and from house to house,
  testifying both to Jews and to Greeks repentance toward God, and faith toward our Lord Jesus.
  Now, behold, I go bound by the Spirit to Jerusalem, not knowing what will happen to me there;
  except that the Holy Spirit testifies in every city, saying that bonds and afflictions wait for me.
  But these things don’t count; nor do I hold my life dear to myself, so that I may finish my race with joy, and the ministry which I received from the Lord Jesus, to fully testify to the Good News of the grace of God.
  “Now, behold, I know that you all, among whom I went about preaching God’s Kingdom, will see my face no more.
  Therefore I testify to you today that I am clean from the blood of all men,
  for I didn’t shrink from declaring to you the whole counsel of God.


 一意専心
  うんちを「目的」にトイレに行くレベルの「目的」しか持たないから人の顔色で決める
 Devoting myself heart and soul for the Creator
  Because you have only level that go to toilet for "purpose" of shit, you decide by reading people's faces.


 「そんな事したら笑われる」

 「笑われるから辞めとこ」


 世間の人達、殊に個性を排除する傾向が強い日本の大衆には、この様な考えを持つ者が多い。

 その理由として、「生きる目的」を持っていない事が挙げられる。

 大概の人達の「生きる目的」は、家族を養う為、食べる為、そして遊ぶ為といったところであろう。

 その大衆の目的に共通する事は、「お金」である。結局は、「マネー」が目的でしかない。

よって、「仕事」の「目的」も大概のところ、その様な事でしかない。

 腹を満たす事を「目的」に食べる。自分の欲望を満たす事を「目的」に遊ぶ。それらは、至って「生理現象のレベル」である。

 そんな「生理現象のレベル」で生きるだけなら、人間以外の動物や植物と同じレベルで生きている事にはならないであろうか。

 動物や植物は、「本能」のみで生きる。その「本能」で、子供を育てたり子孫を残したりしているのである。

 セックスの経験の有無によって大人と子供の区別をしている輩共も同じではなかろうか。セックスは、「本能」のみで生きる動物でもしている事であり、誠にその様な判断をする者は「低レベル」である。

 人間は、「思考」を働かせる能力を持つ。思想から、自分の生き方、考え方、捉え方等に繋げる。

 思想を「高い目的」、目標、そして志に繋げた時、笑われるとか何か言われるとか関係無しに「一意専心」して邁進する事が出来る様に成る。

 また、ムスリムやクリスチャンは、唯一の創造主である「神様の御心」に従う。敬虔な信者は、自分の意志を超越して、神様が立てた御計画である運命、宿命、使命に従う。ムスリムやクリスチャンにとっては、その事が「生きる目的」となる。

 無神論者は、「自分の欲望」に従う。しかし、敬虔なムスリムやクリスチャンは、「神様の御心」に従う。

 人の為と書いて「偽」(いつわり)という漢字となる。よって、無神論者が言う「人の為」とは、「偽善」である。一方、敬虔なムスリムやクリスチャンは、「神様の為」に生きる。「神様の為」こそが正しい生き方であり、「神様の為」こそが「生きる目的」である。

 世間の大衆の多くは、うんこを「目的」にトイレに行くレベルの「目的」しか持たないから、人の顔色で行動を決めているのである。

 (※ 同じ投稿日時に記事が多く重なる事を避ける為、投稿日時の改変を敢えて行っております。)

 本ブログ過去の関連記事
  ・2017/11/29付:『「おしっこ」と「うんこ」から自分を知り人を知る。そして「手洗い」はオモテナシの心』
  ・2018/01/09付:「十日戎に見る日本人・・・地上での幸福のみを願う自分の欲望を神とした祈り、渇く水を追い求める人々、敬虔な信者は自分の事を願わず神に感謝し神を賛美、人それぞれのタラントに応じた務め」
  ・2020/01/10付:『芸能人やマスコミは所有物を「悪用」し世間を愚民化/People are given ignorant masses-ize by celebs & MSM abusing their property』
  ・2020/01/10付:「笑われるから辞める?周囲の反応によって行動を決める輩共こそ愚民・恥ではないか/Just people who decide action by reaction are ignorant masses」

 関連文献
  ・2007/05/30付・聖書から人生を考えよう:「★人が生きる目的は何か?」

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笑われるから辞める?周囲の反応によって行動を決める輩共こそ愚民・恥ではないか/Just people who decide action by reaction are ignorant masses

2020-01-10 00:05:00 | 世間・空気
 <※本当の投稿日時:2020/01/09 17:35
  ※True posted date & time:2020/01/09 17:35 >

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 <2020/01/09 18:00- 聖句、画像、本ブログ過去の関連記事を追加>

 
 



 新約聖書・ローマ人への手紙12章2節
  この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 The New Testament・The Epistle to the Romans 12:2
  Don’t be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind, so that you may prove what is the good, well-pleasing, and perfect will of God.


 



 旧約聖書・伝道者の書7章21節
   人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。

 The Old Testament・Ecclesiastes 7:21
   Also don’t take heed to all words that are spoken, lest you hear your servant curse you;

 
 



 新約聖書・ピリピ人への手紙3章18~21節
  というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
  彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
  けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
  キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 The New Testament・Epistle to the Philippians3:18~21
  For many walk, of whom I told you often, and now tell you even weeping, as the enemies of the cross of Christ,
  whose end is destruction, whose god is the belly, and whose glory is in their shame, who think about earthly things.
  For our citizenship is in heaven, from where we also wait for a Savior, the Lord Jesus Christ,
  who will change the body of our humiliation to be conformed to the body of his glory, according to the working by which he is able even to subject all things to himself.

 
 



 旧約聖書・詩篇12章2~4節
  人は互いにうそを話し、
  へつらいのくちびると、二心で話します。
  主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、
  ことごとく断ち切ってくださいますように。
  彼らはこう言うのです。
  「われらはこの舌で勝つことができる。
  われらのくちびるはわれらのものだ。
  だれが、われらの支配者なのか。」

 The Old Testament・The Book of Psalms 12:2~4
  Everyone lies to his neighbor.
  They speak with flattering lips, and with a double heart.
  May Yahweh cut off all flattering lips,
  and the tongue that boasts,
  who have said,
  “With our tongue we will prevail.
  Our lips are our own.
  Who is lord over us?”

 
 



 旧約聖書・エレミヤ書9章8~9節
  彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。
  口先では友人に平和を語るが、
  腹の中では待ち伏せを計る。
  これらのために、
  わたしは彼らを罰しないだろうか。
  ――主の御告げ――
  このような国に対して、
  わたしが復讐しないだろうか。」

 The Old Testament・The Book of Jeremiah 9:8~9
  Their tongue is a deadly arrow. It speaks deceit.
  One speaks peaceably to his neighbor with his mouth,
  but in his heart, he waits to ambush him.
  Shouldn’t I punish them
  for these things?”
  says Yahweh.
  “Shouldn’t my soul be avenged
  on a nation such as this?

 
 



 旧約聖書・箴言29章25~26節
  人を恐れるとわなにかかる。
  しかし主に信頼する者は守られる。
  支配者の顔色をうかがう者は多い。
  しかし人をさばくのは主である。

 The Old Testament・The Book of Proverbs 29:25~26
  The fear of man proves to be a snare,
  but whoever puts his trust in Yahweh is kept safe.
  Many seek the ruler’s favor,
  but a man’s justice comes from Yahweh.


 笑われるから辞める?
  周囲の反応によって自分の行動を決める輩共こそ愚民・恥ではないのか
 Do you resign to be laughed?
  Just people who decide their own action by surrounding reaction are ignorant masses and shame.


 僕の周囲には、こんな事を言う輩共が存在する。

  「辞めたら笑われる」

 僕は現在、鉄工所に勤務する。高校を卒業せず社会に出た後に3年程を経た後、鉄工所に見習いで入ってからは、会社(工場)は転々とすれども十数年間一貫して鉄工の仕事を続けた。

 しかし、33歳と半ばの頃、仕事中に品物の下敷きとなって怪我をし、心臓近くの下行大動脈の3層の内、外膜・中膜が破れて内膜が風船の様に膨らむ状態でかろうじて血管が破裂していない時に手術を受けて九死に一生を得た事をきっかけに、その2年後から医療の専門学校に通学し、且つ、医療の臨床で勤務する経験を少し得た。しかし、結果的には失敗に終わった。
 
 その専門学校に通い出した頃、学校内ではよく笑われた。36歳にして復学した訳であるが、周囲の未だ高校を卒業した程度の者達からは奇異の目で見られるは、散々、陰口を叩かれた。実習で病院に行った時にも、ベテランのスタッフ達に笑われた。

 7年前に鉄工所に戻って以降は、概ね鉄工一筋で来た。その当初の頃も周囲からは笑われた。その嘲笑は、医療の現場へ戻す為の「制裁」、「圧力」であった。

 しかし、その「圧力」に応えず、現在に至った。そして現在に至っては「逆に」、「鉄工所を辞めたら笑われる」と言う「雑音」に変化しているのである。

 世間の「雑音」は如何にいいかげんな事であろうか。

 軽佻浮薄、刹那主義、有為転変と、世間の「雑音」に相当する言説は、空気・ブームに流されて変転してゆく。

 その様な周囲の「雑音」に耳を傾ける必要が有るのであろうか。

 僕の内にははっきり答えが在る。「全く無い」。

 そんな低レベルの言葉に耳を貸すのもバカバカしい。本当に、うるさいだけでしかない。

 そしてもう一つ言える事は、世間の多くの人達は、周囲の反応によって自分の行動を決めているのであろうか?、と。

 そうであるからこそ、僕にその様な「雑音」を浴びせて来るのであろう。その「圧力」によって、僕を変化する事を期待して。

 しかし、その様な「対症療法」は「逆効果」となる。意志が強く頑固・狷介な者に対しては、却ってその人間関係は「悪化」する事となる。現在のアメリカとイランの関係に於いても、同じ事が言える。

 結局、世間の多くの人達が人の顔色によって自分の行動を決めているのは、「目的」や「目標」が無いからと言う事が出来る。

 あの僕が学校に行く事を決断する前には、思考が在った。その上で、目的、目標が定められる事となった。そして通学時には「一意専心」していたからこそ、周囲の反応に影響を受けず泰然自若となる事が出来ていた。

