第40回:国家主義者 田中智學の空想的一面
http://www.youtube.com/watch?v=dojvz5hmsGU&list=PL8D13838ADC0F546A
出演:西尾幹二
平成21年9月19日 放送
■ 今回のご本
日本国体新講座
編集:明治会 創唱者:田中智學
発行者:師子王文庫
発行年:昭和10年(1935年)
戦前には様々な国体論があったが、この一冊はその中で最も「それっぽい」ものと言えるだろう。しかし、それっぽいというのはそれが戦前の国体論の中心とか平均値だったということではなく、この本にあるようなストーリーラインが後年、あたかも戦前期はすべてこうだったと思わされているということ。
ではどんなものなのかといえば、西尾先生がご苦労されつつ読み進めてくださっているので聞いてみればすぐにわかります。読み進められるうちに、唐突に、
「はんた~い!」
私こんなの絶対反対!と西尾先生が叫ばれているが、私も同感。
「浮かれちゃダメです、酔っ払っちゃダメです」、とまさにそんな感じ。
一言でいって、一体なぜこんなにも「おせっかい」になれるのか不思議でならない。日本という国が生まれたのは道義の故であって・・・という一言に、私はむしろ恐怖を感じた。
■ 論としてはわからなくはないが・・・
ただ、まったく個人的な個人の趣味の範疇としては、私はこの手の概念から概念に抽象から抽象へと思考を繋いだものというのは決して嫌いではない。
田中智學氏は、日蓮宗という教えと国体第一主義とでもいうべき考え(というより前提か)を合体するとどうなるのかを極限まで推し進めた思考の人なのだろうと思う。だからその限りにおいては私はこういう考えはあっていいし、あり得るものだとも思う。
道義的に天下を一つの家のようにすることこそ理想だ、日本の建国の本義は道義的だ、であれば論理的必然として道義的世界統一を達成するのは日本の使命だ、といった具合の考えは、あくまでも自己の道徳基準として守り得る限りにおいては特に悪いものではない可能性もなくはない。八紘一宇と西欧社会が吹聴する普遍主義は似ているかもしれない。
しかし問題は、それを文字通りやるとどうなるのかという点にあるだろう。西欧社会の普遍主義、一極主義は畢竟人々を力で支配することにしかなっていない顛末を見ても分かる通り、「八紘一宇」の短期的達成は単なる力の信頼、力の行使への傾斜にしかならないようなのだ。
■ 使命感が必要だった
また、こういう考えを持つ人たちがとにかく存在していたこについて、もう一つの側面からも私は理解できる。このぐらいの脅迫的な使命感がなければ、人々は(特に大陸にいた人々は)戦闘に向かえない、いやそれよりも、他者を戦いに向かわせることはできない、ということなんじゃないかと思うのだ。
例えば、九州を攻められたら、九十九里浜への敵の上陸が目前に迫っているのだとしたら、人は何を置いても防衛に向かうだろう。必要なのは有能な指揮官であって、そこに思想はいらない。しかし、日本が大陸において置かれた状況はこれとは大きく違う。この「無理」を肯定または支持するためには思想が必要だったということなのではなかろうか。
ありていにいえば、大陸側に対してpre-emptive(先制的、予防的)な関わり方をした結果として、予想外に膨らんだ「守るべきところ」を前に、日本人(あるいはその指導者層)はそれを納得するための装置が必要だったということなんじゃないかと思う。
GHQ焚書図書開封4 「国体」論と現代 | |
西尾 幹二 | |
徳間書店 |