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狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

何も世間の人達と同じ事をする必要性は全く無い。もっと高いレベルの現実を見るべきである。

2015-08-13 12:27:59 | 世間・空気
 私は、自分を信じて世間を疑っている
 何も、此の世に存在する物事全てを行なう必要は無い。此の世に存在するものは、殆どが人の欲望の対象になるものばかりで、商売・ビジネスもその欲望によって成り立っているものが多い。
 グルメ、酒、レジャー、博打、ファッション、ショッピング、物欲、性欲、等々・・・、それら欲望にまかせて手を出し取り入れても、その時の一瞬の快楽・充足を得るだけで、また直ぐに心や頭は渇いてしまう。そして、次から次へと際限無く欲望に身を任せて手を出し続けるのである。
 要するに、欲望の対象となるものは実際は中身が空っぽである為に、何時まで経っても心が満たされないのである。取り入れた一瞬だけ充足感を感じているだけなのである。
 あの栄華を極めたソロモンでさえも、年を重ねた晩年に次の様に言っている。

 旧約聖書・伝道者の書1章2・3節
 「空の空。伝道者は言う。
 空の空。すべては空。
 日の下で、どんなに労苦しても、
 それが人に何の益になろう。」

 「色即是空」と言う言葉も存在する。此の世に存在する物事の殆どが実際は虚無であり、価値・意味が無いものが多いのである。故に、その虚無である事を行なう必要は無いのである。
 しかし、世間の多くの人達の捉え方は逆である事が多い。セックスをはじめとして、それら欲望の対象になる事を行なわなかったり経験が無いと恥ずかしい事と思う人達が多いのである。しかし前述の様に、その世間の多くの人達のその様な捉え方は間違っているのである。
 現実を見るという事は大事な事である。しかしこの点においても、世間の多くの人達は現実を見ずに空想・ファンタジーに浸っているのである。フィクションの恋愛ドラマやアクション小説を見読したり、キャバクラで虚構の恋愛に浸る等して、日々のストレスからの解放感を得たい為もあってか、「現実逃避」しているのである。
 此の世に存在するその様な欲望の対象となるレベルの低い現実に目を向けるのでは無く、国際情勢の悪化で戦争・侵略が危惧される状況下に対する国の安全保障体制の脆弱さの現実や、借金財政・財源不足による医療・介護・年金等の社会保障を削減せざるを得ない現実、大地震等の自然災害が間近に迫っている現実、金の裏付けの無い紙切れの紙幣を印刷し続けて来たが故のハイパーインフレが迫る現実、バブルである米国株価の下落が迫る現実等、そういうもっとレベルの高い現実に目を向けなければならないのである。却ってレベルの低い現実に目を奪われ続ける事によって「平和ボケ」してしまい、危機意識を持てなくなってしまうのである。
 次の本を読んだ。
 「現実入門―ほんとにみんなこんなことを? 」(著者:穂村弘氏、出版社:光文社、出版日:2009/02/20)
 著者は本書著作時42歳で、結婚、独り暮らし、海外旅行等をしたことが無いと言う。私も現在46歳(2015年時点)で、著者と同じくA型で未婚で海外旅行や合コンをした事も無く、キャバクラにも行った事が無い。しかし前述のとおり、私は世間の多くの人達と違ってその様な事等に関する経験の無い事を恥ずかしいとは全く思わない。タバコは吸わない、パチンコはしない、食事は粗食、服はめったに買わない。世間の多くの人達が行なっている事をやりたいとも思わず、レジャーやスポーツ観戦も今に至っては興味が無い。私は、そういう低レベルの現実に入らなくとも、全く恥ずかしいとは思わないのである。何も世間の人達と同じ事をする必要性は全く無いのである。
 本当の「大人」という者は、自分で考えて自分で判断する事が出来る、精神的に「自立」して周囲の多くの人と異なる事が出来る者の事を言うのである。

 「現実入門―ほんとにみんなこんなことを? 」(著者:穂村弘氏、出版社:光文社、出版日:2009/02/20)
「現実入門―ほんとにみんなこんなことを? 」(著者:穂村弘氏、出版社:光文社、出版日:2009/02/20)
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子ザル「シャーロット」抗議に見る世間の権威・権力に対する望塵之拝・旧套墨守と付和雷同の性質

2015-05-10 19:08:02 | 世間・空気
 先日5月7日、大分県の高崎山自然動物園で、今年最初に生まれた雌の赤ちゃんザルに、誕生直後の英国王女に因んで「シャーロット」と名づけたところ、一般市民から苦情が殺到したとの事。それに対して英国王室広報担当者は「(公式的には)あくまでもノーコメントだが、名前の付け方は所有者の自由だ。」と述べたとの事。電話やメールによる批判や抗議は、300を超えたとの事。
 翌日、園を管理する市は「シャーロット」のまま変更しない事を明らかにしたとの事。
 この批判や抗議からは、世間一般には権威や権力に盲従し、根拠・理由も無くそれらを崇拝・尊敬している人達が如何に多いかという事が伺える。世間の人達の、肩書きや勲章を安易に鵜呑みにしたり、権威・権力・高いステータスに迎合し媚びへつらう性質・性格が見えて来る。私には、その様な批判や抗議が起こる事自体が疑問に思えるのである。
 「差別化」によって、高い地位~低い地位が存在するのである。「差別は悪い事」と言う偽善・綺麗事を言う傍ら、差別によって権威・権力を崇めているのである。つまり例を挙げれば、が存在するから天皇・皇室が存在できるわけである。
 差別や偏見が生じる理由は、それを行なう人達が持っている知識に偏りがあるからである。人それぞれが幅広くバランスのとれた知識を持っているならば、偏見や差別は生まれるはずがない。しかし、世間の多くの人達が依存しているマスコミは「偏向報道」をして世間の多くの人達を洗脳し、煽り立て、世論を作って扇動する。そして世間においては、井戸端会議や風評によって拡大するわけである。
 世間の人達の多くが、自分の内に基準や規範となるべきものを持っていない。その事によって、自分で捉え、考え、判断する事が出来ず、常に周囲の反応・顔色によって自分の言動を決めている。批判されるのを恐れて、常に周囲と同じ事を言い、同じ事を行なっている。右向け右と権威・権力が言うと、皆そろって右を向いている。その様にして、「多数派」に偏っているのである。その上で、「少数派」を差別するのである。
 子ザル「シャーロット」抗議に見る世間の権威・権力に対する望塵之拝・旧套墨守と付和雷同の性質を見るのである。
 此度の子ザルに「シャーロット」と名付けた事は、英王室という権威・権力に対する「皮肉」が利いて、とても愉快であった。どうせなら「蛇」に名付ければ良かったものと思うのであるが、蛇は動物園にはいないのでしょうか?。

  ※望塵之拝(ぼうじんのはい)…地位の高い人や権力のある人に、媚びへつらうこと。
  ※旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)…古くからの形式や方法をかたくなに守り、融通のきかないこと。
  ※付和雷同(ふわらいどう)…自分にしっかりした定見がなく他人の意見や行動に軽々しく同調すること。

