マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

史跡めぐり「文京区海岸物語」に参加して

2016年11月20日 | 歴史

 1110日(木)、ふるさと歴史館主催「文京区海岸物語」に参加し、縄文時代の貝塚跡を訪ねた。参加者50名は4班に分かれて説明を受けた。皆、抽選の網の目を潜って来た人々。文京区に海岸?とビックリされる読者の方もおられるかと思うが、今から6000年ほど前、現文京区は多くのところで海岸線を有していた。現在より気温が高く、海面も高かったと考えられている。縄文海進の頃のことだ。

 13時に本駒込駅に集合し、南谷寺→徳源院→動坂貝塚跡→天祖神社→富士神社→一行院→小石川植物園 と廻った。このイベントの中心は動坂貝塚跡と、新たに縄文遺跡が発見され発掘調査中の小石川植物園だった。

 (下の図はふるさと歴史館で撮影を許された写真。説明員の説明図版とおなじ)
 まずは、案内人の方は説明用の図版を用い、今から6000年前の海岸線の説明をした。私は動坂貝塚跡から動坂を下った現在の不忍通り辺りは縄文海進によっても海ではなかったものと想像していたが、ボランティア説明員の方が示した資料によれば海だった。それは意外であり驚きもであった。自らの不明を恥じた。
 この頃、海が近くにあれば、海辺より小高い場所で生活が営まれ、貝塚が生まれただろう。文京区だけで縄文遺跡は20数か所もあるそうな。その中でも代表的な動坂貝塚と、縄文遺跡が発見され発掘調査中の小石川植物園を巡ったわけだ。









 今回のブログでは順序を逆にして小石川植物園の発掘現場から綴ることとする。

 入口から緩い坂を上ると白山台地の一角。そこに温室がある。その温室建て替え工事中に新たな縄文遺跡が発見され、工事の進行はストップし、東大教授が中心となり遺跡の調査が進行中である。ここは東京大学大学院付属の植物園だから、東大チームが発掘・調査というのは自然な流れ。








 小石川植物園内では以前にも多くの遺跡が発見・発掘されていた。発掘現場の撮影は許されなかったが、過去の出土品などはパネル表示されていて、その撮影はOK。
 それによれば1950(昭和25)年には縄文時代中期の竪穴住居が2件発見され、堆積した埋土からは貝層とともに縄文後期の土器が出土。1996(平成
8)年には縄文時代中期後葉(加曾利E式)の埋甕が発見された。
 さて今回の調査。調査現場を見学出来るのは異例なことだそうだが、見学が許された。陳列された、土器の破片を多数見学。この台地の真下に“埋没谷”が眠っていて、そこから出土した土器を見せてもらったわけだ。調査結果はいずれ発表されるだろうから、その際に詳細を綴りたい。


井戸尻考古館へ

2016年10月18日 | 歴史

 1014日から17日までの、34日の信州旅行から昨日帰宅した。今回の旅行の主たる目的は2つあった。大鹿村歌舞伎の観劇と中央構造線の“安康露頭”などの露頭を見ること。それ以外にも井戸尻考古館や我が別荘の廃墟跡や自由農園など訪れたいところが多々あった。
 参加者は妻の友人のTさんとWさんと、私達の合計4名。Wさんは1日遅れの参加だった。
 14日の813分、Tさん運転の「prius」車は我が家前に到着。まずは3名で自宅を出発。たてしな自由農園には3時間後の1113分着。農園直営のレストラン「808」(八百屋を意味するネイミング)で早い昼食を摂った後「井戸尻考古館」へ。(写真:神像土器)






 8月に購入した、滋澤雅人さん撮影の写真集『縄文の夜神楽』には井戸尻考古館所蔵の土器・土偶が3点が載っていて、その写真集を見て、是非その現物に触れたかったのだ。(『縄文の夜神楽』より:「神像土器」)

 
考古館の傍にある井戸尻遺跡は、1966(昭和41)年に中部高地を代表する縄文時代の遺跡として、国の史跡に指定され、長野県富士見町立の井戸尻考古館には八ヶ岳西南麓から発掘された縄文期の文化遺産が多数展示されていた。
 「およそ、5000~4000年前、この地方は中部高地から西南関東に展開した縄文文化の中心舞台だった。展示の中心は重要文化財の藤内出土品や、長野県宝の曽利遺跡出土品をはじめとする、その時代の土器と石器。最新の研究成果に立って当時の暮らしと、ものの考え方の再現に勤めています」と書かれていた。



