マーヤーは心という姿をとる。
個我・神・物質世界は心の産物である。
この物質世界を否定的にとらえるか、肯定的にとらえるか。
宗教では一般的に、否定的にとらえる傾向にある。
物質世界が相対的な価値しか持たぬ幻想であれば、早々に解脱しブラフマンに融合する事を目指す。
肯定的にとらえるとどうなるか。
肯定的にとらえたからといって、何か悪いことが起きるわけでもない。
社会人としては、肯定的にとらえ人生を楽しむ態度を求められる事も多いように思う。
否定的にとられたからといって、それで人生を楽しまないわけではないのだが、社会的な価値観からはズレが生じるだろう。
そこで、否定でもなく、かといって全面的な肯定でもない、中道の道をさまよう事になる。
仏教で言えば、般若心経のような世界観とでも言ったらわかりやすいかもしれない。
真言密教は、般若心経よりもさらに物質世界を肯定的にとらえているらしい。
たしかにマーヤーの世界には相対的な価値しかないかもしれないが、しかし、この世界で我々は進化し成長し生きているのである。
この世界がなければ、私という意識すら存在しなかっただろう。
たとえばブッダでさえ「この世界は楽しい」と言っている(ブッダ最後の旅)。
無神論者は、意味のないこの世界に投げ出されたと感じるが、神を信じるものはこの世界のあらゆる出来事全てに何らかの意味があると感じている。
それゆえ神を信じるものには救いがある、といえるかもしれない。
個我・神・物質世界は心の産物である。
この物質世界を否定的にとらえるか、肯定的にとらえるか。
宗教では一般的に、否定的にとらえる傾向にある。
物質世界が相対的な価値しか持たぬ幻想であれば、早々に解脱しブラフマンに融合する事を目指す。
肯定的にとらえるとどうなるか。
肯定的にとらえたからといって、何か悪いことが起きるわけでもない。
社会人としては、肯定的にとらえ人生を楽しむ態度を求められる事も多いように思う。
否定的にとられたからといって、それで人生を楽しまないわけではないのだが、社会的な価値観からはズレが生じるだろう。
そこで、否定でもなく、かといって全面的な肯定でもない、中道の道をさまよう事になる。
仏教で言えば、般若心経のような世界観とでも言ったらわかりやすいかもしれない。
真言密教は、般若心経よりもさらに物質世界を肯定的にとらえているらしい。
たしかにマーヤーの世界には相対的な価値しかないかもしれないが、しかし、この世界で我々は進化し成長し生きているのである。
この世界がなければ、私という意識すら存在しなかっただろう。
たとえばブッダでさえ「この世界は楽しい」と言っている(ブッダ最後の旅)。
無神論者は、意味のないこの世界に投げ出されたと感じるが、神を信じるものはこの世界のあらゆる出来事全てに何らかの意味があると感じている。
それゆえ神を信じるものには救いがある、といえるかもしれない。
いつもながらのたまやんの明解な御意見。このブログを読まれている方にとっても、参考になるものと思います。
今後とも、よろしくおねがいしますネ。
なので、私からはこれ以上の説明はできないです。
ラーマ、クリシュナ、サイババは、人間の姿形をとっているので、大部分の人はイエス、ブッダ、現在ならラーマクリュナパラマハンサ、ラマナマハリシ、ダライラマ、とかマザーテレサと一緒にしてしまい比べてしまうものかもしれませんね。
私が区別できているのは、自分で過去生からと、今まで熟考の賜物として蓄積して得た英知に他なりません。
ヒントとして、人は、自分という意識が執着してるものすべて、付着しているものを抱えたまま、真実を認識することはできません。
ババは「精神的に熱心な者?"だけ?"が得られる知識なのだ」と、再三繰り返しておりますので、そこのところ、よーーく自分に照らし合わせれば、明白なのではないでしょうか。。。
「自信」とかでしょうか?
それとも、「アートマンであるという確信」でしょうか。
「自分はあるものである」あるいは「自分はある状態にある」と明確に感じる事が「自分自身に対する確信」ですよね。
それから、サイババは生きながら解脱したのでしょうか?
ラーマクリシュナは生きながら解脱したのでしょうか?
正直なところ、私にはよくわからないもので・・・
つまり、生きながらの解脱・・・仏教で言う即身成仏。
まあ、私はそれをめざしてさえいないわけです。
いやいや、多少はめざしているかも・・
私はマーヤーは嘘つきなんだと思ってますから(笑)、自分自身及び神に集中することで、まやかしな世の中を払拭して、真実を見れるものと確信しています。
その確信が生きながらの解脱へと結びついて、イエスやブッダのような不滅で永遠の喜びをもたらしてくれているのではないでしょうか。。。