朝日新聞の反日的な報道に対する批判が高まっています。そこで、その
「表面」に現われている問題の「根本」を辿ってみたいと思います。以下は「ウィキペディア」を参考文献とする、及びその引用による構成とします。
戦前に
東京朝日新聞社主筆・朝日新聞社代表取締役副社長に就任して
「緒方筆政」を行なっていた
緒方竹虎氏。緒方氏はその後の退社した1944年に小磯内閣の
国務大臣兼情報局総裁として入閣。その後、「また緒方は、
蒋介石(※フリーメーソン)の重慶国民政府を相手とする和平工作、繆斌工作を小磯國昭総理大臣とともに推進したが、重光葵外務大臣、杉山元陸軍大臣、米内光政海軍大臣、さらに昭和天皇の反対に遭い失敗、内閣総辞職となった。その後も終戦を挟んで1945年5月鈴木貫太郎内閣顧問、同年8月東久邇宮内閣国務大臣兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任した。敗戦処理の東久邇宮内閣は、緒方が内閣書記官長と
内閣の大番頭を務め、
文部大臣に元朝日新聞社論説委員前田多門、総理大臣秘書官に朝日新聞社論説委員太田照彦、緒方の秘書官に朝日新聞記者中村正吾、内閣参与に元朝日新聞記者田村真作と、「朝日内閣」の観を呈した。同年10月に内閣総辞職後、緒方は12月にA級戦犯容疑者指名、1946年8月に公職追放、1947年9月戦犯容疑解除、1951年8月に追放解除となっている。
A級戦犯容疑者指名がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙社長が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった。」(「ウィキペディア・緒方竹虎」より)。
緒方氏は戦後に
A級戦犯に指名されましたが、
CIAに協力してその工作員・スパイとして活動することを条件に
不起訴となり、
裁判を免れて釈放。
その後、「緒方は政界復帰前の1952年4月、吉田茂、村井順とともに、
アメリカのCIA、イギリスのMI5、MI6などを参考にして、
内閣総理大臣官房に『調査室』という小さな
情報機関を設立した。これが現在の
内閣情報調査室の源流である。緒方は、これとは別に強力な情報機関、いわゆる
日本版CIAを新設する構想を持っており、吉田内閣入閣でこの構想は一挙に表舞台に登場したが、国会や外務省、世論の激しい批判を浴び、第5次吉田内閣の下で内調の拡充・強化を図るにとどまった。しかし、このときの緒方の動きを、アメリカCIAは高く評価した。」(「ウィキペディア・緒方竹虎」より)。
また続けて、「日本版CIA構想で緒方を高く評価した
アメリカCIAは1955年、鳩山総理大臣がソ連との国交回復に意欲的なうえ、ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見て、日本の保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継総理大臣候補に緒方を期待。
緒方に『POCAPON(ポカポン)』の暗号名を付け、緒方の地方遊説に
CIA工作員が同行するなど、
政治工作を本格化させた。同年10~12月にはほぼ毎週接触する
『オペレーション・ポカポン』(緒方作戦)を実行し、『反ソ・反鳩山』の旗頭として総理大臣の座に押し上げようとした。
緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報は、
アレン・ダレスCIA長官に直接報告された。緒方も1955年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について『心配しないでほしい』と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に『総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う』と語っていた。だが、自由民主党は4人の総裁代行委員制で発足し、緒方は総裁公選を前に急死。CIAは『日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ』と報告した。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、鳩山が初代自由民主党総裁に就任。
CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣や岸信介に切り替えていく。」(「ウィキペディア・緒方竹虎」より)。
尚、賀屋興宣元大臣と岸信介元首相共に同じく
A級戦犯(賀屋氏は極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役(「ウィキペディア・賀屋興宣」より)、岸氏は3年半拘留されたが不起訴のまま無罪放免(「ウィキペディア・岸信介」より)。また
賀屋氏は後述の「昭和研究会」にも常務委員として参加し、「アメリカ共和党や中央情報局(
CIA)そして中華民国の
蒋介石政権に広い人脈を持っていたり、日本遺族会初代会長となる等、国際反共主義勢力、自民党、右翼のトライアングルを結ぶフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。2007年(平成19年)に開示されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵のある文書には、CIAが作成した日本の反共化を推進するのための
現地協力者(行動員)のリストに賀屋の名が連ねられている。」(「ウィキペディア・賀屋興宣」より)。
また戦前、