 
曽利遺跡住居址から出土した土器の県宝「水煙渦巻文深鉢」は残念ながら出張中で複製しかみられなかったが、「人面香炉形土器」や、藤内遺跡から出土した重要文化財「神像土器」を見ることが出来て、私は大満足だった。(写真:水煙渦巻文深鉢」の複製されたもの)







 新たに知った土偶があった。坂上遺跡から発見された重要文化財で”始祖女神像”と名付けられた土偶だ。
 坂上遺跡は、JR信濃境駅の西1.4kmほどのところにあった、今から4300年前の遺跡で、1974(昭和49)年に、大規模な構造改革事業に先立つ発掘調査の際、8軒の住居址と数基の小竪穴が発見された。そのうちの一つからこの土偶は出土したが、「縄文のビーナス」や「仮面の女神」とは異なり、頭と上半身と下半身の3つに分割された状態での出土。結合してみると高さ23cmの大振りの土偶であったそうな。昨年、重要文化財に指定された。(写真:始祖女神像)

 ここで、館長小林公明氏の説を紹介しておきたい。「この地域の縄文文化の特徴は、狩猟だけでなく農耕文化を有していた点にある。鍬や草取り鎌など農耕に使われていたと考えられる農具が出土しています。」とあった。この点に関しては他の書物などを読んでみたいと思っている。



 
(人面香炉形土器)

 折角富士見町に来たのだからと、私たちが知っている菓子工房「キャトル・セゾン」に行きましょうかとTさんを誘うと彼女は大乗り気。そこで味わったアップルパイは食べきれない大きさで、持ち帰って夕食のデザートにしたほどだった。その後、諏訪の「角上」でお寿司と刺身を購入。
 この日は一日中快晴で、帰路途中、川沿いの道から、八ヶ岳の阿弥陀岳肩から上る満月2日前の月が眺められた。夕食は「
ハーヴェストクラブ蓼科アネックス」で。(写真:阿弥陀岳にかかる月:左肩は赤岳の稜線)


中里貝塚(最終)

2016年09月28日 | 歴史

 巨大なハマ貝塚としての中里貝塚は発掘後入念な調査・研究が進められ、多様なことが明らかになった。

 <貝塚からは人工遺物の出土が極めて少なく、貝類以外の食物残滓出土量も圧倒的に少ない。浜辺に作られた貝塚であるにも関わらず、魚骨も極端に少なく、鳥獣骨は全く見つかっていない。それに反して、食用にされたマガキとハマグリという比較的肉量の多い2種類の貝類の出土量は他の貝塚を圧倒している。ハマグリに関しては、平均サイズが43mmと大型のうえ、大きさが整っていて、七社神社裏貝塚のハマグリ(平均35mm)と比較しても、中里貝塚では、人々がその大きさにこだわって採集したことがわかる>(写真:右上がハマグリ。他の貝類と比較して、相当大きい。右下がマガキ)

 勝手に想像を逞しくすれば、豊富に採集できる大きなハマグリとマガキがあれば十分で、他は何も要らないないということだろうか。ともあれ、貝塚の周辺では日常生活はなく、貝の採集→貝の加工処理→貝殻の廃棄という、貝のむき身作りに特化した一連の作業のみが営まれていた場所だったのだ。

 <又、中里貝塚は、当時の海岸線に沿って帯状に形成され、その広がりは、長さ最低でも500m以上、幅100m以上にわたっており、貝層は14mの層厚に及ぶと見られている。すべての部分で調査が為されてはいないが、単純に推定計算すれば50.000100,000立方メートルの大きさになる。大規模なムラ貝塚である千葉市の加曽利南貝塚の容積が5,000立方メートルとされているから、その10個分に相当する貝塚が一ヵ所に集中していることになる>(写真:左下が中里貝塚。その右隣が加曽利南貝塚)