 その実行した事が失敗した後、現在に於いては別の目的を持って生きる事となっている。その事については「My Testimony & Witness/僕の証 2018」(本ページ右サイド「ブックマーク」)に書いているので、ここでは省略する。

 もし僕が現在でも医療関係への意欲が在るならば、例え周囲から笑われようとも、その目的に向け心を専らにして行う。しかし正直に言って、僕はもうその意欲は失くなっている。諦めるとかというものでは無く、飽くまでも別の目的が在るからである。

 また、こう言う事も出来る。神様の御計画である運命・宿命が右方向であるのに、自分の欲望から生み出した目的・目標が左方向であるならば、一生かけても叶う訳が無く、「絶望」に至るだけである。

 笑われるから辞める等と、周囲の反応によって自分の行動を決める者達は愚民ではないのだろうか。

 あのイチローも、「将来大リーグに行く」と言って一意専心し素振りをしていた傍から、からかわれていたそうである。

 からかう者こそ、目的や目標、高い志の無い愚民ではないのか。



 



 出典:amazon

 (※ 同じ投稿日時に記事が多く重なる事を避ける為、投稿日時の改変を敢えて行っております。)

 本ブログ過去の関連記事
  ・2016/05/08付:『自立せず「自助」の努力を怠り安易に「共助」に依存するのは本末転倒である・・「友だちはいらない」を読む』
  ・2016/07/21付:『「笑われて来た」イチロー氏の不動心・集中力・信念貫徹と常識外れの科学的・物理的根拠を基にする打撃』
  ・2019/01/30付:『My Testimony/僕の証<8-12/14>エピローグならぬプロローグの追録~「失敗は勝利」、特攻を無駄死と嘲弄する人達、母の包容と導き/Defeat & Failure are Victory』
  ・2019/01/30付:『My Testimony/僕の証<8-13/14>:エピローグならぬプロローグの追録~「失敗」の過程に於ける「世上毀誉軽似塵」と“I think success is to make mistake”』
  ・2020/01/07付:『芸能人やマスコミは所有物を「悪用」し世間を愚民化/People are given ignorant masses-ize by celebs & MSM abusing their property』

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世間・空気に依存せず、「成るように成る」と運命に委ね、マイペース、へそ曲がり、リラックス・・・「脱世間のすすめ」を読む

2017-04-23 03:02:37 | 世間・空気
 次の本を読む。
 「脱世間のすすめ」(著者:山田史生氏、出版社:祥伝社、出版日:2008/7/1)

 私は普段から、世間一般の人達と比べてリラックスしている度合いが大きい様に思う。比較的マイペースな考え方とプライベートを持っている。
 群れる事を嫌い、孤独を楽しんでいる。傍から見てどうでは無く、自分自身の素直な感覚と判断から、寂しいと感じる事も一切無く、悪い事とも判断していない。
 「成るように成る」と、いつも思っている。諦観の念を抱き、運命に委ねている。目標や夢にしがみついてはいない。
 一方で、他人・周囲の介入・干渉は許さない。人には振り回されたくは無い。頑固である。自分の考えを曲げない。自分を信じている。よって、他人・世間には委ねない
 世間に依存しないからといって、肩肘張って自立しようとしているのでは無い。意地を張っているのでも無い。世間に寄りかからず、精神的に自立して離れる事で気楽である。群れの中に混ざったりつるんだりする事で、却ってストレスが溜まってしまう。独りは精神的に自由である。
 欲望にも依存していない。欲望が少ない分、我慢する事も少ないので、ストレスも溜まりにくい。欲望からの解放で、心が自由である。
 しかし、私も現在捕らわれているものがある。かつては釣りという趣味に捕らわれていた頃もあった。しかし現在は、読書や情報に捕らわれている。本や新聞を読み、インターネットの文献を読み、YouTubeの動画を見、自分のブログを書いている。現在、私はそれらに捕らわれている。しかし、仕事をしながらそれらを並行してこなす為の時間は限られている。仕事以外の自分の時間が少ない中でそれらを無理してこなそうとすると、ストレスとなってしまう。それらを手放してしまえば解放される。しかし、私にとってのそれらは、ある意味で使命の様にも感じている。だから、手放す事は出来ない。
 そしてそれらをこなす時、引きこもって隠遁生活をしている。他にもストレッチや軽い運動、瞑想も、家の中で隠れて行っている。そして世間の評価や判断にも束縛されず、孤独で自由で、世間からは「透明人間」の様に見られているのかもしれない。
 確かに、勉強もせず、日々欲望の赴くままに生きてもストレスは貯まらないのだろう。無知であった方が危機意識を持つ事も無いので、恐怖心や不安から解放されるだろう。
 また私は少し完璧主義の傾向があり、そして潔癖症である。それらが多少、私のストレス源になっているのは否めない。
 私が「脱世間」でいる事の基本として持っているのは、節度とバランスである。自由人権を個人が持つ一方で、その個人は責任義務も同時に併せ持っている。責任と義務を放棄する事は出来ない。また、道徳の範囲内での生活をする事である。そして、運命・使命に従う事である。人に従うのでは無く、神に従うのである。
 著者は中国哲学を専門とする文学博士で大学教授である。しかし自分の事を昼行灯だの無用者だと言い、表彰とは無縁で尺八や酒肴を楽しみとすると言う。無能である事を悪く思わず、名誉に関心が無く、他人の理解を得ようとも思わず、仕事場への帰属意識も薄く、世間と距離を置き、線を引き、気楽にゆったりと、あるがままの自然体で過ごしておられるとの事である。また現実を悟り、執着心が無いとの事である。決して開き直りでは無く、自分なりの、自分にとって自然な気持ちでいられる事は、私には理解し共感出来る。世間にとっての普通では無く、自分の気持ちにとってストレスがかからないという普通である。
 また著者は、行き当たりばったりで失敗も多く、楽観主義で呑気、人情に流されやすく、優柔不断であるという。私も今までに失敗を多くし、会社も転々として来たが、臨機応変に対応して来た。そして、へそ曲がり、捻くれ者というのも、私と共通する。空気を読まないところも同じである。私の場合は、空気を読んでも敢えて合わさないという、そのあたりにも天の邪鬼な性格が表れているのだが、もう一つは気が付いていても自分の中で取捨選択していらないものを捨てる、周囲の雑音を捨てる、いる情報のみ取り入れるという様な「鈍感力」の表れでもある。
他にも著者の場合、その日暮らし、目先の事だけ、本を読み新聞は取らず、インターネットはしないとの事である。読書は同じだが、この辺りは私と違っている。
 著者は中国文学を専門とする事から、一番好きだという陶淵明、李白、莊子、老子等のを取り上げて引用した解説も行っている。後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれた文学者・陶淵明、奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称された詩人・李白、俗世間を離れて無為自然として人為を忌み嫌う思想家で道教の始祖の一人・莊子、哲学者で道教の始祖・老子。(以上4人の参考文献:ウィキペディア)
以下、本書より引用する。

『人境』のどまんなかに住んでいながら、俗塵にわずらわされることはない。晋の王康居が『大隠は朝市(まちなか)に隠る』(『反招隠詩』)と歌ったように、真の隠者は、山奥にこもったりせず、むしろ俗世間にありながら身の潔癖を守るのである。」(著者)
(・・・※「居」の字の本当の文字は、王偏が左に付く。)
 
 「陶淵明は四十一歳のとき、彭沢県(ほうたくけん)の長官をわずか三カ月でやめて、ふたたび出仕することはなかった。『五斗米(サラリー)のために腰を折らず』というセリフは、隠遁生活にはいらんとするにさいして、かれが俗世に叩きつけた絶縁の一句であった。」(著者)

 「たかだか百年の人生なのに、ひとはそれに執着する。なにひとつ成し遂げることなく生を終えるのではないか、と。毎日をムダにすごしているのではないか、と。生きているあいだは珍重されたがり、死んでからも追想されたいと願っている。やれやれ。わたしは自分の道をゆき、ひととは異なった生き方をしてきた。ひとにホメられようともおもわず、世間の価値観にまみれても、けっして黒くは染まらなかった。貧乏暮らしをしながら、旨い酒を飲み、詩をつくってきたものさ。」(陶淵明「自祭文」の中の一節の、著者による日本語の現代語訳)

 「ほんとうにわかっているものは、しゃべらない。よくしゃべるものは、わかっていない。(ほんとうにわかっているものは)感官をふさいで、知識の出入りをとざし、尖った鋭さをくじいて、鋭さからくる紛糾を解きほぐし、きらびやかな輝きをやわらげて、すべての塵とひとつになる。こういうのを玄妙な同一という。(「老子」第五十六章、著者による日本語の現代語訳、和光同塵について)

 「『天を楽しみ命を知る。ゆえに憂えず(楽天知命。故不憂)』」(「易」繋辞上伝)
   ・・・天地自然の法則、つまり創造主の法則・計画を素直に受け入れて委ね、運命を悟る事で、憂い・ストレスは起こらない

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「脱世間のすすめ」 「脱世間のすすめ」(著者:山田史生氏、出版社:祥伝社、出版日:2008/7/1)


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自分独り「個」を悟り、運命に委ね、世間と闘った「隠者」たち・・・「『世間』とは何か」を読む

2017-04-23 01:37:54 | 世間・空気
 次の本を読む。
 「『世間』とは何か」(著者:阿部謹也氏、出版社:講談社、出版日:1995/7/20)

