宇喜多秀家の墓。東京都八丈町大賀郷。
2024年11月30日(土)。
13時15分頃に八丈島空港に着き、徒歩で八丈植物公園・ビジターセンターへ行き、見学後、宿泊先の大賀郷へ向かい、「スーパーあさぬま」で島寿司や土産品などを物色して、宿泊施設ケンチャ・ルマへ向かった。15時30分頃に受付に着いたが誰もいなかったので10分ほど待ったが、近くにある「宇喜多秀家の墓」へ行くことにした。5分ほど歩くと教会のある坂の上に墓地の入口があり、奥に「宇喜多秀家の墓」が見えた。その手前横には浮田家の墓がある。
宇喜多秀家(1572年~1655年)は備前国の武将宇喜多直家の子で、豊臣秀吉の寵遇を受け、朝鮮出兵等に活躍した。秀家の秀は秀吉の一字を与えられたものである。備前岡山城主として備中・備前・美作に約50万石を領し、備前宰相として秀吉の五大老に列せられた。また、秀吉の養女となった前田利家の娘・豪姫を正室として迎えたことから、前田家とも姻戚を結んだ。
関ヶ原の戦いで敗れたため、慶長11(1606)年に八丈島に流され、明暦元(1655)年に死去した。墓は、約7m四方の玉石垣に囲まれた一族墓の中央に五輪塔形の墓石で、天保12(1841)年に9代秀邑が建てたものである。当初の墓石は、傍らにある位牌型の墓で、現在地より西北方にあったものを移転したものである。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家は西軍の副大将として、西軍の主力(西軍の中では最大の1万7000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋が東軍につき、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。関ヶ原の戦い後、秀家は捕縛を逃れて伊吹山方面に逃亡、上方に潜伏後、同じ西軍であった島津義弘などを頼り薩摩国へ落ち延びた。慶長7年(1602年)、徳川・島津間の和議が成立し、島津忠恒が上洛し家康と対面したとき秀家潜伏が明かされ、身柄引渡しが進められることとなった。慶長8年(1603年)秀家は伏見に向けて薩摩を出発した。忠恒の秀家助命依頼により、秀家は西軍の将としては軽い処分で済み、秀家の身柄は駿府城に置かれた。その直後八丈島に移されることが決まり、慶長11年(1606年)に息子2人(孫九郎秀隆・小平次秀継)などとともに八丈島に移された。秀家は八丈島の公式史上初の流人とされる。
八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めた。妻の実家である加賀前田氏や旧臣であった花房氏・進藤氏から米や金子、料紙の支援を受けた。
秀家は島で50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝えられる。また、八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。源家は宗福寺の住職も兼ねているが、この寺院は宇喜多家の菩提寺である。
元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったと伝わる。
八丈島での生活は不自由であったらしく、八丈島の代官におにぎりをご馳走してもらったとき、ひとつだけ食べて残りは息子達に持ち帰ったという話がある。明暦元年(1655年)11月20日、秀家は死去した。享年84。このときすでに江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた。
浮田家の墓。
秀家とともに流刑となった嫡男・孫九郎秀隆と末子・小平次秀継の子孫が八丈島で血脈を伝えた。孫九郎直系の子孫のみが「宇喜多」を称し他の家は「浮田」を称した。秀継の子孫は浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家・浮田半六家・浮田半七家の3家を興した。
明治の恩赦により、宇喜多一族は赦免となり、元・加賀藩主前田氏の庇護の下で東京の前田家の土地に移住したが、のちに浮田半七家は帰島し、子孫は大賀郷に在住して現在も秀家の墓を守り続けている。
宇喜多秀家の居宅跡。
最寄りのバス停「おおわき」の近くにある。民家横の道を50mほど進むと居宅跡の表示がある。
居宅跡を奥まで進み、さらに小道を進むと、墓入口手前の坂道に出た。
豪姫(ごうひめ、1574年~1634年))は、前田利家の四女として尾張国荒子(現・名古屋市中川区)に生まれた。生母はまつ(芳春院)。数え2歳の時、父の利家が羽柴秀吉との仲を深めるため、子のなかった秀吉夫婦の養女として出された。豪姫は安土城で秀吉や正室の寧々(高台院)に寵愛されたといわれる。秀吉の猶子であった備前国(現・岡山県)の戦国大名で岡山城主・宇喜多秀家の妻として嫁ぎ「備前御方」と呼ばれた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に宇喜多氏は改易。秀家は、息子2人と共に慶長11年(1606年)に八丈島に流罪とされた。
宇喜多家が没落後、高台院に仕えていたが、洗礼を受けたのち、慶長12年(1607年)頃、金沢に引取られ化粧料として1500石を受けた。ロドリゲス・ジラン神父は豪姫が洗礼を受けたことをローマに報告しており、その信仰の先達を勤めたのは内藤ジュリアであったともいわれている。
豪姫は、弟であり加賀藩3代藩主である前田利常と協力して、秀家への仕送りを江戸幕府と交渉した。その結果、慶長19年からは定期的に食料や金品を送ることができた。
寛永11年(1634年)5月、死去。享年61。
仕送りは豪姫が亡くなったあと、宇喜多秀家が解放されるまで続いたと伝わる。
八丈島空港。
2024年12月1日(日)。9時40分ごろ青ヶ島行きのヘリに搭乗開始。
当日は、大賀郷の宿泊施設「ケンチャ・ルマ」から徒歩で八丈島空港へ向かった。八丈島空港へのバス路線は日曜日のみ運休である。グーグルマップで30分余りだが、50分ほどかかって8時30分頃八丈島空港へ着いた。東邦航空愛ランドシャトルの八丈島→青ヶ島便は9時55分発・10時15分着で、9時ごろから搭乗手続きが行われる。注意書きを読んでくれと渡されたが、興奮していたせいか、離着陸時はカメラは禁止という項目を理解していなかった。
ヘリは1980年代初めにニューヨークで遊覧飛行に搭乗して以来だ。
TAL JA7698の機材は、「シコルスキーS76 C+/C++」のようだ。乗員 2名(操縦士1名・整備士1名)、乗客 9名。最大速度 287km/h、巡航速度 200km/h〜300km/h。
八丈小島。
青ヶ島は八丈島から68km南に離れている。
青ヶ島は火山島であり、二重カルデラをなしている。人が定住している集落は青ヶ島の北部の台地にあり、ヘリポートはその八丈島寄りにあることが分かる。
青ヶ島村ヘリポート。東京都青ヶ島村。
復路便が飛び立っていく。