 本ブログ過去の関連記事↓↓
  ・2013/04/26付:「旧約聖書・創世記6章4節の「ネフィリム」②・・・蛇 、ダン、宇宙人、イルミナティ」
  ・2013/08/31付:「本日の記事「今夏の猛暑は『地球寒冷化』の前兆か?・・・10年後辺りに小氷河期の可能性」の追記・・・世界各地での今夏の異常気象、& ダン族の建てた英国」
  ・2013/11/05付:「福島県民に対する「棄民政策」を阻止しようとした天皇への陳情の何が悪いのか・・・万世一系では無い天皇、そもそも天皇の権威とは一体何なのか」
  ・2015/04/26付:「『盗撮ウイルス』によりプライバシーがネット上に公開 & ダイアナ妃暗殺」

 参考記事↓↓
  ・2015/05/08付・神戸新聞朝刊:「サルに王女の名・・・英王室『自由』 大分の動物園は大使館に相談へ」
  ・2015/05/08付・神戸新聞夕刊:「『シャーロット』変更せず 大分の子ザル」
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世間は常に同じ方向を向いている・・・「高学歴の本質は、奴隷従順歴」、「化学的愚民化政策」

2015-03-22 08:35:12 | 世間・空気
 「高学歴の本質は、奴隷従順歴である」、ワクチン・薬による「化学的愚民化政策」。マスコミによる「愚民化政策」
 世間の多くの人達は、常に同じ方向を向いている。テレビや新聞の言う事に素直にうなずいている。医者や先生、高学歴等の肩書きを持つ者に対し従順である。
 自信が無い為に、常に他人の評価・顔色を気にして、それを自分の言動基準にしている。常に他人・周囲に認められようと努めている。自分が納得出来ない事でも、世間一般の承認を得る事を優先している。嫌われる事、笑われる事を恐れるあまり、周囲と異なる言動を取らない。
 マスコミの作る世論や流行に煽られ洗脳され、その場・その時の空気・雰囲気で判断している。
 群集・集団・組織・団体・世間から身を引くと、その様な世間が見えてくる。
 自信を持ち、「独立自尊」の精神を基にして、独りで考え判断出来る様になる事が必要である。

 本ブログ過去の関連記事↓↓
  ・2014/01/12付:「世間の人達はなぜ自分独りで考える事が出来ないのか」
  ・2014/05/18付:「『独行道』・・・流浪・孤独の境涯を渡った宮本武蔵・・・『宮本武蔵 剣と人―遺書『独行道』に秘められたその実像』を読んで」
  ・2014/06/28付:「『絶対的』では無く『相対的』に、周りの人達の顔色や反応を基準・規範にするのが世間の人達・・・『『空気』と『世間』』を読んで」
  ・2014/06/29付:「『『普通がいい』という病』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」

 参考動画↓↓
 

YouTube: 子供達よ、学校教育の本質に目覚めなければならない!バカの盲信が奴隷社会を造る 高学歴の本質は、奴隷従順歴である 奴隷本質を見抜けないバカな親になるな
 

YouTube: Vaccines and The Herd Mentality
 

YouTube: ワクチンとフッ素による大衆管理.wmv
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「『普通がいい』という病」を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて「普通」と認め合っているに過ぎない世間の人達

2014-06-29 16:10:17 | 世間・空気
 総タイトル:【「『普通がいい』という病」を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて「普通」と認め合っているに過ぎない世間の人達】