 私自身、普段から人付き合いを減らし、人間関係を浅くし、「群れ」に混じらず埋没せず、世間からは一歩身を引いた生活をしている。世間の内に入らずに外から客観的に眺めている事で、その世間の欠点や問題が見えていると自負する。
 その分、周囲からは多少奇異に見られる事が多々有り、周囲に同調しない分、世間と比較しての一般的で普通の人から見れば、生きにくい状態に見られている事と思われる。しかしながら、私は自分の判断を信じ、他人・周囲の評価や判断を疑っている。私は、自分の独自性に自尊心と誇りを感じ、自信を持ち、他人の承認を必要としていない。私は、自分で自分自身に値打ちが有ると思っている。よって、世間にどう思われようが、私には関係が無い。自分で自分を認めれば、それで良いのである。
 勿論、それは自身の思い込みで言っているのでも無く、低いレベルに甘んじる意味でもない。判断基準となり得る絶対的規範を持ち、自分で勉強して知識・教養・情報・経験を得て、自身を高める事を、私は前提としている
 著者は、先人の方々が書き遺した多くの文書を参考文献として用いながら、「世間」について研究し本書に記している。取り上げた先人達は、世を厭い、隠遁生活を送りながら、或いは街中に在りながら、海外生活の経験から、歌、詩、記録、小説等に、世間を客観視しての批判を記し、世間に囚われない生き方、革新的な新たな思想を持っている。
 「万葉集」の歌の中には、世間の虚しさや、歌人の世間の噂との戦いが綴られているという。
 鴨長明は、「方丈記」に当時起こった天変地異を記者として書き遺した。隠者として草庵に住み、世間から距離を置いて観察した。
 吉田兼好隠者として「徒然草」を遺し、その中で「世を軽く思ひたる曲者」を評価した。
 二人をはじめとした隠者は、諸縁、儀式、しきたり、迷信、しがらみを切り離して、矛盾だらけの世間から離れて生活を合理化し、現世よりも死んだ後の後世を重視し、世間を相対化し、自分自身が納得した。
 親鸞の教えを継承した浄土真宗の初期の頃は、信徒は神棚、神札、祠、門松、盆棚、位牌、墓を持たず、寺院や階級も持たないという革新的なものであった。
 井原西鶴は、街中に住みながら自由に新しい生き方をし、艶隠者であった。そして、世間から疎外された乞食や遊女に寄り添った。
 夏目漱石はイギリスに留学し、その個人主義の中での孤独な経験から、小説の中で隠者的な傾向を著し、世間には余り無い、正直で純粋な「坊っちゃん」を著した。
 永井荷風はフランス等に滞在し、孤独を前提として「気質としての厭世」であった。世間を拒否して自分の姿勢を保ち、世間を深く観察して批判した。
 金子光晴はベルギー等を旅し、非常識人で、詩を通して世間との闘いの生涯であった。
 江戸時代の遺風が未だ残っていた明治時代は非個人主義であった為、海外生活の経験を持つ先の3人は、自身の持つ個人主義から世間を批判した。
 著者は日本の世間について言う。世間の枠内でのしきたり等の呪術的な考えを基に差別をする。世間の掟の存在。自分の名誉よりも他人の名誉を重視する。日本の世間は世間の中での人間関係に基準を置いているが、ヨーロッパ(や中東)では心の中の絶対的なもの(神、聖霊)に基準を置いている。そして没個性であると。
 以下、本書より引用する。

 「もとより漱石自身が『隠者』的であったというのではない。作品の中にその傾向がみられるというのである。このように見てくると『徒然草』の吉田兼好から西鶴、そして漱石に至るまで、わが国の文学の世界はいかに多くを一種の『隠者』に負うてきたことだろう。隠者とは日本の歴史の中では例外的にしか存在しえなかった『個人』にほかならない。日本で『個』のあり方を模索し自覚した人はいつまでも、結果として隠者的な暮らしを選ばざるをえなかったのである。」(著者)

 「この時代を知る者にとっては驚くべきこうした洞察力は、これまで見てきたような荷風『世間』を拒否する姿勢の中から生まれたものだった。一方で西欧から学び、それに『気質としての厭世』が加わった個人主義があり、それは日本の当時の風土の中で極端なまでに先鋭化していった。日本の世間や世の中からできるだけ身を離し、世間的な付き合いを避け、非情に生きることを選んだ荷風だからこそ、このように当時の社会と政治を突き放して見ることができたのであった。」(著者)

 「世間の社交的なならわしは、どれも避けられないものばかりである。黙視できない世のならわしに従って、それらを不可欠なものと考えていれば、したいことも多く、身も不自由で、心の落ち着くときもなく、一生はこまごました雑用にさえぎられて、むなしく暮れてしまうだろう。日は暮れ、なお前途は遠い。わが一生は思うようにならない。すべてのかかわりを捨て去るべき時だ。もはや信義も守るまい。礼儀も思うまい。この気持ちを理解できない人は、狂人というならば、言え。正気を失った、人情のない者とも言え。非難されても意に介しないつもりだ。逆に、その決意をほめても、耳を傾けようと思わない。」(「徒然草」第112段、現代語訳:三木紀人氏)

 「つれづれの境遇を苦にする人は、どのような気持なのだろうか。心が他のことに移ることもなく、ただひとりでいるのが一番である
 世間に順応して生きると、心は外界の刺激によって迷いやすく、人と交わると、口にすることも、他人の耳を意識して自分の心を偽ってしまうものである。人とたわむれ、争うにつけ、恨んだり、喜んだりする。安定した心を持てない。さまざまの思いがみだりに起こって、損得をたえず気にする。迷いの上に、酔いしれているようなものだ。さらに、そのうえに夢を見ているようなものだ。あくせくとして、せわしなく生き、自己を失っているという点、万人はみな同じである。
 まだ仏道を悟っていなくても、俗縁を離れて身を閑静なところに置き、世事にかかわらず、心の安定を得るとすれば、一時的にせよ、心が満たされると言いうるのである。『生計・社交・習い事・学問など、迷いのもととなるものを止めよ』と、『摩訶止観』の中にある。」(「徒然草」第75段、現代語訳:三木紀人氏)

 「日本人の美点は絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕はむしろ絶望してほしいのだ」(金子光晴氏)

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「世間」とは何か 「『世間』とは何か」(著者:阿部謹也氏、出版社:講談社、出版日:1995/7/20)
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「日本を滅ぼす〈世間の良識〉」を読む・・・無神論、国民主権、付和雷同、空気の全体主義、煽動、洗脳、他信、感情的、一時的、目先、幻想、平和ボケ、依存症、虚偽、矛盾、マスコミ……

2017-04-22 23:17:08 | 世間・空気
 次の本を読む。
「日本を滅ぼす〈世間の良識〉」(著者:森巣博氏、出版社:講談社、出版日:2011/10/20)

 私は普段から「群れ」の中に入る事を好まず、多数派や団体、組織、そして「世間」を、外から独り客観的に眺めて見る傾向に在る。そして、その世間一般的な多くの人達の傾向を批判的に思っている。
 その世間一般的な多くの人達が傾向とする所として、付和雷同する所、馴れ合い迎合する所、「自信」が無く自分を疑い他人を信じる所、周囲の反応に頭を下げている所、主体性が無く自分で考えたり自分で勉強しない所、精神的に自立せず依存している所、安易に共助に頼り自助努力をしない所、空気・雰囲気を読んで流されている所、仲間外れを怖れている所、洗脳され煽られやすい所、一時的な感情で動く所、感情的・情緒的で論理的思考の無い所、他人の承認を得る為に自分を失っている所、発言する言葉に裏付け・理由・根拠が無い所、自分の内に規準・規範を持たない所、希望的観測をして現実を見ない所、一般論・常識を重視して真実・事実に興味の無い所、世俗的で無神論者である所、夢・欲望を見て運命を悟らない所……等が見られる。私は、それらを全て否定し、間違いであると考え、それらの反対を行っている。
 故に、私は普段から世間一般とは異なる状態に在る為に、大概変人扱いされ、異常な人間に思われ、嫌われ、笑われ、バッシングを受け、様々なレッテルを貼られる傾向に在る。
 しかし、私は世間を疑い、自分を信じている。他人の評価や判断を信じずに無視して、自分の判断を信じているのである。つまり、私は「自信」を持っており、「他信」を持っていないのである。決して自分を卑下等はしておらず、異なる存在である事に独自性・自尊心・誇りを感じている。また元来からへそ曲がり、捻くれ者、天の邪鬼な私は、敢えて周囲と異なった事をしようと考える程である。
 更に、私には神への信仰心が有る。神を信じる「神信」を精神・心の土台として、その上に「自信」を築いている。「神信」を基礎とした「自信」は、他人からの煽りには動揺せず、泰然自若となる。勿論、私は今までに失敗だらけで完璧では無いが、その失敗の経験が更に確乎不動に繋がるものである。そして今に至っては、異なる事を「運命」と悟る事が出来ている。
 その様に、私は周囲と異なっているからといって、それが悪い事とは全く思っていないのであり、逆に周囲の方が間違っていると思っているのである。
 自分の判断のレベルを高める為には、先ず確かな判断基準を持つ事が必要である。私の場合は、「聖書」を規準としている。その規範の上に、様々な知識・教養を積んでいく。様々な多くの情報に対して、その規準を基に判断して取捨選択をする。その様に、規範・知識・教養・情報・経験による高い判断力が作られる。よって、その為には自分で勉強する事が必要となる。
 普段から世間・周囲を批判的に見ている私は、本書のタイトルをひと目見て「共感」し、読んでみる事にした。
 ところで、現日本国憲法は、アメリカが「性善説」を基にして作ったものである。しかし、聖書は「性悪説」である。その憲法は、「国家主権」を抑え込んで「国民主権」を強調している。しかし、国家は何も政府の事だけを指しているのでは無い。国家の中には家族や個人も含まれている。そして、その国民主権を謳う下で、裁判員裁判、選挙権、民主主義、人権、個人主義が強調されている。素人が感情で裁く裁判は間違いである。ろくに知識や教養を持たない者が投票する事で、間違った政治家が当選する事となる。左翼のマスコミや外国スパイに煽られ洗脳された世論が形成される事で、政府が動揺し、議会の機能は麻痺する事となる。人権・自由・個人を強調しすぎると、運命・使命・責任・義務・公への奉仕が蔑ろになる。
 タイトルに在る「世間の良識」、これは前述までの様に、井戸端会議の噂話、風評、空気・雰囲気・流行、周囲の反応、マスコミによる世論形成と誘導・洗脳、マスコミ・日教組・学校教科書による自虐史観の歴史認識、マスコミが流す国際情勢や社会問題、戦後のアメリカ的民主主義、アメリカナイズされた食生活と医療……等が挙げられる。それらを信じる事で、自分を失い、周囲に流されてしなう事となる。そして、その様な世間・国民の性格・傾向が在る中での国民主権が、本書のタイトル通りに「日本を滅ぼす」事となるのである。
 以上は、本書のタイトルに関しての、私の普段から持っている考え、捉え方である。
 次に、本書の内容に関してのものとする。
 著者は海外在住である事から、日本を客観的に観察して述べている。2011年(平成23年)10月出版であり、当時は民主党(現・民進党)政権時であった。また、その前は自民党であった。2006~2007年の第一次安倍政権の時には、教育改革や官僚機構・公務員制度の改革等を断行したが、マスコミのスキャンダル攻勢等によって足を引っ張られる形で、首相の持っている理念を出し切れないまま1年弱で終わってしまった。その後の自民党政権は凋落傾向にあり、マスコミも政権交代を煽っていた事から、変革を期待させられた世間一般の有権者達が誘導される形で、民主党に投票していた。
 しかし、民主党はその世間一般の有権者の期待に答えるべく結果を残せなかった。その間には、本書出版と同じ年3月に起きた東北地方太平洋沖地震と福島第一原子力発電所事故の東日本大震災が有った。しかし、民主党は想定外で上手く対応する事が出来なかった。また原発事故によって、利権、原発マフィア、情報隠蔽、政府広報のマスコミ、御用学者、そして事故後の福島県人の方々に対する棄民政策が明らかとなった。
 著者は、その変わらない日本の「現実」を海外から見て憂い、愛国心を基に批判し忠告する。倒れた者を更に叩くマスコミ、事実を伝えないマスコミ、政治家の利潤の私益化、世間の報道ヒステリー……等と、政府、マスコミ、世間一般国民に対する批判や皮肉は、私が「共感」するものが多い。
 国民主権については、前述において私の捉え方としてのデメリットを述べたが、著者はその国民主権の利用の仕方として、押し付けられるのでは無く、自由意志の下に情報を検索し、検証し、判断する事は良いと述べる。嘘や情報隠蔽をするマスコミを当てにせずに