 <では、中里貝塚を作った人々の生活基盤はどこにあったのか?貝塚を見下ろす台地上には複数の貝塚が見られ、中里貝塚から直線距離にして1.5km圏内の北区内や3km圏内の文京区方面に分布する集落はあたかも、中里集落を取り囲むように位置し、その有力候補である。武蔵野台地の内陸部、石神井川流域には大量の貝の消費に見合うだけの大規模集落が見られる。中里貝塚を作った人々は、大量のむき身を材料として、他地域の人々と物々交換を行っていたかもしれません>
 早朝散歩の際にその脇を通る、動坂遺跡貝塚もその一つかと思う。

 <しかし、中里貝塚も縄文時代後期の初め頃にはその形成を終了させた。そのような状況の背景には、地球規模での寒冷化による海岸線の段階的後退や貝殻大量投棄による内湾干潟の陸地化が進んだことなどが考えられる。逆に、この貝塚に近接する西ヶ原貝
塚での集落の形成が活発化していることから、この時期には貝の採集・むき身作りに依存しない、新たな生活スタイルが出来上がりつつあったのかも知れません>

 おわりにかえての“貝塚形成の衰退と土器製塩の開始”は特に興味深く読んだ。製塩方法については、宮本常一著『塩の道』にも登場していたが、
 <縄文時代晩期、貝塚の造営数の減少と時を同じくして、各地で製塩土器による塩つくりが行われるようになった。
 近年、貝類を乾燥させた干し貝に塩分摂取源としての役割を見い出す考え方が示されている。採集した貝のむき身を海水で煮ると、かなりの塩分含有量になる。ハマ貝塚でのむき身作りはそれに含まれる塩分の採取・流通こそ主目的ではなかったかという考え方で、この考え方を応用すると、中里貝塚の終焉の背景には画期的な土器製塩法の登場を加えることが出来る。
 縄文時代の計画的な生産活動、広範囲のおける交易、“社会”と呼ぶに相応しい他地域間のネットワークの存在、を示し、日本列島を沸かせた大規模発掘調査から10年あまりが経った今、貝塚研究は、新たな展開を見せつつある>と、6年前発行の冊子は結んだ。新たな展開が紹介されるならば、是非その冊子をも読みたいと思う。


中里貝塚(その2)

2016年09月26日 | 歴史

 今日のブログも『奥東京湾の貝塚文化』を私なりにまとめたものである。

 <近年、縄文時代の貝塚を、その立地と性格の違いから「ムラ貝塚」と「ハマ貝塚」の2つに類型化する動きが広まっている。ムラ貝塚とは台地上の居住地の一角に形成され、貝殻や土器・石器の道具類に加えて、獣類・魚骨などの生活残滓で形成される貝塚を指す。北区の七社神社貝塚や西ヶ原貝塚など、日本列島の大部分の貝塚がこれに相当する。
 一方、ハマ貝塚とは浜辺や水域に近い低地部に形成され,層厚の割には、住居址や日常の生活に伴う遺物がほとんど見られない貝塚を指す。焚き火跡が多く含まれ、僅かに見られる出土資料には浜辺での作業に関するものが多い。ハマ貝塚は海浜部の貝類の加工に伴って形成された貝塚といえ、その代表格が中里貝塚で、伊皿子貝塚などもこれに相当する>                    
 右上の図は本文に添えられていた概念図だが、ハマ貝塚を中里貝塚に、ムラ貝塚を七社神社貝塚と西ヶ原貝塚に重ね合わせることが出来る。この記述に出合い、私が抱いた疑問は解消した。

 ここからは私の想像だが、この時代、縄文人は火や土器を使用することが出来た。採って来た貝類を直ぐに土器に入れ火を焚き、茹でたり煮たりすると貝は開けやすい。取り出した中身(むきみ)をその場で食べることもあっただろうが、大半は集落で待つ家族の為に持ち帰った。干したりしたかもしれない。持ち帰る必要のない貝の蓋は目の前に海に捨てる。その捨てられた貝殻が長い年月に層を成していったのでないかという想像。
 又、ハマ貝塚が形成されるためには、目の前に海面が広がっていなければならない。現在、中里貝塚の前面はJRの尾久車両地になっていて、海は遥か彼方であるが、“縄文海進”により、かつてこの地は海だった。(写真:中里貝塚周辺のイメージ風景)
 

