頭蓋骨の神殿。世界遺産パレンケ遺跡。
ゲートから坂を登ると、神殿群に出る。 右手手前から頭蓋骨の神殿、茅葺屋根のある神殿13、碑文の神殿と続く。
メキシコを2014年11月10日(月)から12月3日(水)まで個人で旅行した。メキシコの旅行適期は11月の乾期から始まる。3週間程度を期間とし、類似した世界遺産は省くことにして、目的地と行程を決め、航空券をネットで探した。直行便のアエロメヒコを探すと、提携代理店経由が最安価格だったので、7月末に153,780円で購入した。
メキシコシティー及び周辺、ユカタン半島方面、中央高原方面に分けて行程をほぼ決定し、移動など不安なユカタン半島を前半にすることにした。最初の2日間をメキシコシティーとして、バス予約を試みるなどとし、11月14日にメキシコシティーからカンクンへ飛んで、バスでメキシコシティーへ戻る行程とした。ネットで探すと、ボラリス航空が安かったので8月初めに11391円で予約した。歩き方にメキシコシティーとカンクンに日本人宿が記してあるので、利用することにした。メキシコシティーは「サンゲルナンド館」を拠点とし、カンクンは「カサ吉田」とし、メールで予約した。残りの宿泊地はYHを優先し、ない所はネットで探して予約した。バスは閑散期なので、現地で何とかなると思い、無理に日本で探すことはしなかった。
メキシコシティーは結構分量が多く、6日ほどかけることとした。世界遺産ルイス・バラガン邸はメールで予約をしたが、返事がなかったので、直接押しかけて見学した。
旅行費用は宿代が1泊2~3千円台で、あとはバス運賃が高くなったが、航空運賃を含んだ合計で33万円程度。
2014年11月17日(月)。メリダから前日22時発のADO(アデオ)夜行バスに乗り、ユカタン半島の付け根にあたる西のチアパス州パレンケのバスターミナルに6時30分に到着。ついでに当日夜のオアハカ行き夜行バスの乗車券を購入。メリダで買ったパンで朝食を済ませた。
世界遺産パレンケ遺跡行きのミニバスを捜し、町の中心方向へ数分歩いたところで、遺跡行きのミニバスに遭遇して乗車。運賃20ペソ。途中停車して、遺跡公園の入場料28ペソを支払う。丘陵地帯に入って、博物館地区を右に見ると、急な九十九折の坂道を登り、8時30分頃に終点の遺跡入口に着いた。観光客は多い。チケット売り場でザックを預け、帰りに15ペソを払った。
世界遺産パレンケ遺跡は、ジャングルに囲まれたマヤの古代都市遺跡で、メキシコシティーの国立人類学博物館の至宝であるパカル王の翡翠の仮面が発見された遺跡として有名である。
また、1950年代まではメソアメリカのピラミッドは頂上の神殿を置くための台座に過ぎないと考えられてきたが、1952年メキシコの考古学者アルベルト・ルスがパレンケのピラミッド「碑文の神殿」の内部に、パカル王の墓を発見し、エジプトのピラミッドと同じく王墓であることを明らかにして古代史研究のターニングポイントとなった遺跡である。
頭蓋骨の神殿。階段を登った頂上中央にマヤアーチの入口があり、その手前の柱の根元に頭蓋骨のレリーフがある。
頭蓋骨の神殿。前歯が大きいことから、ウサギの頭蓋骨といわれるレリーフ。
神殿13。頭蓋骨の神殿の左隣にある。1994年に「赤い女王」とよばれる被葬者の墓が発見された。茅葺屋根の下にピラミッド内部に入る通路がある。
神殿13。マヤアーチの下の通路を中に入る。
神殿13。通路を進む。
神殿13。赤く染まった石棺。1枚岩を加工した石棺には40歳くらいの高貴な女性が、ヒスイ製品などの豪華な副葬品とともに葬られていた。遺体は水銀朱で赤く染められていたので「赤い女王」とよばれている。被葬者はDNA分析の結果、パカル王の肉親ではないことが分かった。パカル王の妻という説もある。