 本ブログ過去の関連記事
  ・2015/08/13付:「何も世間の人達と同じ事をする必要性は全く無い。もっと高いレベルの現実を見るべきである。」
  ・2016/04/10付:「『希望的観測』で曇らせた眼鏡で夢・幻想を見ている世間の人達・・・現実、本質、そして運命が見えず」
  ・2016/04/17付:「国民主権は国を滅ぼす・・・裁判員裁判、選挙権、民主主義、人権、個人主義、低俗な世論に動揺する国家」
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日本を滅ぼす〈世間の良識〉    「日本を滅ぼす〈世間の良識〉」(著者:森巣博氏、出版社:講談社、出版日:2011/10/20)
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言葉で心を刺す・・・痛みを知る、目に見えないものにこそ本質

2016-07-21 04:20:34 | 世間・空気
 テロや通り魔が悪い事であると言う。確かにその通りである。
 しかし、刃物という「物」で人の「身体」を刺す事だけが悪い訳では無い。
 誹謗中傷や嘲笑、揶揄等の「言葉」や「表情」、「態度」等によっては、人の「心」を刺しているのである。
 世間一般的には、とかくその「刃物」や「身体」等の目に見える表面的な物事にばかり注目しがちの様に感じる。しかし、「言葉」の裏に隠された思いや意図、「心」・精神という、物事の裏側・深奥・本質・根本に目が届いていない様に感じる。
 「痛みを知る」と言う言葉がある。怪我や病気をしたり、事故・災害の被害に遭ったりして初めて、今まで通り過ぎていた事に気が付いたり、見向きもしなかった事を立ち止まって関心を持つ様になり、その順調でない人や物事に共感を抱く様になる事である。つまり、痛みを知る、不調・不遇に陥らない限りは、大抵の人は他人・物事を真に理解する事が出来ないのである。
 「可哀想」と言うが、これも大抵理解せずに言っている言葉である。決して共感を持って言っているのでは無く、上から見下げて言う偽善である事が多い。
 不調・不遇の状態は一見、表面的には不幸の様に思う者が多いだろうが、しかし、そう言う経験を経る事は実は幸福なのである。その様な経験は、人間の根本である精神・心の成長・充実へと繋がるからである。
 好調・順調である時は、とかく時に忙しく流されがちとなり、自分の内面を見る事が無い。自分の内面を見る事で反省・悔い改めに繋がる。その根本が改善されない限りは、所詮は対症療法に過ぎず、一時凌ぎで変わらず繰り返すばかりである。好調・順調時は仕事・趣味・レジャー等ばかりで、その場凌ぎで後で振り返ってみると何も残っておらず心は空虚なままである事が殆どであろう。世間一般的に、瞬間だけで消えてしまう事ばかりに拘って、永遠を求めていない様に感じる。今現在だけを思って、過去を振り返って思いを馳せる事も無く、未来を展望していない様に感じる。
 目に見える物事では無く、目に見えないものにこそ本質が存在する。それに目を向けてこそ真の理解へと繋がる。
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イエス・キリスト「平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来た」偽善破壊と世間の勘違い

2016-05-08 12:32:57 | 世間・空気
 日本人の国民性として、性善説の傾向が有る。人間は皆いい人であるというものである。つまり、人を疑う事無く、安易に信じて受け入れる傾向がある。それは、現日本国憲法の前文に在る、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、つまり諸外国が皆いい国だと信頼して、平和ボケしている事にも現されている。
 しかし、日本人が平和や愛、道徳律の事ばかりが書かれていると勘違いして恰も可愛い本だと思い込んでいる「聖書」は、逆に「性悪説」を述べており、人間は皆悪だと言っているのである。クリスチャン三浦綾子氏の小説「氷点」の中でテーマとなった、「原罪」の事である。そして、その現日本国憲法を押し付けたアメリカ・GHQは、その聖書の知識を持っていたのである。
 その聖書に対する思い込み、勘違いにしても、内容・内面を見ずに表面だけしか見ない性格、名前・看板・肩書・評判だけで判断する傾向が現されている。クリスマスのお祭りや、教会での結婚式のイメージを、その聖書に当てはめて観ているのである。しかし、それらの行事は聖書には書かれておらず、出鱈目なのである。未来に起こる世界的大戦争や天変地異による大災害、そしてこの世が終わる事が、神から預かった言葉である「預言」として書かれているのである。またイエス・キリストは、「平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来た」と述べているのである。果たしてどこが可愛いのであろうか?。
 十字架をネックレスやイヤリングとしてファッションに利用している者が多い。その事も、十字架が恰も可愛らしい物と勘違いしているから身に着けているのであろう。しかしその十字架は、イエス・キリストがこの世の悪と戦った結果、その悪である者達とそれに煽動された世間一般民衆によっての、無実でありながらの磔刑に使われたものである。その事をイエスは天の父・創造主の計画・運命として受け入れて、その後の人間、特にイエスを信じて受け入れた者達も含めた、人間の罪の代わりとなって、身を持って犠牲となられた事の象徴なのである。
 故に、聖書も十字架も、決して可愛いものでは無いのである。

 新約聖書・マタイの福音書10章34節
   わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

 本ブログ過去の関連記事
  ・2012/12/26付:「『馴れ合い』『なあなあ』『かわいさ』を打破し、『真実』をもたらしたイエス・キリスト」
  ・2013/05/03付:「聖書は直接自分で読む・・・聖書のみに忠実に。映画や小説、人の解釈に惑わされないこと。」
  ・2014/01/12付:「イエス・キリストはなぜ殺されたのか・・・『革命者』イエス」
  ・2014/01/19付:「『宗教組織』による『創作』(1)・・・クリスマス、誰が勝手に12月25日と定めたのか」
  ・2014/01/19付:「『宗教組織』による『創作』(2)・・・人間マリアの『偶像』と、『懺悔室』の傲慢」 
  ・2014/04/29付:「人間が勝手に認める『聖人化』・・・神の下の平等に反する階級制度」
  ・2014/06/08付:「お金・事業より優る『思想』、それをも上回る独立した名も無き小さな一個人の勇ましく高尚な真面目なる『生涯』・・・『後世への最大遺物・デンマルク国の話』を読んで」
  ・2015/01/02付:「プロテスタント教会は抗議せず世間や権力に迎合している・・・『平和』や『愛』の言葉による麻痺」
  ・2016/04/17付:「『無教会主義』の内村鑑三氏は『自立』『独立』を勧めた・・・『単独者』として絶対者・創造主を仰ぐ」
  ・2016/05/08付:「聖霊存する不動の土台が築かれた心により失敗・ユニークが才能・特性に変貌する・・・『聖書力』を読む」
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デラシネの如く哲学無く軽佻浮薄に漂う未熟な世間へ・・・「清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ」を読む

2016-05-08 08:01:30 | 世間・空気
 「清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ」(著者:阿久悠氏、出版社:新潮社、出版日:2007/10/20)を読んだ。
 作詞家である著者の巧みな言葉の数々を用いて、現代の日本の世間の風潮や雰囲気を憂い厭いながら、アフォリズム(警句、格言、箴言)を唱えている。
 2004年(平成16年)3月7日・4月3日~2007年(平成19年)6月9日に保守派の産経新聞に掲載・連載されたものをまとめた単行本であるが、当時の国政は、小泉純一郎内閣と、その後の2006年(平成18年)9月26日~2007年(平成19年)9月26日の第1次安倍晋三内閣であった。小泉首相(当時)はポピュリズムを利用して高支持率を維持して長期に政権を執ったが、逆に安倍首相(当時)は「戦後レジーム脱却」や「美しい国へ」を掲げての、官僚・マスコミ・世間と闘いながら、数々の改革を、志半ばで辞任するまでの約1年の間に断行した。著者は、その安倍首相の掲げていた「美しい国」に賛同し、安倍首相を応援していた様に読み取れる。そしてその著者も、安倍首相が辞任する直前の8月1日に逝去された。
 アメリカナイズされての「戦後民主主義の催眠術」にかかり、個人の権利ばかりを主張して自由に制約をかける事無く、節度を超越し、義務や責任をなおざりにし、道徳秩序は乱れ、迷惑を気に留めず、長い歴史の上に培ってきた伝統や文化が廃れる傾向に在る。
 世は欲望の対象となるものに依存して遊蕩に耽り、勤勉、汗を伴う労働、思想、創作が軽視される趨勢に在る。名誉欲、他人、メール、LINE等に依存し、自立出来ず、自助の努力を怠り、共助・公助にすがって甘えている。
 「デラシネ」(根無し草)の様に、若者をはじめとして自分の内に確固たる土台を築かず、マスコミ、周囲の空気・風潮に安易に煽り乗せられて漂流して自分を見失っている
 年齢を重ねる事、性体験、結婚と子の所有、特に欲望対象の社会的経験等を判断基準にしての大人の履き違えをして、精神的には未熟な子供のままの成人たち。その未熟な精神で子供を躾ける親たち。
 また、一時凌ぎ、その場凌ぎで対症療法を繰り返すのみで、一瞬一瞬の快楽、瞬間的な結果さえ良ければそれで良いとして根本的解決を図らず、根本原因や経緯・過程を軽んじて論理的思考・思索が出来ない。
 クリーンなイメージでさえあれば良しとし、偽善を認め、その潔癖主義から失敗・汚点からの再起を不能とするレッテルを貼る。それ故最初から失敗する事を恐れて挑戦する事を憚り、異端扱いされて叩かれる事を恐れて行動せず口にもしない。一見すると無駄に見える事、失敗、遠回りにこそ高い値打ちが有る。失敗して痛みを知る事で、理解が深まる
 世間一般的多数派の人達は、皆同じような価値観を持ち、同じように考え、同じように判断し、同じような事を口にし行っている。同じレベル・次元にして、同じような物差し・基準を持っている為に気付き難く、空気・雰囲気に流される。しかし、その流行は消えて無くなる。流される事は無常であり、空虚、虚無となるその空虚感、虚無感に精神が陥らない様にと、その都度その都度、際限なく一時凌ぎ、一瞬の暇つぶしを行っている。
 気付きが無いのは、悪い意味での鈍感である。本当の鈍感力は敏感であり、気付いても自分の内で情報処理して不要・低俗なるものを捨て、それらに動かされない太い精神・心を持つ
 その世間の趨勢・傾向・流行に抗う様にして、私は天の邪鬼であり、ひねくれ者であり、へそ曲がりであり、偏屈である。そして、世間を客観視してそこに埋没せずに、群れから離れて単独者として存在し、境界線を引いて身を引き避けている。

