今回の「熱海伊豆山」への旅では初めて「走り湯」を見学し、そこから伊豆山神社に詣でた。参道の途中には右写真の「階段図」が掲げられていて撮影をした。一種の断面図で、伊豆山近辺の道路の様子を説明するには恰好の写真である。
Aは海抜0mの伊豆山浜で、車で東京方面から下田方面へと向かう時に良く利用する「熱海ビーチライン」が通っている。
BにはA地点から階段数16段上で、ここに「走り湯」がある。
Cには熱海からハーヴェストを通り湯河原へと抜ける国道135号線が通っている。
Dは熱海市々道。初日にお刺身を買った「魚久」はこのそばにあった。
Eに伊豆山神社がある。
私はC地点まで一人で散歩にやって来るが「走り湯」を見にいったことが無かったので、5月22日(火)の散歩では、まずはC地点からA地点まで下って「走り湯」を見学した。
C地点より220段ほど下ると走り湯で、朝早く一人洞窟の中に入っていった。もうもうと立ち込める湯気で眼鏡が曇ったが、辛うじて熱湯が湧き出すところが見られた。洞窟から出てきてこの湯の謂れを読む。
「走り湯」は今から1300年前の720年に修験道の行者役小角により発見され、『吾妻鏡』には愛媛の道後温泉・兵庫の有馬温泉と共に、日本三大古泉として紹介されているそうな。山腹から滝の様に海に流れ出した横穴式の源泉。それが「走り湯」の由来で、頼朝・政子もこの湯に浸かった後に伊豆山神社に参拝したとも書かれていて、本当かどうかは疑わしいが、私も同じ体験をしようと思い、神社に向った。
階段数にして837段。標高差150m弱か。D地点まで600段ほど上がって来て、かなり足が重くなってきたが、あとひと踏ん張りと、一気に上った。陽はすでに天空にあり、相模湾がひろびろと広がっていた。
伊豆山神社の説明版には栄枯盛衰が書かれていた。
伊豆に配流された頼朝は源家再興を伊豆権現に祈願。征夷大将軍となった後は関東鎮護の権威を与え、最盛期には三千八百名の僧兵を擁した。
しかし、秀吉の小田原攻めの際、神社は北条氏に味方し、1590(天正18)年、全山焼き討ちにされ、多くの僧兵が命を落とし、伊豆山は3日3晩燃え続けた。 家康により復興された伊豆権現は、江戸時代には12の僧房と7つの修験坊を有する繁栄を取り戻した。
往時を偲ぶよすがは無いが、本殿にお参りし「頼朝政子の桜小路」を散策してから下山した。静寂に包まれ森閑とした神社詣は森林浴にもなった。