 世間にとっての普通や常識は、とかく自分にとっては不自然なもので普通では無い、自分には合わない事が多いです。特に私の場合は周囲の人達の様に世間にどっぷりと浸かっておらず世間に属していないので、その様に強く感じています。
 自分を失くしてしまってロボットや奴隷の様に日々、大きな会社や組織の中で働きながら、プライベートで街中を歩きながら、周りと違っていない様にしないといけないと努めたり、常識・しきたり・定めに縛られ、周囲の顔色や反応を気にする神経症的症状を有し、ストレスは溜まり、抑うつ状態に陥っている人達が多いと思います。
 私の場合は、世間の言う「普通」や「常識」は決して正しい訳では無く、この欲望・偽善・矛盾・下心の渦巻く理想郷では無い現代社会・世間においては、却って普通と認められていない事や「非常識」の方が正しい事が多い様に思っています。世論は偽情報ばかりを垂れ流すマスコミによって形成されているに過ぎず、世間一般で普通に言われている様な事は間違いだらけで真実は別に隠されていると思っています。
 私はその様な考えを持っていますので、勿論、世間を基準にした場合には其の基準からは大きく外れて普通ではないものと思います。しかし、私はその様な世間には基準を置いてはいません。世間の言う事は全く当てにはしていません。
 絶対的な規範・基準を持っていない世間の人達が一応基準にしているものは、周囲の顔色や反応です。世間の人達はその様にお互いの顔色や反応を確かめ合いながら、皆で行動すれば怖くないと言う振る舞いをして、其の行為が正しいか否かは全く考慮していません。自分に思考・考えの無いロボットや奴隷の様な人達がお互いを見て普通であると認め合っているに過ぎないのです。
 「『普通がいい』という病」(著者:泉谷閑示氏、出版社:講談社、出版日:2006/10/20)
 本書を読みました。初版発行当時に読んで以来の再読です。
 著者は「私は別にクリスチャンではありませんが」と言っていますが、私が本書読んで感じた事は、非常に聖書的な考えに近いものと思いました。著者の言葉を基に、私の聖書や神を関連させた解釈を以下に記します。
 人の発達・成長の段階として、著者は「0人称」→「1人称」→「超越的0人称」と次元を区別して述べています。
最初に「0人称」があり、自分に主体が無く自分の考えを持たず自分で判断出来ない未熟な状態。従順で奴隷的。暗闇・欲望への囚われ。これは抑うつ、エネルギーの喪失にも繋がります。世間の常識・一般常識、風評、評判、空気を読み、それら人に従います。世間・多数派、組織、・団体。自分の虚無性、無自覚、不自然、麻痺、他人の判断、安定志向、機械的生活。世間のレール、他人本位、「他信」。他人の欲望、頭由来。他人の承認、世間が基準。世間の客観。
 次のステップとして「1人称」があり、自分に主体性を持ち、思想・考え・主張を持つ。自分が存在。自由・人権の獲得、反抗・抵抗。怒りや反骨精神による生きる原動力・エネルギーを持ちます。個々の専門性・個別性。自分の考え、自己実現、自己本位、「自信」。自分の欲望、頭由来。自分の承認、自分が基準。自分の主観。個人、独立、自立。自覚、自然、敏感。
 そして最もレベルの高いステップが「超越的0人称」であり、神に委ねて無我となる、最も成熟した状態。自分の意志をも捨てる。真の強さ、泰然自若、暗闇からの解放が得られます。神に従い神の普遍性が得られます。神の考え、神実現、神本位、「神信」。神の愛、心由来。神の承認、神が基準。神の客観。神を自分の「主」とする。無限の力、永遠の命、無限の開放。
 また「本当の自分の変遷プロセス」(成熟過程)を述べています。此の世に生まれてから以降、社会性を身に付けながら、他人本位となりながら、「徐々に偽りの自分に侵食されてい」き、社会・世間の偽善や矛盾に適応し迎合し媚びへつらって成功・出世し、世渡り上手となって「本当の自分」が失われます。そしてこの時、社会・世間の物事に偽善や矛盾が含まれている事に気付いていません。その後、何かの出来事に遭遇するきっかけを得たり黙想する事によってそれらの事や真実に気付いて本当の自分が復活し始めて怒りが生じる様になります。そして次に、信仰・祈り・黙想・沈思黙考して「悔い改め」する事によって外から付着した汚れや自分の罪の汚れを落として心が綺麗になってリラックスした状態となり、本当の自分に「純化」されます。欲望・偽善・矛盾が渦巻き理想郷とは程遠い社会・世間の現実とは正反対に、欲望の死、欲望からの解放・自由が得られて理想家となる純粋な自分となります。そしてその後に、リラックスした純粋な自分が理想郷では無い外界(社会・世間)に対する「適応のためのアダプターを身にまとう」という処世術を身につける様に成熟します。
 その様に純粋な自分となって心がリラックスして、且つ理想郷で無い外側の社会・世間から自分を守るアダプター・処世術が身に付いて成熟すると「敏感で太い」状態、気付いても取捨選択して影響を受けない泰然不動の自分となります。そしてそのリラックスした自分とアダプターと言う殻の間に「集中力」を持つ事が大事だと言います。
 また或いは純化して純粋な自分になる上において、人里離れた山奥の仙人・隠遁生活を送る中で、世事・世俗を逃れて黙想・瞑想して悟りや諦めの諦観の念を抱き、自分を「空」・「無」にして自然と一体化し、あるがままの自然な境地に至る成熟も有ります。
 本書に、「聖母マリアは、イエスを神の授かりものとして身ごもり、育てたのであって、決して自分の子どもとは思わなかっただろうと想像」と在ります。
 人間であるマリアは自分の能力でイエス・キリストを産んだ訳では無く、神の全能の力によって、神がマリアを使って、この世にイエス・キリストを遣わされた、処女懐胎の歴史的事実です。
 マリアがイエス・キリストを産みたいと望んでいた訳では無く、神が神御自身の計画をマリアに押し付けて、マリアはそれを運命として素直に受け入れた訳です。
 「現実」とされる俗世(この世)における名誉や地位等が、実際は中身の無い空想的なものなのですが、世間の人々の信奉する処によって、この世においてはそれら空虚(空想・ファンタジー)が重視される「現実」。
 本書に旧約聖書・創世記のアダムとイブの「『二元論の獲得』にこそ、人間の『原罪』を見るべきではないか」と在ります。神こそが善と悪を定める唯一の方で、人が自力では無く神によって生かされている事を知る為です。
 「拘り(こだわり)」は自分(人間)の「頭」由来のものであり、理性・二元論・浅い知恵。反対に神に委ねる事は「心」由来のものであり、自分(人間)の意志(=頭由来)に依らないもので、深い知恵。神に委ねる事で自分の拘りの拘束から解放されて、「心」が自由になります。
 「理性の限界」について、「科学」は人間由来で有限・限界が有りますが、反対に「偶然」・「自然」・「超科学」は神由来のもので無限です。
 「頭」は知識、真偽の二元論、偽善、罪、謀略、不自然、小さな理性、浅い感情「偽の心」であり、反対に「心」は神由来の深い感情、純粋、無罪、「大いなる理性」、「内なる自然」。
 本書に「『心』=『身体』とは、自分を形作ってくれてはいるが、自分のものではない」とし、「期限付きで『自然』からレンタルされているだけ」と在ります。この「自然」とは唯一神である創造主の事を指し、万物、中でも特に人の命は創造主の持ち物であり、期限を有するこの世において人は神からその命を託されているという事を意味しています。「自然の原理」は神の操作によるものです。
 本書に「捻じ曲げられる人間~コントロールという病」と在ります。創造主によって造られ与えられた元々の自然な状態を、科学や生命の操作等により人間の都合によって変えてしまっている事が挙げられます。
 また本書に、「深い感情を信じるということは、『心』を信じて生きることであり、われわれ人間を突き動かしている深い流れ、すなわち『自然』や『運命』を信じるということ」、「私たち人間のちっぽけな理性では測り知れないこの深い流れに身をゆだねて生きていくことが、『運命』に身を開いて生きること」と在ります。ここで言う「自然」や「運命」、「深い流れ」は神由来のものであり、父と子(イエス・キリスト)と聖霊の三位一体の唯一神への信仰を有してその聖霊の宿る「心」を信じると言う事、前述の「超越的0人称」として神に委ねて生きる事を述べています。
 「孤独」と「孤立」について。「alone」は必ずしも寂しい事を含意せず、反対に「lonely」は寂しく恋しく思う孤独と言う違い。心の内に存在する神と共に生きる
 著者の「愛」と「欲望」についての定義。「愛とは、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち」、「欲望とは、相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ち」。人の好意や親切が却って余計な干渉で迷惑に感じられる「ありがた迷惑」等は、後者の「欲望」に値するものです。聖霊の存在する心由来のものは、前者の「愛」です。神・キリスト・聖霊が根拠となった「無償の愛」
 「欲望」が無いと、我慢する必要も無くなります。頭の理性や世の定め等によって欲望を抑制する事から、我慢・ストレスが生じます。
 また自分の希望に過ぎない「欲望」から「人の為に善いことをすると書いて」の「偽善」が生まれます。宣伝・アピール等、人に見せる(魅せる)為の表面的なイメージ重視の行為は「偽善」です。
 また神に委ねる事で、自然と自分の欲望が減少して成熟していく事となります。信仰により聖霊の存在する心の内からの働きかけによる神からのアプローチが有り、聖書の御言葉を受け入れる事によります。神による欲望のコントロールによって自分を堅持でき、自分で禁欲的に無理やり抑制するのではなく、この世・社会の定めによるのでもありません。
 「代償行為」、「代理満足」と在ります。水は二種類存在し、世の与える水は幾ら飲んでも満たされず、繰り返し心が渇く為に依存症へと繋がります。しかし一方で神(イエス)の与える水は、心が渇く事が有りません。
 世間の人達の多くが、周囲との関係を良好に保つ為に、嫌われ無い様にg>「自己否定」をしています。自己否定の根拠・理由が無く二次的に「あら探し」を行なって来た事による自己愛の障害と言っています。それはレッテルや先入観、偏見等は思考の癖、手垢の付いた思考であり、それらが前提として最初に頭に存在し、それを基にして「あら探し」しているに過ぎないと言う事です。
 「愛の自給自足」と在ります。孤独に存在出来る故は、世間の考え方や捉え方・此の世的なものを否定し、自己を否定しない自信・自己愛の故であります。世間・他人から受ける事を期待せず、依存せず、内なる神に委ねる事によって「愛の自給自足」が得られます。外側に存在する世間、この世的なもの、評判、顔色(笑顔)、名声、尊敬、勲章等、これらを期待するのは他に依存する間違ったことです。内なる聖霊(神、キリスト)を覆い隠してしまう世間的・此の世的なもの・欲望を取り除く事が必要です。「愛という内なる太陽」とはその聖霊の事であり、「それを遮らず、曇らせない事が大切」と言っています。
 「絶望」について。自分の「欲望」から自分勝手に立てた「目標」を達成できず叶えられない場合に「絶望」となります。しかし、元々が神が自分に対して望んでいたものは別の方向に存在していた訳で、自分の希望・目標・欲望が叶う時を幾ら待っていてもその時が訪れる事は無く「絶望」となります。神の自分に対して立てている計画・期待・運命は別の所に存在します。運命を悟り、自分の希望・期待では無く神の計画・期待に応え従う事が必要です。神に委ね、神の御心に適う様にして、此の世的なもの・欲望を満たすものからの束縛から解放されて心が自由になり、「絶望」とは無縁となり、「希望」が得られます。
 欲望を経験を積み「果たし切る」事によって、自然と、我慢せずとも、禁欲と気張らなくとも、無欲(=真の愛)になる事が出来ると言う意味合いの事を言っています。様々な経験を積んで泰然不動(泰然自若)の精神となります。信仰心の有る心と成熟した判断力・捉え方によって、様々な情報(雑音・誘惑・扇動・そそのかし等)を敏感に捕え気付いても、自分で取捨選択して情報処理し、影響されず、平常心を持って泰然としていられます。
 また欲望の経験の後の「悔い改め」によって、神に身を避け守られる、神への信仰心の有る「真の強さ」を持つ「純粋さ」が得られます。
 「体験」と「経験」の違いについて述べています。「体験」止まりの場合は過去のもので「死んでいるもの」、「苦労が勲章」となってしまいます。その体験の深化により、未来に向けて「苦労が身になる」「経験」、「生きているもの」となります。その経験の深化によって「普遍性」が得られて応用が効く様になり、本当の「共感」をする事が出来る様になると言っています。