 以下、本書より引用する。
 「悪いのは社会だ時代だ いや制度だと言っているけど つまりは一人一人の哲学だよ」より、「ぼくたちはいつの頃か、…(中略)…背負わされたのは、『無』である。無関心、無感動、無軌道、無気力、無神経、無責任、無恥、無茶、無定見、無頓着、無表情、無理無体、そして無礼とバラエティーに富んでいる。」。
 「無責任な拍手喝采よりも 無言の反応に価値ありと信じて 堂々と歩いてほしい」より、「人間は面白いだけでも、軽妙なだけでもなく、寡黙で近寄り難くても、心に響く言葉を持ち、独特の美意識を備えた人もいるのである。その人は本当に嬉しくないと笑わないし、サルのように手も打たないが、寄るとあたたかいし、語ると深いのである。」。
 「若者はほっといても若者だが 大人は努力なしでは 大人になれない」より、「もう一段上の哲学をまぶさなければ」、「大人の世界に価値観もマーケットもないのである。今、文化に関わろうとする人は誰も、幼稚を競い合う。」、「かくして、日本は、若者のための若者による若者文化の社会になり、誰も大人になろうとしない奇っ怪な価値観の国になっている。大人よ!」。
 「マジメでオトナシイとは その子のことを何も 見ていなかったということだ」
 「たまには本を読む姿を 子どもたちに見せるだけで 家族の半分は固まる」より、「父や母がダレた姿を見苦しい振る舞いを見せないことである。そして、教養に対して謙虚に向き合っている姿を見せつづけることである。インテリジェンスの欠落の不安を、子供たちに与えないようにする。」、「いい姿で、深い本を読む。没頭する。」。
 「親にうしろ姿がないのだから 見て育つにも 育ちようがないじゃないか」より、「ファミリーで行動を始めた途端に、ゴミをバラ撒き、立て札を引き抜き、マナーを踏みにじり、言葉つきまで下品になる」。
 「すると老いた老人は、日本人はね、他人の目だけが恐くて神が恐くない不思議な民族でね。他人が見ていなければ、どんなハレンチでも平気でやる。だから…(中略)…何から何まで決まりごとにしなければならなかったのだ。そうだろう。その証拠に自由を覚えたとたんに、ハレンチし放題じゃないか。そうだろう。』」。

 「時代おくれ」(作詞: 阿久悠氏)より
 「目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことはむりをせず 人の心を見つめつづける 時代おくれの男になりたい」
 「ねたまぬように あせらぬように 飾った世界に流されず」

 本ブログ過去の関連記事
  ・2013/06/28付:「『ユダヤが解ると世界が見えてくる』の再読(3)・・・三島由紀夫氏の『憂国』と自決直前の『檄』」
  ・2016/04/10付:「三島由紀夫氏『檄』と世間の人達・・・レジャーやショッピングにうつつを抜かし……」
  ・2016/04/10付:「『希望的観測』で曇らせた眼鏡で夢・幻想を見ている世間の人達・・・現実、本質、そして運命が見えず」
  ・2016/04/17付:「有名人の覚醒剤使用と世間の人達の欲望への依存は同じ・・・際限ない一時凌ぎ・暇つぶしからの自立の必要性」

 関連動画
 

YouTube:河島英五:時代おくれ
 
 参考文献
「清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ(著者:阿久悠氏、出版社:新潮社、出版日:2007/10/20)
「清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ(著者:阿久悠氏、出版社:新潮社、出版日:2007/10/20)
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三島由紀夫氏「檄」と世間の人達・・・レジャーやショッピングにうつつを抜かし……

2016-04-10 16:10:23 | 世間・空気
 三島由紀夫氏の最後の声明文「檄」より

   「三島自身の見てきた戦後日本の、『経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆく』姿、『政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆく』国となってしまったことを憂い……」(ウィキペディア「檄 (三島由紀夫)」より引用)

 私は土曜日は仕事であるが、世間一般的には休みの人達が多く、車での帰路の道はレジャーがらみの車で混雑し渋滞していて、いつもうんざりさせられている。つくづく、「世間の人達は行列に並ぶ事が好きやなぁ」と思っている。少しテレビ等のマスコミが紹介すると、店の前で行列を作る。付和雷同して行列を作る様にして、みんな同じ方向を向き、同じ事を言って、同じ事をしている。その様な世間の多くの人達について、三島由紀夫氏の「檄」の言葉を借りて次の様に言い換える事が出来る。
 レジャーやショッピングにうつつを抜かし、レジャーやグルメにうつつを抜かし、レジャーや博打にうつつを抜かし……。
 マスコミはユダヤの「3S謀略」である「スポーツ」、「セックス」、「スクリーン」を垂れ流し、それに加えて、仕事・生活・車等の効率重視である+1S「スピード」を世間の人達は求めている。これらにより、戦後の日本人は抵抗・反抗・反発をしない「骨抜き」にされたのである。「反骨精神」の無い「平和ボケ精神」となってしまったのである。
 思想が無く、修養・修行の精神から逸れて精神的に怠惰・堕落・弛緩の傾向に在り、危機意識を持たず、自立意識・自律意識が低下して、他者に依存する甘えの状態に在る多くの世間が周囲に存在する中において、この三島由紀夫氏の「檄」の言葉は、鮮烈で、新鮮で、特異な光を放つ様に、私には感じるのである。

 本ブログ過去の関連記事
   ・2012/11/21付:「平和ボケ」
   ・2012/11/21付:「原発・日テレ・CIA~第二次大戦後の裏面史」
   ・2012/12/14付:「占領下日本、目先の利益しか興味の無い世間、二枚舌米国、支配階級の悪」
   ・2013/06/28付:「『ユダヤが解ると世界が見えてくる』の再読(3)・・・三島由紀夫氏の『憂国』と自決直前の『檄』」
   ・2013/07/29付:「スピード・効率化の追求が、人間の思考を奪っていく」
   ・2014/12/07付:「世間に迎合する政治家・・・『経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、・・・』」
   ・2015/03/22付:「世間は常に同じ方向を向いている・・・『高学歴の本質は、奴隷従順歴』、『化学的愚民化政策』

 引用記事
  「檄 (三島由紀夫)」

 関連動画
 

YouTube:三島由紀夫 - 檄
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「希望的観測」で曇らせた眼鏡で夢・幻想を見ている世間の人達・・・現実、本質、そして運命が見えず

2016-04-10 15:14:47 | 世間・空気
 世間の多くの人達は、「こう成って欲しい」、「ああ成って欲しい」等と、人に対して、或いは物事、自然環境、景気等に対して自分勝手な思いを抱いている
 これは、自分の欲望を基準にした「希望的観測」である。その自分の欲望・願いで眼鏡を曇らして「希望的観測」をすると、人・物事の現実が見えなくなる
 相手の人を真に理解しようとせず、物事の本質を見ようとしないのは、自分の希望・欲望の通りに見ようとしているから、その様に見えてしまうのである。現実・本質を見ず、夢・幻想(ファンタジー)を見ているに過ぎず、勝手な思い込み、勘違いをしているに過ぎないのである。
 また、希望的観測をしたところで、「運命」は定められているのである。自分の希望・欲望に適わないからと言って、神の定めである「運命」は避ける事が出来ない
 「目標」といえば聞こえは良いが、所詮、その「目標」も自分の勝手な欲望から生じたに過ぎないものが多い。創造主の定めた運命の方向が右であるのに、自分の欲望を基準にして立てた目標・計画が左への方向であれば、一生かけても目標達成となる訳がなく、所詮は「絶望」に至るだけである。
 その事が解ると、主に委ねる事を悟り、「成る様に成る」と気楽に、ストレス無く、何が起きても精神的に動揺せずに泰然自若・確乎不動の精神を得る事が出来る。
 聖書には、預言者によって書かれた言葉が存在する。その神から預かった言葉である「預言」の中には「運命」を意味する事も多く書かれている。
 世界最終戦争この世が終わる事、グローバリズムの先の世界政府樹立、ハイパーインフレの起こる世界恐慌、大地震、隕石落下等、新約聖書のヨハネの黙示録や旧約聖書のエゼキエル書、ダニエル書等に書かれている。「ハルマゲドン」はカルトや新興宗教の言葉ではなく、元々は聖書に書かれている地名である。
 聖書を嘲笑し軽んじて馬鹿にする人達は、自分の「希望的観測」を基にして、それらの預言を信じようとはしない。その様な事を言おう者なら「頭がいたい人」等と嘲笑してレッテルを貼るのである。
 「ノアの日」が訪れて大洪水が起こる前も、大きな箱舟を建造していたノアを、それを見ていた周囲の人達は嘲笑して馬鹿にしていたのである。「ロトの日」が来る前も、ソドムとゴモラにおいてロトの周囲の人達は同性愛等の淫蕩・遊蕩にふけっていた。そしてそれぞれの日が訪れた時に、創造主の裁きが下り、周囲の人達は滅ぼされたのである。
 災害等を減災する為に「備え」をする事が必要であるが、それは外面の物質的・金銭的な備え・備蓄の事をのみ言っているのではない。「内面的備え」が必要である。それは「悔い改め」である。身体の健康の為に生活習慣改善を行うが、心・精神の改善の為に悔い改めるのである。それが、終末期における心の備えである。
 人を恐れるのでは無く、主を恐れる事が正しいのである。主が「運命」を定め、それは絶対であり、従わざるを得ないのである。