共産主義者であった近衛文麿元首相のブレーンでもあった緒方氏。「
近衛文麿のブレーン組織である昭和研究会には、緒方の承認の下、前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、
尾崎秀実ら中堅・若手論説委員や記者が参加しており、緒方自身も
第2次近衛内閣期の新体制準備委員として新体制運動に積極的に関与した。しかしその中から、緒方が可愛がっていた
尾崎秀実が1941年10月にゾルゲ事件で逮捕されたことは、緒方派に大きな打撃を与えた。」(「ウィキペディア・緒方竹虎」より)。
「昭和研究会」は近衛文麿の私的ブレーントラスト(政策研究団体)で、「
東亜協同体論や
新体制運動促進などを会の主張として掲げ、後の近衛による
『東亜新秩序』・『大政翼賛会』に大きな影響を与えることとなるが、同時に平沼騏一郎など国粋主義を掲げる政治家・官僚・右翼から
『アカ』などの批判・攻撃となって現れるようになる。また、
新体制運動などに対しても会員間で意見の相違(大政翼賛会を『政事結社』とするか『公事結社』とするか)が現れるようになった。このため、大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。」。また、「
昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した
『昭和同人会』や
『昭和塾』は研究会解散後も活動を継続したが、
1941年のゾルゲ事件で昭和塾の幹部である尾崎秀実が逮捕されたことによって解散されることになった。なお、
『昭和同人会』は戦後に後藤らによって再建されることとなる。」、「大政翼賛会議会局をつくり、そこに解党した各党の議員らを全部押し込めるかたちになったので、議員らの不満がつのり、翼賛会の予算審議で議員らの不満が爆発した。たとえば、
小泉純也は
後藤隆之介が皇軍を批判し、
共産軍に同調しているとして非難した。」。(「ウィキペディア・昭和研究会」より)。
尚、
尾崎秀実氏は評論家・ジャーナリスト・共産主義者。
朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務め、「1932年2月末に大阪本社から帰国命令を受けて日本に戻り、
外報部に勤務。同年5月末に「南龍一」こと宮城与徳が本社に訪ねてきて、彼を介して奈良において6月初旬にゾルゲと再会、彼から
諜報活動に従事するよう要請されて、全面的な支援を約束、
ゾルゲ諜報団の一員として本格的に活動するようになる。
暗号名は「オットー」である。また、鬼頭銀一と神戸や大阪でたびたび会っていた。1934年10月、東京朝日新聞社に新設された東亜問題調査会勤務となり東京朝日新聞に転じる。1936年、カリフォルニアのヨセミテで開催された太平洋問題調査会に中国問題の専門家として参加、西園寺公一と出会い親友となる。このとき西園寺公一の通訳であった牛場友彦とも面識を得る。この会議のパーティーで、オランダ領東インド代表のオランダ人から、アムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者のゾルゲを紹介されて、初めて本名を知ったという。翌1937年4月から
近衛文麿側近の後藤隆之助が主宰する政策研究団体である昭和研究会に佐々弘雄の紹介で参加。7月、東京朝日を退社し、総理大臣秘書官の牛場友彦の斡旋で
第1次近衛内閣の内閣嘱託となる。同時に、
近衛主催の政治勉強会「朝食会」に参加、この関係は、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。1939年6月1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。」(「ウィキペディア・尾崎秀実」より)。
また、「第1次近衛内閣が成立すると、
近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保った。近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している。
尾崎が参加した昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、
昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した『昭和塾』のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの『革新官僚』によって構成され、
理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた。」、「
尾崎の真の姿は『完全な共産主義者』であり、その活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称『もっとも忠実にして実践的な共産主義者』として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。」(「ウィキペディア・尾崎秀実」より)。
そして
近衛文麿元首相のゾルゲ事件との関わりについて、「1928年6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締と国際共産主義運動の調査研究に従事した後、衆議院議員となり
中野正剛と共に
東條内閣倒閣運動に加わった
三田村武夫によれば、1941年10月15日に検挙された
尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は尾崎の検挙に反対であり、特に新聞記者として駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得ることに成功していた
リヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、
第3次近衛内閣の総辞職後に就任した東条英機首相は尾崎の取り調べによって彼と近衛文麿との密接な関係が浮かび出てきたことを知り、この事件によって一挙に近衛を抹殺することを考え、逆に徹底的な調査を命じた。しかしその時点は日米開戦直後で、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衛及びその周辺の人物をこの事件によって葬り去ることがいかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮した検察当局は、その捜査の範囲を国防保安法の線のみに限定せざるを得ず、彼等の謀略活動をできる限り回避すべく苦心したという。1942年11月18日、近衛は中村光三予審判事から僅かな形式的訊問を受け、『記憶しません』を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽したが、
元アメリカ共産党員の宮城与徳は検事訊問(1942年3月17日)に対して、『近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、支那問題解決の為寧ろ
ソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました』と証言した。国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した
鳩山一郎(フリーメーソン)は、これより前に日記(昭和十五年十一月一日の条)に、『
近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す』と書いていた。」(「ウィキペディア・近衛文麿」より)。
そして、「1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦の停戦が発効し(終結は9月2日)、
鈴木貫太郎首相は辞職して
東久邇稔彦が後任の内閣総理大臣となった。近衞は東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、
緒方竹虎とともに組閣作業にあたった。」(「ウィキペディア・近衛文麿」より)。
「修猷館時代からの親友だった
中野正剛が1943年10月、
東條英機総理大臣に弾圧され自殺したことだった。…(中略)…しかし緒方は、郷里の関係から頭山満をはじめとする玄洋社の人々と交友が深く、
右翼の内部事情まで考慮に入れたデリケートな
右翼対策を行うことが出来た。右翼対策は、新聞社にとっては
『言論の自由』の発揚に伴う避けることのできない課題であり、右翼との折衝は、論説委員たちの『言論の自由』を保障する地位にあった緒方が、
裏側で行わなければならない日常的な業務であった。さらに満州事変期以降は、これに軍部との調整が加わった。しかし軍に対して『顔のきく』存在であったがゆえに、
朝日新聞社は緒方を社の代表者とすることに意味があったのに、肝心の緒方が、中野の事件をきっかけとして東條内閣と対立的な関係に陥ってしまったため、朝日は東條との関係を修復するため緒方以外の人物をこれに代える必要に迫られた。」(「ウィキペディア・緒方竹虎」より)。
尚、
大正・昭和期のジャーナリスト、政治家、東方会総裁、衆議院議員であった中野正剛氏について、「東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社し、次いで
朝日新聞に入社する。朝日新聞には、「戎蛮馬」のペンネームで「朝野の政治家」「明治民権史論」などの政治評論を連載し、政治ジャーナリストとして高い評価を得た。」、「議会での
反東條の運動に限界を感じた
中野は近衛文麿や岡田啓介たち「重臣グループ」と連携をとり、松前重義や三田村武夫らと共に
東條内閣の打倒に動きはじめた(松前はこのため報復の懲罰召集を受けてしまう)。こうして中野を中心にして、重臣会議の場に東條を呼び出し、戦局不利を理由に東條を退陣させて宇垣一成を後任首相に立てようとする計画が進行し宇垣の了解も取り付け、東條を重臣会議に呼び出すところまで計画が進行したが、この重臣会議は一部の重臣が腰砕けになってしまい失敗に終わる。
ただし、こうした中野の反東條の動きは、早期和平のための内閣を目指したものではなく、東條に代わる内閣によって
戦時体制の立て直しを目指したものであったことに注意を払う必要がある。(「ウィキペディア・中野正剛」より)。また、「…(前略)…当時の東條内閣打倒の運動を行う。
若槻礼次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。」(「ウィキペディア・岡田啓介」より)。
引用記事↓↓
・「ウィキペディア・緒方竹虎」
・「ウィキペディア・近衛文麿」
・「ウィキペディア・昭和研究会」
・「ウィキペディア・尾崎秀実」
・「ウィキペディア・A級戦犯」
・「ウィキペディア・岡田啓介」
・「ウィキペディア・賀屋興宣」
本ブログ過去の関連記事↓↓
・2014/02/23付:「今まで偏向報道を続けてきたNHKは正しい経営委員によって変わるかもしれない」
参考動画↓↓
YouTube: 近衛文麿は共産主義者だった
YouTube: 【8月16日配信】じっくり学ぼう!日本の内閣:近衛内閣「歴史に学ぶ日本の滅ぼし方講座」 第1回 【チャンネルくらら】
YouTube: ユダヤとコミンテルン_日本が戦争に至った背景