 
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)価格:¥ 799(税込)発売日:2006-10-21


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「絶対的」では無く「相対的」に、周りの人達の顔色や反応を基準・規範にするのが世間の人達・・・「『空気』と『世間』」を読んで

2014-06-28 18:58:42 | 世間・空気
 総タイトル:【「絶対的」では無く「相対的」に、周りの人達の顔色や反応を基準・規範にするのが世間の人達・・・「『空気』と『世間』」を読んで】

 世間からはみ出している私自身は、今後とも世間に属さず孤独に、世間の暗黙のルールにも従わず、束縛されず、空気も読まず、思想の上等で独立して自由を持ち続けようと思います。その為に世間から嫌われても一向に構わず、世間の欲望を満たす為の行動をするつもりは全く有りません。そんな私であるので、大きな会社や組織・グループは大の苦手で、その様な中にいるだけで却ってストレスが溜まってしまいます。
 「『空気』と『世間』」(著者:鴻上尚史氏、出版社:講談社、出版日:2009/7/20)
 本書を読みました。
 「こんな事をしたら笑われるわよ」と親が子供に叱る様に、「絶対的」な基準や規範を持たずに、周囲に存在する人達の顔色や反応を基にして、「相対的」に物事の判断や行動の決断をする人達が世間の人達である様に思います。
 何が本当に正しくて何が本当は間違っているのかを子供を育てる親が解っていないのに、同様に学校の教師が解っていないのに、どうして子供を養育し教育する事が出来るのでしょうか。
 自分を信じない、つまり自分に自信が無い世間の人達は、他人を信じる、他人の顔色や反応をあたかも神として崇めるかの様にして、自分の考えでは無く周囲の考え・流行・傾向・時流・空気に乗って行動しているに過ぎない様に思います。
 空気を読むばかりで、笑われない様にしようとか嫌われない様にしようとかの「世間体」を気にするばかりで、自分の中に思想・自分の考えが無いのが世間の人達である様に思います。
 永遠では無い「空気」は空虚で実体が無く、残らずに消えて無くなるもの。マスコミの作る世論や思想の傾向等は一時的なもので、何年か後でそれらを振り返って見てみると、ばかげていておかしなものが多いものです。
 最近は通勤・通学の電車やバスの中でも携帯電話やスマートフォンをいじる人達が多く、特に学生は本を全く読まない様です。新聞すらも読まないその様な学生達の話の内容は、テレビのバラエティー番組と同様に軽薄な言葉ばかりを並べて中身の無い無意味で空虚な話であり、その様な話は私にとってはただの雑音にしか聞こえず、騒音としてしか感じません。
 その様に空虚で無意味な言葉を発しながら口ばかりを動かしているので、考える事が無い。ものを考える時には、気持ちを沈めて黙する事が必要で、前ばかり見て反省もせず、時々立ち止まって後ろを振り返り沈思黙考する事が世間の人達には欠けている様に思います。
 本当は唯一の神であるはずなのに、この世の中には様々な神や仏等が一応存在してると世間一般では言われています。そしてその一つだけが真実で他は全て間違っている宗教のその良し悪しはともかくとして、その信者達はそこで言われている事や教典をほぼ絶対視して自分の考えや物事に対する捉え方・判断、行動等に繋げています。
 しかし、無神論者達の場合は自分にとって絶対視する事が出来るものを持っていない事もあって、前述の通りに周囲の顔色や反応を神として崇める様に見ている訳で有る様に思います。
 キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の神は、旧約聖書の創造主・唯一神「ヤハウェ」を共通として「絶対的存在」です。世間と言う分野に属する様な人達の場合は、常に他人と比べて「相対的」に判断し、行動を決め、勝った・負けたと一喜一憂しているに過ぎない様に思います。そういう意味で私は最近は勝ったとか負けたとか気にする事自体が虚しく思え、そんな事はどうでもよいとさえ思っています
 因みに本書に書かれている、特にアメリカにおいてのキリスト教における福音派とリベラル派の違い福音派の場合は聖書に書かれてある事は全て真実であるとし、中絶の禁止、同性婚の禁止、結婚まで純潔(処女・童貞)を守ると言う古き良きアメリカを取り戻そうと努めています。しかし一方のリベラル派は科学的な知見を基にして聖書に書かれてある事の中には真実では無く歴史的事実で無い神話や寓話が含まれていると主張し、且つ進化論を認めています。そしてそのリベラル派はマリアの処女懐胎やイエス・キリストの復活をもその科学的知見によって否定しようとしており、そうなるとリベラル派はエホバの証人(ものみの塔)やモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一教会(世界基督教統一神霊協会)等の新興宗教と同じで正にキリスト教紛い(まがい)で偽物であると思います。
 エホバの証人やモルモン教がイルミナティ・フリーメーソンによって設立された様に、キリスト教リベラル派も同じではないかと思います。キリスト教の破壊を企むユダヤ・エージェントのマラノの侵入も考えられます。
 人間が作った科学が最高のものでは無く科学を超える自然や宇宙が存在し、その自然や宇宙をも超えるのが「絶対的存在」である創造主・唯一神であるのです。人間には到底不可能と思える様な事、人間の常識では考えられない事、不思議な事を、創造主である唯一神ならば出来る訳です。
 周囲の顔色や反応を信じるのは最もレベルが低い人達。その人達よりもレベルが高いのが自分を信じて自分の考えで行動する人達。しかしそれよりももっとレベルが高いのは、神を信じて神に委ねる人達
 世間や空気を日々批判的に見て捉えている私にとって、本書には共感する事が多く書かれています。
 世間の特徴として、根拠・理屈の無い神秘性、呪術的しきたり、差別的で排他的、集団主義的で個人の不在、多数派の意見に迎合、変革が不可能、儀式・形式重視、権力性、議論を拒否する空気の存在、抑圧としての存在、等々・・・・・・。

