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1941年12月にはソ連に勝ってる算段だった

2019-08-24 15:52:47 | 参考資料-昭和(前期)

石破茂がGSOMIAの問題を受けて、問題の根底には日本が敗戦後戦争責任に向き合ってこなかったことがあると書いたというのでネット上では石破批判にふきあがってるクラスタが見られる。

我が国が敗戦後、戦争責任と正面から向き合ってこなかったことが多くの問題の根底にあり、それが今日様々な形で表面化しているように思われます。これは国体の護持と密接不可分であったため、諸般の事情をすべて呑み込んだ形で戦後日本は歩んできたのですし、多くの成功も収めましたが、ニュルンベルグ裁判とは別に戦争責任を自らの手で明らかにしたドイツとの違いは認識しなくてはならないと考えます(政府自体がヒトラーの自決によって不存在となったドイツとは当然異なることも考慮した上で、です)。

http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-8bba2c.html


この人がどこまで考えて言ってるのかは定かでないし、おそらくナチ・リベラル勢力の旗頭になる算段なのかなとも思うので、その場合屋上屋を重ねて1945年9月に終わった一連の戦争に向き合わない日本が出ていくのかなと考えてみたりもする。

それはともかく、このブログでは、これらすべての敗戦後の嘘で固められた物語にとって重要なのはソ連/ロシアとの取り組みをすっ飛ばしていることだろうと何度も書いてきた。

特に、ドイツと組んで東西から挟み撃ちしようとしていた意図をどうしても知られたくないらしい。

東西挟み撃ち体制が見たくなかったらしい

 

ただ、最近ちょっとだけ動きはあるなと思ったりもする。

日経ビジネスのこの記事などはさりげなく重要なことに触ってる。

米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700040/

 

米中ソというより、当時中国は独立できていないので、実際には米ソ+東南アジアですね。つまり、関東軍の参謀を中心に、ドイツと組んだことをとてつもないビッグチャンスと読んだ人々は、米英ソを同時に叩くつもりでいた、ここが重要。

結果的にはこの記事も、いやぁ明治憲法は統治機構が分散的なので、意思決定がコントロールできてなくてですね、とかいう半分本当だが、半分本当でもないことでお茶を濁している。しかし、

吉田:明治憲法です。これが定める統治構造は分散的で、総力戦を戦うのに必要な統一的な意思決定をするのに不向きでした。さまざまな決定が折衷案もしくは両論併記になってしまうのです。

 例えば、陸軍は対ソ戦をにらみ北進を主張する。海軍は石油をはじめとする東南アジアの資源を求めて南進を主張する。すると、結論は「南北併進」になってしまうのです。1941年7月に開かれた御前会議はこのような決定をくだしました

 

という具合に、1941年7月に御前会議で南北併進が採択されていたことの指摘は重要ですね。

この御前会議。

情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱

1941年7月というのは、日本ではまだ対米戦争が始まってないけど、欧州ではナチスドイツが6月22日にソ連への侵略を開始していた

つまり、三国同盟を組んだ一方の当事者である日本は、ナチスと同じ動きで「北進論」という名の対ソ戦争準備を公式に採択したということです。

準備と書くのは実際には生易しくて、陸軍史上最大の「動員」をした。それがいわゆる関特演。

関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

つまり、この動員は天皇込みのオフィシャルな方針だったということ。

で、そうだからこそ、

東西挟み撃ち体制が見たくなかったらしい

で書いたように、極東軍事裁判では、その他作戦、動員のみならず実際に起こったことも鑑み、日本による対ソの侵略行動も十分に議論され、そして、

日本が対ソ連で結んだ中立条約は誠実なものとは見えないと結論されている。

It has certainly been established that the Neutrality Pact was entered into without candour and as a device to advance Japan's aggressive intentions against the U.S.S.R.