 本ブログ過去の関連記事
   ・2012/12/18付:「夢ばかり見る『平和ボケ』では無く、今後に景気が良くならない『現実』を把握する事が必要・・・人間・科学・成長の限界、原発解体・放射線除去による仕事・雇用の創出」
   ・2013/10/26付:「『自然死』とは、死の時を、他人に決められるもの(=殺人)では無く、自分で決めるもの(=自殺)でも無く、創造主によって決められるもの(=運命)で、その運命を素直に受け入れて大きく委ねる事・・・『大往生したけりゃ医療とかかわるな~『自然死』のすすめ』を読んで」
   ・2013/10/26付:「自分の『欲望の奴隷』とならずに、創造主の『御心』を知って、それに委ね従う事が必要・・・『しがみつかない生き方―『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルール 』を読んで」
   ・2013/11/11付:「神の『御心』である『運命』を素直に受け入れると言う事・・・『置かれた場所で咲きなさい』を読んで」
   ・2015/08/13付:「何も世間の人達と同じ事をする必要性は全く無い。もっと高いレベルの現実を見るべきである。」
   ・2015/08/13付:「前例から原発爆破の脅し、核の傘による平和の享受、真の独立の為の核兵器開発、偉大な微生物群」
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確たるベース・根拠の裏付け無き世間の低次元の評価を恐れる事により偽善・欺瞞・裏切りの罠に陥る

2016-04-10 11:56:52 | 世間・空気
 心理学者のアルフレッド・アドラー思想を紹介している本「嫌われる勇気」(著者:岸見一郎氏・古賀史健氏、出版社:ダイヤモンド社、出版日:2013/12/13)が、ミリオンセラーとなり、韓国・台湾等でもベストセラーとなっているとの事である。
 先日2016年2月には、水曜夜22:00からのNHK・Eテレ「100分de名著」において、アドラーを特集していた。
 自分と他者の課題に線引きをして、自分の課題に踏み込ませないこと、他者の課題に踏み込まないことを徹底出来た時に、対等な関係を築く事が出来、対人関係がシンプルになると言っている。
 プライバシーの侵害、ストーカー行為をする事は、自分と他者の間に境界線を引かず、私と公の間に線引きをしないではっきりと区別しない事である。そしてその上で、干渉・介入行為が行われているのである。日本は戦後、アメリカから常に干渉・介入・監視・管理されて来た為に、米国との対等な関係が築けず従属関係となっているのである。

 古代イスラエルの王ダビデの子で栄華を極めたソロモンの言葉。

 旧約聖書・箴言29章25節
   人を恐れるとわなにかかる。
   しかし主に信頼する者は守られる。


 人を恐れるとは、人の雑音に値する様な言葉を聞き入れたり、人に嫌われない様にしようと努めたり、人から笑われない様にしようと努める事で、その様に人からの評価・承認を求めようとする事である。その様にして他人の評判や反応、顔色を気にして、それらを当てにして、基準にして言動に繋げる事は、偽善行為を自ら行う事や欺瞞や裏切りを被る「わな」に繋がるのである。 
 そして続く26節には、

 同書・29章26節
   支配者の顔色をうかがう者は多い。
   しかし人をさばくのは主である。


 世間の大多数の人達にとっての支配者は、周囲の人・他人である。周囲・他人の評価・反応が支配者となっているのである。その周囲の人を恐れているあまりに周囲の人に従っているのである。自分の思いでは無く、周囲の人・他人の考えに同調して行動し、発言しているだけである。つまり、他人から批判やバッシング、嘲笑等をされて裁かれる事を恐れているのである。しかし、それらの裁きは間違いである。
 世間の多くの人達は、周囲・他人を自分の支配者として崇め拝んでいる奴隷状態にいるのである。そして自分自身を失くしてしまい他人になってしまっているのである。
 他人の評価・承認は当てにならない。他人の評価・承認には、正しい裏付け・証明が存在しない。根拠・基準が無い。明確な理由が無い。それらの事が解ると、人を恐れる事は無くなるのである。
 そもそも、評価・承認をする側の世間の多数派の人達の持っている教養レベル・知識レベル・思考レベル・判断レベルを見ていけば、如何に低レベルであるかが解るものである。その低レベル・低次元から生じる評価や承認が如何に低レベル・低次元な評価・承認であるかが解るものであり、その様なものが馬鹿げていて如何に間違っているかという事に気が付くものである。
 また、周囲・他人の常識・空気・雰囲気を基準・根拠にし、「みんなが言っている事だから」、「みんながやっている事だから」という理由だけで、評価・承認に繋げているだけなのである。みんながみんな間違った事をしていても、それが常識化するのである。自分自身の内に考え・主義・主張が存在せず、付和雷同しているだけなのである。組織等の或る枠内・範囲では、その様な常識化・空気・雰囲気が形成され易い。空気や雰囲気は「空(から)」である。その空である存在のものに、多くの人達は支配されているのである。
 「色即是空」においての「空」は、世の中・世間一般に充満している「欲望」の事である。世間の多くの人達は、その「空」である「欲望」にも支配されているのである。そして神社やお寺では「何々が叶います様に」と、自分の欲望を神として手を合わせて拝んでいるだけなのである。

 新約聖書・ピりピ人への手紙 3章19節
    彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。


 宗教、特に宗教組織は間違っているが、或る宗教に対する信仰心を有する者にはそこにおいての教義が自分の考えや判断の基準・規範となっている。しかし、日本の多くの世間の人達は無宗教者が多い。結婚式や葬式、初詣等の願掛け等の勝手な時だけ神仏を拝んでいるだけである。信仰心のかけらも自分の内に存在していないのである。
 因みに、聖書は宗教の書物では無い。キリスト教の書物では無い。キリスト教という宗教組織が聖書を利用しているだけなのである。
 日本の長い歴史・伝統・文化を基にしたものであれば、「歴とした(れっきとした)」証拠・裏付けとなり得る。しかし、最近は、戦後は、アメリカの占領政策で洗脳されて、アメリカン・デモクラシー化、アメリカナイズされて、日本の歴史・伝統・文化が蔑ろにされ、軽んじられ、或いは否定されてしまっているのである。
 何事においても、確かな証拠・証明・裏付けとなるものが存在しない物事を信じる事は、騙される結果となる。つまり、ろくな根拠も基準も無く発せられた評価や承認を信じる事によって騙される訳である。人からの裏切りはそれらが所以となっているからである。つまり、他人を恐れるがあまりに他人を信じようとすると、裏切り・欺瞞を被る「わな」にかかるのである。
 日本の世間の多くの人達は、性善説・ヒューマニズムを信じている。故に騙され易い。日本国憲法も性善説で書かれている。この憲法で平和を保てる等と思い込んでいると、外国に騙されて日本国は潰される。反対に、聖書は性悪説である。聖書は、人間はみな悪の性質である「原罪」を持っていると言っているのである。
 あくまでも本当に正しい、真実の裁きをする事が出来るのは、絶対者である創造主の唯一である。その絶対者である唯一の主を恐れて従う事は正しいのである。主は真実であられるからである。

 本ブログ過去の関連記事
   ・2013/03/19付:「人に従うより、神に従うべき」
   ・2013/11/11付:「敏感で太い『鈍感力』と、『alone』と『maverick』の『孤独力』による『心の安定』・・・『人間関係は浅くていい。』を読んで」
   ・2014/02/23付:「オリンピックを通して、世間の人達が自分で判断出来ない考え方・捉え方を見る」
   ・2014/06/28付:「『絶対的』では無く『相対的』に、周りの人達の顔色や反応を基準・規範にするのが世間の人達・・・『『空気』と『世間』』を読んで」
   ・2014/06/29付:「『『普通がいい』という病』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」
   ・2015/08/13付:「何も世間の人達と同じ事をする必要性は全く無い。もっと高いレベルの現実を見るべきである。」
   ・2015/08/15付:「人を恐れる、つまり人からの評価を求めると偽善となる:『この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人』を読む」
   ・2015/08/15付:「人の褒める言葉も私の心を引かず・・・『世の楽しみよ去れ 世の誉れよゆけ』」
   ・2015/11/29付:「精神的に自立した本当の大人は自分で勉強する・・・セックスを基準に大人と判断する世間の低レベル」

 参考記事
  ・2015/02/17付・神戸新聞朝刊:番組・教養「100分de名著・アドラー」
  ・2016/02/19付・神戸新聞夕刊:「『嫌われる勇気』がミリオンセラー」

  ・NHKオンライン~ドキュメンタリー・教養~100分de名著:「名著51・人生の意味の心理学 アドラー」

 関連文献
 固有タイトル
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え


 関連動画
 

YouTube:『判断基準をどこにおいたらいいのか?~日本の伝統文化に根ざしたもの①』久保田信之 AJER2015.7.8(7)
 

YouTube:【遠くの声を探して】日本人の気概、自らの価値観に拠って立つ強さを[桜H27/7/8]
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精神的に自立した本当の大人は自分で勉強する・・・セックスを基準に大人と判断する世間の低レベル