 
「空気」と「世間」 (講談社現代新書)「空気」と「世間」 (講談社現代新書)価格:¥ 864(税込)発売日:2009-07-17


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オリンピックを通して、世間の人達が自分で判断出来ない考え方・捉え方を見る

2014-02-23 22:38:52 | 世間・空気
 明日の未明にソチ・オリンピックが終わろうとしています。結局私は興味が無い為に新聞で結果を見るぐらいで、テレビでの観戦はしませんでした。
 そのオリンピックの競技によれば、タイムや距離等による勝ち負けは判断出来るのですが、フィギュア等の審査員による点数による勝ち負けは解りません。その審査員も5、6人程しかおらず、余程の専門知識でも持っていなければ一般の人達には解っていないものと思います。
 結局は、その5,6人の審査員の判定によって、世間一般の人達は一喜一憂させられているものと思います。自分で判断出来ずに、肩書きを持つ偉いサンの判断や言う事を鵜呑みにして、マインド・コントロールされてしまっている世間の人達の構図が、そこにも表されている様に思います。
 世界情勢にしても、結局は一部の権力者によって動かされているに過ぎません。株や円が上がった、下がったと一喜一憂する様にマスコミは世間を煽りますが、アシュケナジーの金融ユダヤ人等に操作されているに過ぎません。結局は、イルミナティ・フリーメーソンによって、世界情勢が決められているに過ぎません。
 世間の人達は、自分に自信が無いから自分で考えて判断する事が出来ず、周りの評判や顔色ばかりを気にして生きている様に思います。正しい多くの知識を身に付けて、自分で捉えて判断出来る自信を得る必要が有る様に思います。

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比較の対象・「基準」・「規準」・「規範」にするものが重要で、不完全である人や世間、社会、空気、マスコミと比較する事は間違い・・・「くらべない幸せ ~『誰か』に振り回されない生き方~」を読んで

2014-01-25 17:55:12 | 世間・空気
 総タイトル:【比較の対象・「基準」・「規準」・「規範」にするものが重要で、不完全である人や世間、社会、空気、マスコミと比較する事は間違い・・・「くらべない幸せ ~『誰か』に振り回されない生き方~」を読んで】

  「くらべない幸せ ~『誰か』に振り回されない生き方~」(著者:香山リカ氏、出版日:2010/2/5、出版社:大和書房)
 本書を読みました。因みに、本書に聖書や神の事については書かれていません。
 聖書の「規範」に照らし合わして(比較して)点検・確認する事が大事で、人や世間、社会、空気、マスコミと比較する事は間違いです。
 比較の対象・「基準」・「規準」にするものが重要で、不完全である人を基準にする事は間違いで、完全な神・「聖書」の指針を基準にする事が正しいのです。世間、空気、雰囲気、流行、傾向等を基準にする事は間違いです。評価や認定は、その規準・基準にするものが何であるかによって異なってくる訳であり、規準・基準にするものが間違っていれば自ずと評価や認定も間違いとなります。
 唯一・絶対の神に従う事が正しく、人に従う事は間違いです。人に従うのは「奴隷」であり、神に従う事は「神が主」です。
 人が未熟な精神状態から成熟な状態への発達過程として、初めは「他信」であり、それは、他人を信じ、「他人本位」であり、他人の奴隷、他人を基準にします。
 次の段階として「自信」へと発達し、それは、自分を信じ、「自己本位」であり、「自己実現」を自分で行ない、自分を基準にします。しかし、同時に自分の欲望の奴隷となってしまいます
 そして最も発達して成熟した状態が、「神信」です。それは、神を信じ、「神本位」であり、「神実現」を神の意のままに行なってもらえる様に神に委ねて祈り、神を基準にします。本当の自分が得られ、神に委ねて拘りや欲望からの解放が得られます。「運命」に委ねる事です。そして、元々この世に生まれて来た時の「純粋無垢」な心の状態に「戻る」事です。
 自分を誇る事は間違いで、神を誇る(信仰を誇る)事が正しいのです。
 社会性を身に付けていく毎に、理想郷では無い社会や世間の汚れが付着して心の純度が鈍ってしまい、心の内に存在する「聖霊」が見えなくなってしまいます。社会・世間に溢れる偽善、矛盾、欲望、欺瞞……。これが本書で言う「心理的妨害」です。
 例え此の世に在って孤独であっても、「聖霊」が心に宿る、神と共に居る事が「幸せ」です。「不安」に感じるのは、信仰の無い心に聖霊が存在しない事、そしてそれが後述の「心の不安定さ」に繋がります。
 「“もの足りなさ”を埋めてくれる何かを求めてさまよっている」と在りますが、世の与える様々なものは欲望の対象となるものばかりですが、直ぐ渇いてしまうので直ぐに次にまた欲しくなり、幾ら取っても満足出来ずに限が(きりが)有りません。しかし神から与えられるものは渇く事が無く、足るを知り、満足出来ます。神への信仰心によって、「欲望の奴隷」からの解放が得られて心が自由になります。世に在るビジネスや商売の殆どは、その欲望によって成立しています。
 神の思い(神の御計画)と人間の思い(欲望・目標)とは異なります。「絶望」とは、自分の欲望から起こるもので、元々神の立てている計画は別の方向・場所に存在しているのです。故に、神に委ねて「神の御心」のままに行うならば、絶望とは無縁となります自分の欲望や目標にしがみつかずに諦め(あきらめ)、神に依存する事が必要です。
 「『何のために生まれてきたの』『私の人生、何の価値があるんだろう』」と在りますが、人間は創造主の為にこの世に生まれ、人の生命は創造主の持ち物であり、生命は神の領域であります。そして、神によって全ての人の尊さが認められています。「神は普遍」であり、全ての人・ものに共通して存在します。「万人向けの究極の処方箋」とは「聖書」です。
 社会・世間から距離を置き、「信仰心」を基に「沈思黙考」・「祈り」・「悔い改め」をして心が解放されてリラックスすると同時に、自分が「純化」され、社会・世間から付着した汚れや自分の罪が落とされます。また、悟り・沈着・泰然不動・心の安定が得られます。逆に世間の中にどっぷりと浸って欲望に身を委ねる事は、浮動・遊動・流動・心の不安定を招き、それは神からはぐれた人間の心の不安定さを表します。例え金・地位・職等の「社会的安定」が得られなくとも、不遇な扱いを受けても、「信仰心」は「心の安定」をもたらします
 「マイペース」と「世間のペース」との違い、「自分の価値観」と「世間の価値観」との違い。
 笑顔や行為、空虚な言葉は表面的なもので偽善であります。
 「あるべきものがない不確かな存在」と在りますが、本来、人は創造主によって造られたにも関わらずに人其々に「あるべきもの」である神からはぐれてしまい、世間や社会、空気、マスコミ等の「不確かな存在」に依存し頼っている為に人其々が「不確かな存在」になってしまっています。景気や流行、風評、世論等は時間の経過によって移り変わりますが、「真実・神は不変」です。人間や人の作り出すものは不完全である為に、「不確かな存在」です。不確かな人間に頼る事で、裏切られます。この場合の「不確か」とは、前述の「不安定さ」と同様に、社会的な事では無く「心」においての事であります。
 旧約聖書・箴言29章25節「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」。
 神への信仰から来る「単純さ」と「能天気さ」(楽天さ)は、神への単純な信頼で、この世に生まれた時と同様の「純粋無垢」な自分であり、それが本来の自分、本当の自分です。
 自分を認めるとは自分の失敗や短所を認める事、他人を認めるとは他人の失敗や短所を認める寛容さが必要となります。
 最後に、世間一般の人達は自分の「証」として、学歴や経歴、資格、勤務先会社の名前(ブランド)等を持って行っています。実際、この社会においては就職において履歴書は必須となっています。しかし、「信仰心」の有る自分自身の「証し」は、主イエスが行ってくれます。例え世間に誤解されようとも、神は常に見守っていて下さっています。これが、本当の「自分の証し」です。
 キリストを「証し」し、キリストの「証し人」となる為に、「悔い改め」をして、キリストを受け入れて自分の心が変えられ救われた事を「証し」します。また、イエス・キリストが主であると言う自分の告白、言葉、行い、生き方、判断、捉え方等において「証し」します。しかし、人間は不完全である為に、イエス・キリストを完全に「証し」する事が出来ません。却って世間の知らない人達に誤解を与えかねません。
 新約聖書・ヨハネの福音書5章31~39節に書かれている「完全なるキリストの証し」として、父なる神による「証し」、イエス・キリスト自身による「証し」、そして旧約聖書による「証し」が在ります。