 

1941年4月に日ソ中立条約を締結したと日ソ間の重要事項、あるいは金科玉条のように言う人たちは戦後70年間一貫して日本にのみ存在しているわけですが、外では大して問題にされた気配がないのは、結局のところ、ドイツも中立条約を違反してソ連に侵攻しているわけだから、日本とドイツは同じことをしていたとしか見えないからでしょう。

 

■ 1941年12月にはソ連に勝ってる算段だった

まとめるとこんな感じ。

米ソどころか、米・ソ・南(東南アジアからインド)に全部勝ち、もって中国利権を全部保持するという構想があり、

  • この構想を基に関特演という陸軍始まって以来の大動員を実行した
  • この大動員は、1941年7月2日の御前会議で対米戦(真珠湾攻撃)と共に承認されている

 

この2つを表に出したくないために、できるだけ触らない、触る場合には、ソ連が中立条約を破ったのだという話で終わりにすること、といった方針が戦後一貫して取られていたということなんでしょう。

まぁ、ソ連から見た時、というより多分連合軍各国から見たら、普通に、まったく疑問の余地なく、昭和天皇はヒトラーと同等に責任のある人間に決まってる、だったでしょう。

そこで、昭和天皇は、ソ連が怖いから、米に駐留してもらうのだ、などと言い出す。つまり、英米に日本を差し出して自分の責任をパスしたようなもの。

さらに、この責任のパスと、田中、辻、服部という、俗な言い方をすれば戦犯中の戦犯としかいいようがない人たちがなぜ刑を逃れ、なんの責任も取らないばかりか辻など国会議員となり、服部はGHQに雇われていたのか、の理由も関係があると思う。というか、それしか考えられない。

これらの人たちの責任を問うと(特に田中)、上記のようなナチスドイツと組んで構想した壮絶までの対ソ戦の構想が明らかになってしまい、そうすると1945年9月2日に正式に降伏した戦争の全貌から見た時、到底アメリカだけにごめんなさいすると終わりになるようなものではなかった、という話になる。

 

■ 1941年12月にはソ連に勝ってる算段だった

でね、日本とドイツが組んで勝つ構想をしていたんだなというのは、思えば、ヒトラーの、「クリスマスまでにはソ連に勝つ」と言ったという有名な発言を思い出してみると、ああなるほどとなる。

ドイツは、夏場をはさんで数カ月もすればソ連を落とせるはずだとかなりマジで思ってて、そしてそのドイツの日本代表部みたいになっちゃってた大島大使などは、真面目にこの話を信じていた。

つまり、6月にソ連侵攻を開始したドイツ軍がクリスマスまでにソ連に勝つ、そこで日本はドイツのおこぼれでソ連の極東部をいただき、そしてシンガポール(英)と真珠湾(米)を叩く、と。

シンガポールと真珠湾は作戦としては成功しているし、この時点ではドイツの敗北の予兆はごく一部にしか見えていない。

なので、さあここからはドイツと日本による新秩序なのだ、と京都学派などは大喜びし、世界史的立場だとか新秩序だとかの言をふりまき、さらに、文学者たちは「近代の超克」とか言っちゃう、と。

 

でね、敗戦後の日本は、この話を真珠湾で戦果をあげた、だから万歳だったという文脈で読ませているわけだけど、そりゃ無理があるでしょう。それじゃ馬鹿でしょう。

事実はそうではなくて、もっとずっと妄想が本格的だったというべきでしょう。

 

しかし、実際には、ソ連は負けていなかったどころかそこから1年の後にはスターリングラードの攻防戦でドイツの敗北が見え、さらに半年後には決定的になる。日本もまた、ミッドウェーで敗戦する。

つまり、「妄想的世界新秩序戦争」は実質ここで終わりだったと言っていいでしょう。

 

■ 大動員としての関特演

ということで、「妄想的世界新秩序戦争」にとって、ソ連をドイツと共に食い散らかすための動員である関特演は非常に重要だった。

関特演と1945年ソ連満洲侵攻作戦

重要だったからこそ、これまで無視しているんだろうと思う。

 