 <氷期の最終段階(約2万年前)以降、東京湾では地球規模の温暖化に伴い、海水面は上昇し続け、今から約6000年前(縄文時代前期)にはピークに達した。いわゆる縄文海進で、海水面は現在より3m高く、海水は内陸まで入り込み、広々とした内湾=奥東京湾が展開していた。その後、海は徐々に退いていった。今から3000年前以降は、現在の様な地形が形成された。中里貝塚が営まれた頃(縄文時代中期~後期初頭)には、北区域の東京低地には崖線近くまで海が広がっていて、その前後に干潟が形成され、奥東京湾周辺では、大規模な集落および貝塚が営まれ、豊かな縄文文化が華開いた>(写真:奥東京湾の広がりとハマ貝塚)



 今年の夏、私は八ヶ岳山麓の縄文文化に加え、奥東京江湾の縄文文化の一端に触れたことになったのだと、今改めて思っている。(写真;中里貝塚周辺の遺跡)


中里貝塚(その1)

2016年09月24日 | 歴史

 初めて中里貝塚を知ったのは、今年の815日だった。尾瀬で知り合ったHさんにその遺跡現場を案内してもらい、案内版を読んだ。そのとき不思議に思ったことが2つあった。一つは、貝塚が5m近い堆積をなしていたこと。貝塚は言わばゴミ捨て場。どうして5m近くの高さにまでうず高くなったのだろうという疑問。もうひとつはこの貝塚の海抜は現在せいぜい5mほど。すぐ西にある上野台地は標高20m4000年前の縄文時代にはこの辺一帯の目の前は海で”海抜0m地帯“のはず。普通、貝塚は水面よりかなり高い台地などに形成されたはずなのにという疑問。中里貝塚から比較的近くにある、北区の七社神社貝塚も西ヶ原貝塚も上野台地から発見されている。昨日散歩の時に見た動坂遺跡貝塚は本郷台地にあった。
 上の2つの不思議に迫り、更には中里貝塚についての詳しく書かれた出版物はないと参考図書を捜していると絶好の本が見つかった。北区の飛鳥山博物館が編集し、教育委員会が発行した『奥東京湾の貝塚文化』だ。目を洗われる思いで、私が抱いた二つの疑問は溶解し、非常に面白く、何度か読み返している。今後数回にわたり、ブログに綴りたい。(写真:右図は本の表紙。そこに4.5mの貝の堆積している写真が登場している)

        
(貝塚は宇都宮線と京浜東北線の間にある)              (中里貝塚史跡広場)

 以下はその本の内容を私の理解なりにまとめたものである。
 
実は現在中里貝塚と呼ばれている辺りの様子は、近代以前の絵図や地誌に見ることが出来る。異常な量の貝殻散布の様子から、江戸時代の絵図には「蛎殻山(かきがらやま)」、「蛎殻塚」という地名が見られる。
 明治19年には学会誌などにも登場し、早くからその存在は知られていたが、貝殻以外の食物残滓や土器・石器などの道具類が殆ど含まれない低地の貝塚で、本当に縄文時代の貝塚なのか自然に出来た貝塚なのかと論争が行われ、明治期の研究者を悩ませ、本格的な発掘は行われなかった。
 それが、1958(昭和33)年になり、和島誠一氏の小規模なトレンチ調査の際に縄文土器片が2点見つかり、貝塚説を積極的に支持する材料が得られたが、湧水が激しく発掘は中止された。(写真:「中里貝塚を飛鳥山丘陵より望みたる図」)

 1996(平成8)年になって、北区の公園整備事業に先立って発掘調査が行われ、約4.5mもの、国内最大厚の貝層や縄文時代当時の水産加工場の痕跡がみつかり、自然に出来た貝塚ではないことが明らかになった。この発掘調査の状況は新聞・テレビ・雑誌等で報道され、現地説明会には約3000人もの考古学ファンが駆け付けたそうな。今から20年前の話であるが、私は全く知らなかった。(見学風景)
 この調査から中里貝塚は「ハマ貝塚」に相当し、そこが水産加工場だったことが分かったこと。次回以降のブログで詳しく綴りたい