 
くらべない幸せ  ̄「誰か」に振り回されない生き方 ̄くらべない幸せ  ̄「誰か」に振り回されない生き方 ̄価格:¥ 980(税込)発売日:2010-01-21


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世間の人達はなぜ自分独りで考える事が出来ないのか

2014-01-12 22:57:29 | 世間・空気
 世間の人達は、なぜ自分独りで考える事が出来ないのでしょうか
 まず、自分に自信が無い、つまり、自分を信じず、周りの反応・世間の評判を信じている事が挙げられます。自分に自信が有れば、周りの反応・世間の評判等を気にせずに、影響もされないものと思います。
 そして、世間の人達の多くが、「基準」や「根拠」、「規範」を持っていない事が挙げられます。自分の考えや物事の捉え方、判断の仕方、生き方、人の理解の仕方等は、それら「基準」・「根拠」・「規範」にするものが何であるかが最も大事であり、また、どの様な「レベル」に置くかが大事であると思います。つまり、自分の「拠り所」が大事な訳です。結局、世間の人達が「基準」にしているものは、周りの反応・世間の評判・「空気」・テレビや新聞等の「マスコミ」の言う事を「基準」・「拠り所」としているだけなのです。
 何が本当に正しくて何が間違っているのかを理解出来ずに、世間の反応や評判、「空気」を基準にして判断しているに過ぎないのです。
 世間の多くの人達は、正しいとも限らない一般常識や「世間にとっての普通」(これは一個人にとっては不自然で無理している状態)を安易に疑う事も無く信じてしまい、また、「真実」にも無関心である様に思います。
 第一、「空気」を読んでばかりいたり、常識や普通を信じてばかりいたり、「既得権益」(金銭のみでなく、出世や社会的成功、世渡り上手等を含む)にしがみつく様な状態が続くと、この社会・世間は悪いまま、おおよそ理想とはかけはなれた現実のままで変わる可能性は有りません
 自分の意志では無く、周りの反応や評判によって自分の行動を決めている世間の人達を、私は憂います


  本ブログ過去の関連記事↓↓
   ・2013/11/10付「『道徳の教科化』により日本人は変わるのか」
   ・2013/09/25付「同性愛・同性婚の間違い(2)・・・ロシア・プーチン大統領の正義と、イスラムの「旧約聖書」を基にした正しさと毅然さ & 規範・根拠を持たない日本人・世間の人」
 

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旧約聖書・出エジプト記を通して現代社会を見る

2013-10-06 08:39:47 | 世間・空気
 現代の社会において、世間一般の人々は、日々、朝早くから満員の通勤電車渋滞する車での通勤をし、日中は会社・組織と言う機械の一部品である小さな歯車の様になって、自分の意志も無い様な形で只々全体主義に従って働き残業後の夜遅くに帰宅して、自分の時間を持つ事も出来ず、疲れの余りにテレビ、酒で時に流されてしまう。
 給料の為、自分が食べていく為、家族を養う為、遊ぶ為の金の欲しさから、単純に、単能的に、スピード・効率重視、毎日まいにち同じパターン、同じ事の繰り返しを、仕事は勿論、生活全般においても、自分で考える事が無く、思考を働かせる事が無く、自分を見つめ直す事も無い、時間や空気に只々流されるだけの毎日を送っています。
 今から約3500年前へブル人(現在のユダヤ人)も同じ様な状態に在りました。エジプトにおいてのへブル人は、食事や住居等の基本的な生活が保障されていましたが、それと引き換えに、現代の社会と似た労働を行なっていました。その当時のへブル人(イスラエル人)も、出エジプト時における飢え等の困難に遭う上で、食べる事が出来たエジプトでの労働と生活の方が良かったと回想し、不平不満をもらします。食べていく為には隷従的扱いを受けても良いと……


 旧約聖書・出エジプト記5章4節
エジプトの王は彼らに言った。『モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。』」
 同書5章8~9節
「そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない彼らはなまけ者だ。だから、「私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください。」と言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。』」
 同書5章13~14節
監督たちは彼らをせきたてて言った。『わらがあったときと同じように、おまえたちの仕事、おまえたちのその日その日の仕事を仕上げよ。』パロの監督たちがこの民の上に立てたイスラエル人の人夫がしらたちは、打ちたたかれ、『なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか。』と言われた。」
 同書5章17~19節
パロは言った。『おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。だから「私たちの主にいけにえをささげに行かせてください。」と言っているのだ。さあ、すぐに行って働け。わらは与えないが、おまえたちは割り当てどおりれんがを納めるのだ。』イスラエル人の人夫がしらたちは、『おまえたちのれんがのその日その日の数を減らしてはならない。』と聞かされたとき、これは、悪いことになったと思った。」


 同書6章5~9節
「今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエル人に言え。
 わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。」


 同書14章10~16節
 「パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。『エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。「私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。」事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。』それでモーセは民に言った。『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。』
 主はモーセに仰せられた。『なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。」


 同書16章2~4節
「そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。』
 主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」


 同書17章2~3節
「それで、民はモーセと争い、『私たちに飲む水を下さい。』と言った。モーセは彼らに、『あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。』と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。『いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。』


 旧約聖書・民数記11章1~6節
「さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。
 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』