2015-11-29 23:26:05 | 世間・空気
 自分で勉強する事が出来るという事が、本当の意味での、精神的に自立した大人という事が出来るのである
 そして、自分で考えて、捉えて、判断出来るという事も、自立・大人の要件である。
 また、その結果としての、自分の考え、哲学、思想、理論、生き方を持っている事が、自立した大人であると同時に、自尊心、自信、精神面の上での誇り・アイデンティティとなるのである。
 しかし、世間の多くの人達は、自分で勉強する事が出来ていない。読書をしない。パソコンやスマートフォン等のインターネットツールを持っていても、ゲームやメールばかりに囚われている。そして自分で検索して調べず勉強せずに、安易に人に聞こうとしている。
 世間の多くの人達が人を見て大人と認めて判断する基準にしているのが、結婚、子の所有、そしてセックスである。セックスを基準にする事自体が、非常に低レベル・低次元であるという事が出来る。セックスは、犬や猫や猿等の動物でも行っている事である。その様な下等動物が行っている事と同じ事、セックスをする事で、果たして大人であるという事が出来るのであろうか?。勿論、否である。
 また、世間の多くの者が、欲望に身を任せた行動を日々行っている。レジャー、博打、ゲーム、グルメ、ファッション、ショッピング、風俗、セックス、酒、恋愛(異性)、等々……。それら欲望の対象に多く接する事が、あたかも大人であるかの様に錯覚している。この世に存在する欲望の対象となるものを取り入れても所詮それらは空であるので一時しのぎにしかならず、つまりは一時の暇つぶしにしかならず、内面・心はいつまでも満たされず満足することが出来ず、際限なく手を出し続ける。そして実際は、それら欲望に身を任せて行うことは恥にあたる事なのである。本当の意味での自立した大人であれば、欲望の奴隷として囚われる事無く、自律し、自制する事が出来、或いは悟りを得てそれらの欲望に関心も湧かなくなるものである。
 周囲と異なっている状態にあったり異なる事を恥と勘違いして捉えている者が多い。しかし、みんながみんな、実際は恥に相当する事を行っているから周囲から批判されずに恥に感じる事が無いだけなのである。つまりは、世間一般的に恥の常識化がなされている訳である。みんなでやれば怖くない、みんなでやれば恥に思わない、である。
 神社や寺のお参りでは、自分の欲望が叶えられます様にと、偶像の神々・仏にお願い事をしている。しかし、神への本当のお祈りというものは、自分の願い事・欲望を聞いてもらおうとするのでは無く、創造主である唯一の神を賛美し褒め称えるものである。栄光は創造主のものである。結局は、日本の世間の無神論者・無宗教者の多くの人達が、自分の欲望を神として崇め拝んでいるだけなのである

   新約聖書・ピりピ人への手紙 3章19節
     彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

 お金、経済面の充実だけでは真の自立とは言えない。冒頭に述べた様に、精神面の充実・成熟が本当の自立・大人といえる。日本という国も戦後、経済の成長を重視するばかりで、それと引き換えに他国への依存・属国・隷従に甘んじて、精神面・思想の面での自立・独立意識が希薄となっていた。憲法改正案が衆参両院で2/3以上の賛成によって発議されたとしても、最終的には国民投票で可否が決まるのである。日本国民の一人ひとりが精神面での自立・独立意識を強つ様にならなければ、憲法改正も厳しいのではないかと思うのである。
 

 
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放置せずの対症療法は一層悪化させる・・・人間関係、外交、病気……

2015-11-29 19:48:47 | 世間・空気
 「対症療法」というものが在る。表面に出ている症状を治そうとしたり事態を変えようとするものである。
 それに対して「根治療法」が在る。表面に出ている症状・状態の根本的な原因を究明して、その根本原因を元から除去して完全に治す、或いは直す・変えるものである。
 しかし世間一般的には、とかく対症療法を行っているだけである。世間の多くの人達は、表面しか見ていない。表面のイメージ、周囲の評判、肩書、名前等で判断しているだけである。マスコミや有名人の言う事を鵜呑みにして、疑う事を知らず、その奥の事、裏側の事を知ろうとせず興味も無い。根本から論理的に筋道を立てて順に表面に出ている結果へと導こうとすることが出来ない。表面に出ている結果から、その逆へと辿って物事を考える事が出来ていない。その様に表面の結果で判断して論ったり茶化しているだけである。
 ただ、人の反応ばかりを気にして、周囲と同じ捉え方、判断をする事で、自分に批判・バッシングが来ないようにと、世間一般的に常識化されている、表面的な事を素直に受け入れ、或いはその様なものを作っているマスコミに洗脳されるがままで、自分で考える事をしない。その様な事が相乗効果となって、世間の多くの人達がまるでロボットの様に画一化して、その群衆の中でその表面だけに囚われる常識というものが一層強まっている。
 医療においても殆どが対症療法である。慢性疾患の患者は薬を与えられる事によってその症状は長引き、それどころか却って悪化しているがんの治療は、効果が無く毒でしかない抗がん剤という医療側・医者の介入によって、余計に悪化している。また透析においては、腎臓を取り換えない限りは一生治る事のない患者の症状を維持する様に努めようとしているだけである。根治療法をする事で病院から患者が居なくなれば、病院経営は成り立たなくなる。CT等の高額先端医療機器の借金返済の為に、それら機器を利用しての「予防医療」を行っているのである。予防医療は健康な人に医療介入・干渉によって心身にストレスを与えて医原病を作っている。その様に、対症療法やきっかけづくりの予防医療により金の生る木である患者をつくり保持し続けようとしているのである。
 因みに、皮膚炎を痒いからと皮膚をかきむしる事で余計に悪化するが、それも、痒みを治そうとしての自分での対症療法である。触れば触る程、余計に悪化するのである。
 また社会や世間の中にあっての人間関係も同じである。自分と合わない者、嫌う者、好意を抱く者を相手にして、その相手の人に対してその人の行状・態度・考え等を変えようとしたり直そうとしたりする介入・干渉行為である対症療法を行う事で、直らない、変わらないばかりか、余計にその人間関係は悪化していくのである。相手が世間一般的な奴隷根性を持つ人間であれば言う事を聞くかもしれないが、逆に精神面の上で独立意識の強い人に対しては逆効果であり、却って反発・反抗・抵抗が強まり人間関係は悪化していく訳である。その様な精神面で独立意識の強い人は自由を尊ぶ為に、要らないお節介や介入・干渉をせずに、放置する、放っておく事が最も良いのである。マイペースを好む人間からすれば、その様な自分の欲望を基にした対症療法を押し付けられる事によって却ってストレスを感じる事となっており、ありがた迷惑どころか迷惑そのものなのである。がんと同様、放置が一番なのである。その対症療法である干渉をストーカー行為の様にいつまでも執拗に続ける事によって、最悪の場合、犯罪へとつながる可能性があるのである。その様に、対症療法は人間関係をも悪化させるのである。
 また外交においても、要らない介入・干渉という対症療法によって事態は悪化している。アメリカは世界各地でその介入・干渉をする事で事態を悪化させている。特に米国は中東地域において、その対症療法をする事で、破壊工作を悪化させて来たのである。もっとも米国の場合は、その裏の権力に操られるままに、その意図である計画の下に、中東地域をはじめとして介入・干渉・侵略・破壊活動という「対症療法」を行ってきた訳であるが。その米国の独善的な様は、自分の欲望を基準にしてそれを人に押し付けようとしている、大勢に流されやすい世間の多数派の人達やストーカーと同様である。
 それらの様に、対症療法というものは根本的解決をする事が出来ず、却って悪化させているのである。
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人を恐れる、つまり人からの評価を求めると偽善となる:「この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人」を読む

2015-08-15 17:54:31 | 世間・空気
 人からの評価を求めたり認められようとすると、偽善行為となる。つまり、人を恐れる事で罠にかかる。
 人の為と書いて「偽り」となる。表面的には人の為等と綺麗事を言いながら、自分の生活費や遊行費を稼ぐ為、家族・恋人を養う為にビジネスを行なう。
 生まれたばかりの赤ん坊は純粋であるが、年を経る毎に物心が付いていき、知識が増え、悪知恵が働く様になる。
 人間は皆、「原罪」を持って此の世に生まれて来る。人間の本質は悪である。元々から、「原罪」と言う悪の性質を誰もが持っている。つまり、中国・戦国時代の思想家・荀子の唱えた「性悪説」の通りである。最初の人であるアダムが、悪魔の蛇の誘惑と言う雑音に乗せられ騙されたその妻エバの、その言う通りに行なう事により創造主に背いた事から始まった。
 今から3,500年程前の頃、へブル人(後のユダヤ人)達は創造主から離れ、その自分の悪の性質に心が支配されていた。そこで創造主はその選びの民に対して、指導者・モーセを通して「律法」と言う基準・規範を与え、律法を基にした行動、善悪の判断を行なえる様にした。主は、神から離れ悪に傾いていく選民達に歯止めを与えた。
 今から2,000年程前のイエス・キリスト在世時、ユダヤの最高法院サンヘドリン等のユダヤの国の支配者、権力者、祭祀者、律法学者達は律法を重んじ、律法を表面的、形だけ行ない、或いは口先だけの形式主義に陥っていた。不正が蔓延して真理が失われ、愛や真心の籠っていない形式主義と言う偽善がはびこり、それが当時のユダヤの体制に繋がっていたが、その体制を破壊しようとしたイエス・キリストは、それら偽善者達とそれに煽られ扇動された世間一般の民衆達によって十字架刑に追いやられ殺された。
 律法を守り行うだけでは、罪からは解放されない。主への信仰によって解放され真の義となる。律法、つまり規則や法律は、元々から悪の性質を持っている人間に対して理性を与える為のものである。理性は頭に生じるものである。頭と心は異なる。頭の知識だけで行い心が籠っていない事が形式主義・偽善となる。エリート等の俗に頭が良いと形容される者達が偽善である事が多いのは、その為である。真心、聖霊の宿る心を基にする行為は、真に正しくなる
 全部がそうであるとは言わないが、支配者、権力者、エリート、役人、官僚等は偽善者である事が多い。高い学歴を持ち、出世、保身の為に、自分より上の者や力の有る者に対しては迎合して媚びへつらっている。物事の善悪には興味が無く、或いは気付いてもそれを無視して、自身の安泰と繁栄を願っているだけである。
 世間の多くの人達も、真実には興味が無く、只々周囲と同じ事をしていれば周囲から批判を受ける事も無く、嫌われたり笑われたりする事も無いと言う様に、当たり障りなく社会生活を送れる様にと、エリートと同様に保身の姿勢を持っている。例え正しい事に気付いても、自分独りでそれを行なう勇気が無い。周囲の人の反応を気にするあまりに表面的なイメージ、形式を重視するだけで、その実中身は空っぽで、結局は偽善に陥っている。
 世間の多くの人達は真実に興味が無いが故に、物事の本質が解っていない。あくまでも、みんながやっている事を正解や善としているだけである。物事を真に理解していない人達から評価してもらったところで何の値打ちも無い。認めてもらったところで何の意味も無いのである。その様な世間に基準を置く事は間違う事となる。本質・根から外れた上辺・表面・形式に基準を置くが故に偽善となる
 有難迷惑というものも在る。善かれと思って行う事も、実際には相手にとれば迷惑に感じている事が多々ある。それは、自分の欲望・希望を相手に押し付けているだけであるからある。相手は何もその様なものは全く望んではいないのである。つまり要らないお節介や介入である。この様な独善的自分の思い込み・欲望を押し付ける事も偽善である。その極端なものがストーカーである。本当に善を行なおうとするのであれば、相手の気持ちを尊重することである。相手が放っておいて欲しいと思っているならば、放置する事が真の善となる。その様な相手にいちいち介入すると、余計に関係は悪化するのである。現在までの国際情勢の上でも、西欧の民主化と言う名目での押しつけが、その民族の反発心を起こしているのである。病気にしても、根本原因を取り除く根治療法をせずに、対症療法と言う表面に現われた症状だけを治そうとしても、余計に症状は悪化し長引くのである。皮膚が痒いからと言って掻きむしったりステロイドを塗ると、余計に症状は悪化するのである。
 「助け合い」や「人はひとりで生きられない」等と言う言葉が、マスコミ等で多用され美化される。確かにある程度はそれらは必要である。しかし、それらの言葉によって、甘え、安易に人に頼ろうとする人達が多い。解らない事が有っても、直ぐに人から聞こうとする。自分でインターネットや本を読む等して勉強し調べようとしない。自分で考えない為に自分で判断出来ない。安易に多数派の判断に付和雷同している。精神的に独りで立つという「自立」が出来ていない。「自己責任」を負うと言う感覚が欠けている。社会保障・サービスに助けてもらえるからと胡坐(あぐら)をかいている。人から受ける事に依存して、自らの努力が無い。甘やかしは偽善である。
 マスコミや宗教団体の唱える「平和」や「愛」等の聞こえの良い言葉も偽善である事が多い。それら一見聞こえの良い言葉によって世間の多くの人達は思考停止に陥り、「平和ボケ」と言う感覚の麻痺が起こっている。感覚が麻痺する事で、空想に浸る事で、現実の危機感を感じる事が出来なくなっている。それら聞こえの良い言葉には「裏」が在る。マスコミの言う事を鵜呑みにする事は、洗脳され思い込まされているだけである。マスコミ、そのスポンサー、上層組織、裏で操る権力の意図に扇動されたり陥らされるだけである。マスコミには嘘・偽りが多い