このあたり、田中新一参謀本部第一部長の「業務日誌」や関東軍の資材を担当していた加登川幸太郎氏が戦後に書かれた本などを重ね合わせて、考察、分析されている最中といっていいんじゃないかと思う。

陸軍の反省〈上〉
加登川 幸太郎
文京出版


基本的に日本の軍も政府も敗戦時に資料を焼きまくってるというのも研究が進まない1つの理由なのかもしれない。じゃあ、ドイツ側にある電報、通信の類とかソ連が傍受していたものとかを使うってのもいいんじゃない?など思うけど、そういう研究は多分ちょびっとしかない。


インターネット上にpdfでお出しになっている、新潟大学の芳井研一先生の論文はすばらしいと思いました。

関特演の実像

芳井研一

http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/18122/1/6_37-56.pdf

 

そして、調べるとだいたいこうですよというストレートな話は日本の「メインストリーム」には出て行かないというところが、なんてか、再々言ってますがこれは日本の病でしょう。

 

田中の業務日誌からわかるのは、関東軍の参謀というのは、ネトウヨもびっくりの妄想屋だったということ。

「九十月頃に武力行使を可とす」。さらに「本格的太平洋戦争」を準備し、「インド、ビルマ、泰、馬来、仏印、蘭印、比島、沿海州、北樺太、カムチャツカ等を手裡に入るゝを要す」としている(10)。

 

......とくに「今年中に対「ソ」戦を開始するとせは5-10月を作戦可能期間とし、「ソ」聯処理に仮りに三乃至四ヶ月を要すとせは遅くも七月頃に対「ソ」作戦開始となるへし」と予想した。

日本はどう対応すべきか。29日付「独「ソ」開戦に処する帝国の態度」によると、ソ連は対日宥和政策をとるだろうから、それを利用してソ連の蒋介石への援助打ち切りを求め、次に「機を見て対「ソ」参戦することとすへし」とした。ただ日本は「完全なる所謂大東亜共栄圏の確立邁進すへき」で、そのためには南進に平行して日中戦争の長期戦態勢を整えることが必要であると考えた(9)。この時点で本格的な対ソ戦準備のための検討に入ったといえる。

 

■ オマケ

アップした後ふと、今年の5月9日のビクトリーデーのプーチンの演説を思い出した。

ナチは様々な罪をおかしてるけど、その中でも自己を「優れた種族」と規定して他人を破壊していこうとした、この考え方が最大の罪だという言い方をし、その上で、ロシアを、この1000年の歴史を持つ人々を数週間で打倒できると考えた、と言及していた。

http://en.kremlin.ru/events/president/news/60490

モスクワのビクトリーデーの性質からいってこれはナチス支配下のドイツに向けられたものではあるけど、実のところ日本もまったく同じだったのだと思い起こすべきだろうと私は思う。

数週間というのは日本では1カ月以内を指すことが多いけど、欧州語圏では基本的にこれは数カ月のことと考えた方がいい。つまり、週の単位で考えられるような期間(月の単位で考えられるような期間が1,2年から数年)。

そして実際その3、4ヵ月でナチスはソ連を打倒するのだというお話に乗ってたのが日本の一部の軍人でございましたということから考えても、日本人も考えるべき話なんです。

 

それは日本の問題として、プーチンは、すぐその後で、ソビエト市民が様々なところで兵に志願するだけでなく、様々な工場で働いた、この労働による「第二戦線」を称賛している。

実際私もソビエト勝利の鍵は生産力だと思うな。膨大な生産力を駆使できたからこそ戦いを継続できた。関東軍もドイツ軍もまったくわかってなかった(見たくなかった?)のは、この生産力だと思う。

 

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1 コメント

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Unknown (ローレライ)
2019-08-25 12:29:45
援蒋ルート潰しで南北並行戦争を進めた日本軍!中国侵略が世界大戦の始めである。
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