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発達障害と言う「レッテル」

2013-08-18 22:25:45 | 世間・空気
 最近、NHK教育テレビ(Eテレ)を初めとしたマスコミ等が、「発達障害」と言う言葉を盛んにテーマに取り上げて世間に流しています。他にも、「うつ病」等の一応精神疾患とされる病名が、盛んに流行らされています。
 しかし、精神疾患にははっきりとした「定義」が有りません。本来は病気でも無い正常・健康な人達にそれらの病名の「レッテル」を貼って「病人」にし、精神科の病院の「お客様」を作っています。そして、本来は病気でも無い健康な人に、多種多量の薬を処方して症状を慢性化・悪化させています。例えば、うつ病による自殺等は、処方された薬の副作用によるところが多いです。
 どんな人にも長所と短所が有り、短所に充たるものが、その人にとっての「発達障害」ではないかと思います。故に、世の中の全ての人が「発達障害」なのです。
 最近気付いた事に、私の場合、奴隷根性が発達していないと言う意味での「発達障害」では無いかと思います。反骨精神を持ち、反抗・抵抗をする事は決して私自身は短所であるとは思っていません。
 今後も「独立自尊」の精神を持ち、自分自身を守る為に、その姿勢を続けていこうと思っています。
 因みに、自分自身が自立・独立出来る事が基本であり、それが出来て初めて余裕の有る部分から本当の「愛」が生まれます。余裕の無い状態からは所詮相手に押し付ける「偽善」であり、それはその人の「欲望」に過ぎません。

 私のブログの、過去の関連ウェブページが次に在ります↓↓
 「人権週間、全ての人が障がい者・・・曖昧な根拠・基準」
 
 

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根本原因と表面の皮肉な結果

2013-07-29 05:02:26 | 世間・空気
 世の中には表面的な結果として、皮肉なことに繋がっているものが多いです。
 意図的にせよ、予期せず希望に反することにせよ、「皮肉な結果」に繋がっているものが多いです。
 現代薬・西洋薬の使用によって慢性病に繋がる皮肉、一般市民の支配の為のツールとして用いようとしたインターネットによって却って支配階級のタブー・ボロが暴露される皮肉等々……。
 興味が有るからと介入・干渉することによって、却ってされる側に圧力・圧迫感を与えることになり、それによって抑圧されて憚りネガティブになる皮肉にも繋がります。
 その様な表に現れた全ての皮肉な結果には、必ず「根本原因」が存在します。
 何かを変えたいと思う場合に、表面に現われている結果に対して対症療法を行う事が多いですが、例え一時的に良くなってもまた直ぐに元の状態に戻ってしまいます。現在の景気対策も一時的な結果をもたらすもので、とりあえずの参議院選挙に向けての結果が必要であった為に、それを乗り越える為の一時的な結果で良かった訳です。
 まず根本原因が何であるかを知り、それを無くすなり変えるなりしなければ、永続的な変化には繋がりません。根治療法を行なわない限りはいつまでも、絶対に変わる事は有りません。
 表面だけ見て議論して騒いでも意味が無く、が有る限りは必ず生えて来ます。
 

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スピード・効率化の追求が、人間の思考を奪っていく

2013-07-29 03:44:06 | 世間・空気
 スピード・効率化の追求が、人間の思考を奪って行きます
 私は基本的に、何をするにしても時間がかかる方である様に思います。俗に言う「グズ」です。
 行動するにしても決断するにしても時間がかかります。
 しかし、それらには適した「時」、「タイミング」があります。それは神が決めるものであります。
 旧約聖書・伝道者の書3章11節「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
 読書にしてもなかなか進まずに、一冊読み終えるのに時間・日にちがかかってしまいます。
 速読術というものが有りますが、読んだ内容や言葉がきちんと残っているものかと疑問に思います。またよく短期間の内に何十冊、何百冊もの本を読んだと自慢される方もいますが、同様に疑問に思います。
 私は読書においては、読みながらその都度立ち止まって考えます。書いて在る言葉や内容を吟味して、真偽を疑ったり、自分の場合と照らし合わせたり、関連する事柄と結び付けて考えたりする等をしながら読み進める為に、どうしても時間がかかってしまいます。読みたい本が多く有りますが、なかなか数がこなせません。
 世の中では仕事等においても、効率化によって生産数を増やす等の成果に繋げています。しかしその上では、それに関わる人間の思考が奪われてしまっています。大量生産においては、ベルトコンベアのライン作業上での単純作業により、毎日同じことの繰り返しにより、それに従事する人々は思索する必要が無くなり、の様になってしまっています。
 プライベートにおいても、献立等を考えず料理を自分で作らずにファストフード・ジャンクフードに頼ったり、ドライブでストレスの鬱憤を晴らすかの様にしてスピードを出して車を運転しています。
 第二次世界大戦後のアメリカGHQの敗戦国日本に対しての占領政策の内に「3S政策」が有り、それが「スポーツ・セックス・スクリーン」でそれに+αとして「スピード」が有りました。米国の日本の一般大衆に対する「愚民化」政策でありました。
 重要なものから目を逸らされて、人々は意味の無い、しょうもない、大したことでは無い、実際は中身が空っぽなものばかりに興味を持ち、それらによって洗脳され、「平和ボケ」させられています。そして日々の効率化による疲れ等も相まって、怒る事、反論する事も出来なくなってしまっています
 車を使用せずに、一歩いっぽゆっくりと散歩しながら思索にふける、その時々に立ち止まってまた悩み考える、その様なプライベートでのスローな生活が、仕事の上での効率化・スピードの波に自分自身が流されずに、自分を失わずに、経済的自立だけではなくそれよりもっと大事な「精神的自立」を保つ事が出来る様に思います。
 
 

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聖書は、御利益を得る事を願って読むものでは無い~昨日の追記

2013-04-06 00:24:28 | 世間・空気
 新約聖書・ガラテヤ人への手紙5章16~18節私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
 同書・5章19~21節肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません
 同書・5章22~23節しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
 同書・5章24節キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」
 同書・5章25~26節もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」
 神の御心のままに、神の御計画のままに、神の私への望み通りに、私自身の意志や希望では無く、神に委ねて導いて頂ける様に、私は祈り願います。人と競わず、人と比べず、自分は自分、人は人、神の私に与えた運命に従って歩む事、ただそれだけにして歩んでいける様に、私は祈り願います。