 次の本を読んだ。
 「この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人」(著者:曽野綾子氏・金美齢氏、出版社:PHP研究所、出版日:2013/04/04)
 作家と評論家という、共に現在80代(初版出版当時80歳前後)の保守派の論客の対談。共に高齢でありながらも現役で、自立・自律し、世間一般の多くの人達が平和の内にボケているのとは対照的に、自分の信念・思想・哲学をしっかり持っておられる。
 戦前の古き良き日本人の気骨・気概ある精神や思想、姿勢等が、現在においては失われてしまっている事を憂えている。教育に於いては、戦前には修身という基準となるものが存在したが、現在の日教組教育にはその様な基準が存在しない。 
 以下、本書から引用する。

 「『戦後の日本人を大きくダメにした日教組的教育が人間というものの現実を正視し把握しなかったのと、…(中略)…マスコミが実は勇気がなく、無難な理想論に迎合して、そうでないものに対して思想弾圧までしたところにある』」(2013年元日付・産経新聞「『年頭にあたり 幼児性と画一性脱し強い国家に』」)
 「『自助』『共助』『公助』という順であるべきだと思いますが、『自助』を忘れて『公助』ばかりを求める風潮がどんどん強くなってきています。…(中略)…昔の日本人は困難に立ち向かうことが自分を鍛え、磨き、立派にしていくことにつながると考えていた。」
 「いまの日本人は綺麗事でないことは受け入れない。だから世界の本当の現実もわからないんです。庶民から政治家に至るまで、見えていてもイヤなこと、見たくないものは、ないことにしてしまっている。」
 「世の大勢を覆うのは綺麗事で、私は、綺麗事しか認めようとしない偽善が日本を亡ぼすと本気で考えています。」
 「戦後の日本人をダメにした日教組的教育の問題は、祖国や同胞を大切に思うこと、人はまず自らの足で立たなければならない、ということを教えなかったことにあります。」
 「戦後の日教組教育が濃厚に刷り込まれ…(中略)…祖国をいたずらに卑下する教育はよくないし、戦後この方、他国との共生を強調し、日本人としてのアイデンティティをことさら希薄化するような教育が行なわれてきたのは大きな問題です。国際化や地球市民という言葉で誤魔化して、他国の文化や価値観、主張に日本人が歩み寄り、合わせることがさも良いことだというふうにして、日本人としてのアイデンティティや教養、誇りを失わせるような教育をしたことを見直す時期に来ていると思います。」
 「地域によっては日本史をまったく履修しないまま卒業する生徒も多く、…(中略)…『国際化』が理由になっていますが…(中略)…自国の歴史を教えない国になっている
 「国語教育の充実よりも、英語を第二公用語にしようという近年の議論は誤り…(中略)…言葉が一つ確固としていなければ、思考の基軸がないのも同然で、…(中略)…バイリンガルをめざすよりも、まず日本語をしっかりと…(中略)…言葉はその国の歴史と文化と一体…(中略)…たんに英語が使えるというだけでは、英語圏の人間に使役されるだけの存在になる
 「教育者やマスコミ自らが考えることを怠り、その影響から、若い人たちが同じ型で抜いたクッキーのように同じ思考、精神の傾向をもち、似たような判断を是とするようになってしまった。」
 「報道の幼稚化…(中略)…犯罪や事件の劇場化…(中略)…テレビも新聞も現実感覚を喪失して、何か架空の世界のことを伝えるような安直さ…(中略)…しょせん他人事」
 「『艱難辛苦汝を玉にす』…(中略)…福祉というものは、それを手厚くすればするほど人間を怠惰にさせかねない」
 「自己責任…(中略)…甘えきった態度が“当然の権利”になったら、…(中略)…いったい誰が黙々と働いて納税の義務を果たす気に…(中略)…お金は、『ないほうが強い』と」
 「誰も責任をとろうとしない社会…(中略)…みんなと同じことを言い、同じ方向を見ていればいい。画一的な思考に埋没して流行に迎合していれば、自分だけが責任を負わされることはない。…(中略)…誰も悪や損な役回りを引き受ける勇気がなくて」
 「いまの日本人、日本国家は平坦な道ばかりを歩もうとして、かえって多くの大切なものを失っています。人生は波瀾万丈のほうがいい、とは言いませんが、…(中略)…高級官僚に代表される学校秀才…(中略)…前例と規則を遵守しているだけで、独創性も個性もない……(後略)」
 「民主党政権の対応…(中略)…ひたすら中国の機嫌を伺い、摩擦回避の“事なかれ主義”で」
 「中国側から『日中友好に反する』と言われれば、物事の理非にかかわらず、平身低頭するだけで何も言い返せない
 「責任から逃げたがる卑怯な人は、多くのマスコミや文化人の中に…(中略)…保身に汲々と…(中略)…GHQによる検閲、統制…(中略)…今度は日本人自身がいくつもの“閉ざされた言語空間”をつくってきた…(中略)…創価学会に対する批判ができない…(中略)…中華人民共和国に関する報道の著しい偏向…(中略)…中国の提示する『政治三原則』…(中略)…日中記者交換協定…(中略)…『朝日新聞』やNHKなどの中国べったり報道……(後略)」
 「自己責任…(中略)…危険を承知なら、最後までその使命を受諾して、殺されようと長く拘留されようと意志を貫く…(中略)…ボランティアとはそこまでの覚悟をもって取り組むものだ」
 「実に多くの人たちが、自分の信念に従って仕事をしてはいない。無難を目指して、自分が標的にならないようにと…(中略)…価値観の基準は自分のものじゃなくなるんです。別の人の物差しで計られるようになっているということを、…(中略)…一体自分というものはどこにあるのでしょう。」

 引用文献↓↓
 「この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人」(著者:曽野綾子氏・金美齢氏、出版社:PHP研究所、出版日:2013/04/04)
「この世の偽善 人生の基本を忘れた日本人」(著者:曽野綾子氏・金美齢氏、出版社:PHP研究所、出版日:2013/04/04)
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人の褒める言葉も私の心を引かず・・・「世の楽しみよ去れ 世の誉れよゆけ」

2015-08-15 12:56:20 | 世間・空気
 車での通勤中、ラジオの会話はとかく空虚で意味の無い「雑音」が多いと私には感じる為に、何か意味の有る、値打ちを有するものを聞きたいと思い、次のCDを聞いている。
 
 「Aus Liebe アウスリーベ-愛のゆえに-」(ソプラノ:吉村美穂・ピアノ:野田常喜・フルート:安念恵、出版日:2013/5/25)
 次は、その中からの引用。

 「血潮したたる 主のみかしら
 とげにさされし 主のみかしら」

 「主よ 主のもとに 帰る日まで
 十字架の影に 立たせたまえ」

 「キリストには代えられません
 世の宝も また富も
 このおかたが 私に代わって死んだゆえです

 世の楽しみよ去れ 世の誉れよゆけ
 キリストには代えられません 世の何ものも

 キリストには代えられません
 有名な人になることも
 人のほめる言葉も この心を引きません

 キリストには代えられません
 いかに美しいものも
 このお方で 心の満たされてある今は」

 「Aus Liebe アウスリーベ-愛のゆえに-」(ソプラノ:吉村美穂・ピアノ:野田常喜・フルート:安念恵、出版日:2013/5/25)
「Aus Liebe アウスリーベ-愛のゆえに-」(ソプラノ:吉村美穂・ピアノ:野田常喜・フルート:安念恵、出版日:2013/5/25)
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