「赤の女王」が誰なのかについては、パカル王の母サク・クックという説が有力だが、パカル王の妻という説もあり、まだ決着はついていないとのこと。
パレンケには女王が存在した。パレンケの最盛期はパカル王とその息子のキニチ・カン・バフラム王が治世した7世紀である。碑文の解読によれば、初代クック・バフラム王は431年から435年まで統治したという。7代目に男性の継承者がいなかったため、イシュ・ヨフル・イクナル女王が8代目王として即位した。女王は604年に亡くなるまで、20年余り統治したが、599年に強大なカラクムル王朝との戦争に敗北した。
11代目として12歳で615年に即位したのがパカル王で683年に亡くなるまで、68年間パレンケ王朝を統治して、パレンケ王朝の黄金期を築いた。
神殿13。内部の部屋。
神殿13。階段部。
碑文の神殿。高さ25mで、パレンケで最大の神殿ピラミッド。最上部にパレンケ王朝200年の歴史を刻んだ600以上の碑文の石板があったことから碑文の神殿とよばれる。
パカル王在世中の675年に着工し、王の死後、息子の12代キニチ・カン・バフラム王(684~702年在位)が、父の遺体をマヤ文明最大の石室墓(長さ10m、幅4m、高さ7m)に葬った。
パカル王の石棺を発見した時、王の顔にはヒスイをモザイク状に組み合わせた豪華な仮面がつけられており、現在、メキシコ人類学博物館に展示所蔵されている。
この神殿は立入り禁止となっている。
宮殿。碑文の神殿の北西にあり、王族の住居とされる遺跡の中心的建物。基壇の広さは100m×80m。現在見ることのできる宮殿はパカル王時代に建築が始まり、後の王たちが増改築を繰り返したものという。
マヤ建築の中でも他に類例のない、4階建て高さ15mの搭屋が特徴である。塔屋は、天体観測塔とされるが、物見の塔の役割もあったと推定される。
近くの小川を利用して水洗トイレやサウナなども設置されており、スペインのコロニアル建築を思わせる宮殿上部の中庭や、闘いの歴史を刻んだ壁画、マヤアーチの回廊など見ごたえがある。
西側の基壇から上部へ登る。
宮殿。基壇の上から碑文の神殿を眺める。
宮殿。マヤアーチの回廊。
宮殿。パカル王が発案したといわれるT字型の窓。
宮殿。「捕虜の中庭」とよばれる。ここは捕虜が見せしめにされ、王に引き渡された場所といわれ、失意の捕虜達のレリーフがある。宮廷訪問者の接待所としても使用された。
宮殿。「捕虜の中庭」。パカル王は、パレンケの東70kmにあるサンタ・エレナとの戦争に659年に勝利した。パレンケ軍は、宿敵カラクムルと同盟を結んでいたサンタ・エレナの王と6人の貴族を捕虜にした。
「捕虜の中庭」にはパカル王の勝利を記録した碑文の階段とひざまずいた6人の捕虜を描いたレリーフがある。
宮殿。「捕虜の中庭」。6人の捕虜を描いたレリーフの左半分。
宮殿。捕虜の中庭。建物基壇部分のレリーフ。神々の像という。
宮殿。捕虜の中庭。建物基壇部分のレリーフ。
宮殿。捕虜の中庭。建物基壇部分のレリーフ。
宮殿。天体観測塔。4階建ての塔の高さは15m。
壁面が東西南北を指していることや、4階に星の観測に使ったと思われるテーブルがあること、踊り場に金星を表す文字があることなどにより、天体観測塔と推定されている。
この塔から見ると冬至の日には太陽が碑文の神殿に沈む。
宮殿。「楕円形の碑石」。パカル王の即位儀式のレリーフ。塔に隣接した建物の中にあるが、現在は金網で保護されていて、良く見ることができない。
654年に落成した部屋の壁に、この碑石が嵌め込まれている。パカル王が双頭のジャガーの玉座に座り、摂政であった母から王冠を受け取っている。
宮殿。戦闘指揮官たちの中庭。塔の左側に建物に囲まれた小さな広場。タバスコ州サンタ・エレナからの貴族たち、タバスコ州ポモナの王が663年に死亡したことなどの碑文が残る。
宮殿。南東部にも多くの部屋が残る。