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聖書は、御利益を得る事を願って読むものでは無い

2013-04-05 03:15:31 | 世間・空気
 私は聖書を読む事において、お願い事をしていると世間に勘違いをされたくありません。つまり、聖書を読む事によって御利益を得ようとしていると、勘違いをされたくありません。私は決して御利益を得たいとは全く思っていませんし、その様な目的で聖書を読む事が間違っている事が解っています。
 私は此の世的な、或いは世間的な何かにおいて、あえて無理にしがみつこうとは全く思っていませんし、欲望への拘り(こだわり)の願い等は全く有りません
 第一、私は現在に至っては、欲望が殆ど無くなっています。それ故に、基本的に拘り(こだわり)が有りません。但し勿論、創造主の神やイエス・キリスト、聖書の御言葉には拘りますし、拘らなければなりません。そして、キリストには常にしがみついていたいです。しかし、此の世的な、どうでもいい様な、真実・真理では無い事には拘りません。仕事の種類と言うのも道徳的に間違っていなければ、所詮は此の世的なものの内の1つであるので拘る必要は無いと、私は捉えています。
 世間の人達は、正月に初詣に行ったりする事を初めとして、自分の欲望が叶えられる様に、御利益を得ようと考えて、神社の虚しい神々や寺の偶像を拝んだりしてお願い事をしています。そして、お願い事が叶えられなかった時には、その度に次から次へと拝む対象としての虚しい神々・偶像を代えています
 クリスチャンとしての洗礼を受けたからと言っても、幸運が訪れる訳では有りません。同様に、聖書を読んだからと言っても、それによって幸運が訪れる訳では有りません。却ってキリスト者であるが故に、迫害を受ける場合が有ります。クリスチャンだから怒らないだろうと、かわいいだろうと、ナメられて見くびられる(軽視される・あなどられる・見さげられる)事による仕打ちも、その内の1つである様に思います。かつて日本では江戸時代にキリスト者は迫害され、また使徒パウロ等の原始キリスト教の頃のキリストの弟子達や信者達も迫害されました。其の当時は特に、クリスチャンで無かった方が此の世に在って幸せな状態で居られましたが、敢えてキリスト者として貫いて殉教した訳です
 洗礼を受けたり、聖書の御言葉を受け入れたりして、イエス・キリストへの信仰を持つ事によって、キリストが自分の心の内に入られて、様々な物事に対する捉え方も異なって来ます私は例え困難な目に遭おうとも、キリストに私の盾となって頂き、神に身を避けさせて頂き、また怒りを示す時にも主に私の力になって頂きます。主に在って誇りたいと思います


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人権週間、全ての人が障がい者・・・曖昧な根拠・基準

2012-12-04 22:31:41 | 世間・空気
 本日から10日までの1週間は人権週間です。昔からの差別や、在日の方等の外国人への差別、障がい者、お年寄り、女性、犯罪歴のある方、生活保護を受けていられる方、虐待を受けている子供や女性、お年寄り、犯罪の被害者(女性の性被害等)等、社会生活上の様々な場面・環境等において差別・偏見が存在し、其れを被る方々は雇用等の社会的活動やプライベート等において、非常に生きにくくなっております。
 市場原理主義、金融至上主義、規制緩和等によって格差が拡大し、一部の者の富が極端に膨らんでしまい、非正規労働者の方々の様な下層の人々の年間所得が200万(~300万)以下という現実となっております。昭和50年(1975年)から発行され始めた国債のその後の膨大な発行によって国の借金は1000兆円近くまで膨らみ、外国から借金をするよりは国内の税金で賄った方が良いので逆進性の消費税を上げる事は仕方が無いですが、同時に累進性の所得税を以前のレベル程まで上げるべきだと思い、国際競争力が弱くなるからと下げている法人税も上げるべきだと思います。所得税の最高税率は昭和54年(1979年)までは75%でしたが、其の後少しづつ下げられて、平成12年(2000年)には30%台にまで下げられてしまい、現在は40%となっています。私は振り返って、昭和50年代まで(~1984年)の日本は良い意味で「社会民主主義的」「バランス」のとれた状態であったと思うのですが、昭和60年(1985年)のプラザ合意による円高ドル安政策によるバブル形成が起こされてから、以前の「古き良き昭和」の状態が壊されてしまったと思います。人権においての偏見を無くす事と同様、経済・金融・財政・国民所得のバイアスを無くしてバランスを高める必要が有る様に思います。因みに、介護・福祉関係の給与が少ない事が問題となっていますが、高額所得者の給与を減らしてその分をその様な分野へお金を回せばバランスは取れるはずであると思います。難しい事では無く、至って簡単な理論です。
 差別というものが現実に存在しますが、そもそも何を「根拠」に差別をしているのかが解りません。と言うよりも、根拠が初めから無い訳です。差別をしている人達は、根拠も無いのに差別をしている訳です。ただ、世間の評判や昔からのしきたり・習慣、マスコミの垂れ流す情報を基準にしているだけで、「真実の根拠」が解っていません。考え方、判断の仕方、物事の捉え方、生き方等において、その真実の根拠が必要であります。世間で常識とされている事も、少し見方・捉え方を変えるだけでその誤りに気付いたり、裏に隠されて見えない真実が見えて来ます。差別は一種の洗脳であり、盲目であるだけであります。又、同時に正しい知識も必要となります。その正しい知識・情報を得る為にも、「真実の根拠」が必要になる訳です。
 因みに差別にも元々正当な理由・根拠が存在しません。「エタ」と呼ばれて差別されていた人達は、古代ユダヤ人である事が多いです。シルクロードやインド洋を通って来た渡来人の秦氏は古代ユダヤ人ですが、ローマからは異端とされていたネストリウス派のキリスト教徒(中国で言う景教)であった事が多く、イエス様をキリスト(救世主)と認めていた人達です。そして、旧約聖書における神様への罪の贖いとしてのいけにえである牛を犠牲にして神様に捧げていました。犠牲と言う漢字は、両方とも牛偏です。奈良時代に仏教が国教となった事によって、偶像崇拝を律法によって禁じられている古代ユダヤ人の人達は、中央政権に妥協して受け入れた人達は其の後出世して此の世における成功を手に入れましたが、律法の定めに忠実であった人達は従わずに山奥等に逃げて戸籍を持たないサンカ等になり、川の近くのとなって牛のや皮革加工等を生業にしました。又、仏教では殺生をすることが最も重い罪とされる事も相まって、その様な偏見・差別へと繋がった訳です。よって、元々の差別の発生原因を見ても解る様に、その差別そのものの存在自体が間違いである事が解ります。日本人は焼肉が好きですが、牛を日々食しておきながら牛のに対して偏見を持ったり差別する事等は矛盾も甚だしい様に思います。仏教形式で葬式を行なったりやお墓を建てる方々は、その様な矛盾をお持ちでは無いでしょうか。因みに、古代ユダヤ人も全てが景教徒であったとも限らず、「失われた十支族」の発生原因である紀元前721年の北のイスラエル王国崩壊の時には、ダビデ王・ソロモン王の後以来続けていた偶像崇拝を王の方針の下、行なっていました。その事が原因で主(神様)に国を滅ぼされて世界に散らされたので、日本の八幡神社や稲荷神社にその面影が残っている様です。八幡・稲荷共に秦氏の建立です。
 障がい者とは言いますが、人はみんな障がい者です。此の世に完璧な人は一人もいません。みんな一長一短が有ります。長所もあれば短所も有ります。長所であれ短所であれその度合いが過ぎると発達障害等とされているだけで、誰が作ったか解らない基準を基に線を引いて健常者と障がい者の分け隔てを行なっているだけです。つまり、そこでも「基準・根拠」が曖昧でいいかげんである事が解ります。口が悪くて悪口ばかり言う人は口の障がい者、高慢・虚栄・妬み・非難・不平・貪欲等を持つ人は心の障がい者である等、みんな障がい者です。ただ、度合いが強いか否かであるだけの事でしかありません。タバコが合法で麻薬が違法と言うのも同じ様な事で、共に健康にとって有害である事には違いは有りません。

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