マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

二人だけの忘年会

2020年12月27日 | 身辺雑記

 今年もあと数日で年が明ける。今年は特に、語の正確な意味での“忘年会”を開催したい人は数多いることだろう。しかし感染症対策分科会からも国からも都からも自粛要請がなされている。私自身、上から目線で言われなくても飲食を伴う会食は避けるのが賢明だと思っている。てなこともあり、年末に忘年会は皆無だった。予約しておいた「ハーヴェストクラブ勝浦」への旅行も取りやめていた。新年会も無さそうだ。

 その意味では寂しい年末年始になりそうだ。そこで少し豪華なテイクアウトを利用して妻と二人だけの忘年会をやろうと思った。本音をいえば、少し美味しく飲みたかったとも言える。






 そこで、「千駄木越塚」のデリシャスプレートと「しとり」の穴子寿司を予約しておいて、26日(土)の夕方取りにいった。お酒は頂いた「鶴齢」の純米酒。











 18時から宴会開始。この時間は毎週TBSの『報道特集』を見ている。現政権への批判の姿勢を崩さず、弱者に寄り添う視点からの報道が二人とも好きだ。昨夜はコロナによって生活が破壊されてしまったシングルマザーの現状を浮かび上がらせていた。特に最前線を取材しての金平茂紀キャスターの、気骨ある発言に我が意を得たりの思いを抱く。


 さて、来年は軸足をブログから数学や数の世界へ移そうと考えている。特に和算の世界を垣間見たい。ブログ、今は3日毎に更新して来いるが、その間隔が少し長くなることだろう。
 皆さま、良いお年を。


みかん酒を漬け、柿ジャムを作る

2020年12月23日 | 調理

 12月に入って、知人から和歌山の富有柿が1箱送られて来た。その後和歌山の有田みかん1箱も届いた。どちらも名高い果物とあって非常に美味しく頂いた。以前は息子が果物をよく食べたし、私たち2人の食欲も旺盛だった。しかし、現在は高齢者2人だけの家族にとってとても食べ切れない量だ。そこでミカンの一部は果実酒にし、柿は3個を残してジャムにすることにした。
 12月20日(日)は、何とか開催に漕ぎつけた全国高校駅伝。私の大好きな駅伝放送だが、男子は世羅高校の独走状態となり興奮する場面は少なかった。そこで妻とふたり、放送を見ながらミカンの皮を剥き、白い糸を取ることにした。ミカン全部で20個で1.5キロ。大瓶にミカンとミカンの皮を入れ、ホワイトリカー1.5升と砂糖60グラムを加え完了。



 2ヶ月ほど寝かせば飲酒可能。これを棚に仕舞う際、ブルーベリー酒を取り出した。漬けたときの日時がラベルに書いてあるので見ると、「6月30日」と書いてあった。既に5ヶ月以上は経っている。もう良いだろうと4合瓶に移し替えると6本になった。試飲すると今までにない程の美味である。手作りのものは年によって出来が違う。さてどうしてだろうか考えた。今年はコロナの影響でブルーベリー狩りには行けなかった。その代わり送ってもらったのだ。ブルーベリー園の主からの粒は私たちが捥ぐものより大きかった。それが影響しているのかも知れないなと想像しながら、晩酌にはブルーベリー酒を味わった。




 柿ジャムは、バーミックスを使っての、妻の独壇場で私はほんの少々手助けをしただけ。レシピ等は省くが、非常に大きい富有柿7個を使って2.2Kgのジャム完成。小さい瓶で11個になった。いくらかはお裾分けする。このジャムはパンにつけるかヨーグルトに混ぜて食するが、ビスケットに乗せて食べると絶妙。私たちの好む「東ハト」のビスケットに乗せると非常に美味しい。冷凍保存が可能なので長い間楽しめるだろう。



友遠方より帰る、又楽しからずや

2020年12月20日 | 

 長らくフランスで暮らしていた、大学時代からの友人Oさんが、ご夫妻で帰国され、その知らせが11月中旬に届いた。入国の際は羽田空港で唾液検査を受け、結果は「陰性」だったが、2週間の自宅待機。この2週間、体調に心配な兆候はなく、11月からは近くの公園を散策する毎日と記されていた。
 今年の春に日本に一時帰国していた彼は、9月にフランスへ再入国していたので、その時の空港での様子を聞くと、その頃はフランスでは出入国に何の制限も無かったそうだ。しかし、その後の観光誘致が災いしてコロナ感染者数が増大し、10月に2度目のロックダウンに繋がったのかもしれないとのメールもあった。
 まだまだ、フランスでの生活を続けるものと思っていた私には意外だったので、帰国を早めた動機を尋ねると、彼の健康上の理由もあるが、夫人の希望だそうな。夫人が絵を完成するためには何度かパリと日本を往復しなければならず、年齢とともにその負担が増してきていたようだ。思うに、コロナが深いところで影響しているのだなと感じた。フランスへの移住も夫人の絵画制作が目的だったから、パートナーを大切にしている彼らしい。
  
 大学時代、数学を学ぶ仲間は自分も入れて僅か9名と非常に少数だったので、皆すぐに親しくなった。4年の時は彼と同じ「代数ゼミ」のメンバーだった。卒業後、彼が大学院で物理・物性を学び始めたころ、住まいが西小山にあった私はその研究室に良く遊びに行くようになり、親しさが増した。池袋の珈琲茶寮「耕路」で『日本国憲法』(著宮沢俊義)の読み合わせをしたことを懐かしく思い出す。 
 彼とはその後もよく飲んだ。一緒にスキーに行ったこともあったし、妻と二人、お宅に遊びにいったこともあった。帰国する度に一献傾けた。
 メール交換で、帰国後は一献だけでなく数学書の読み合わせをしようとなった。ミステリーを愛し、数独を趣味とする彼とは語ることが多い。旧友と以前の様に頻繁に会えるのは楽しみだが、直接会えるのはコロナ感染終息後だろうか・・・。
 


コーシン牛乳

2020年12月17日 | 東京散歩

 明治から大正・昭和にかけて、文京区にも牧場があったとの話を何かで読んだ記憶があった。巣鴨病院の跡地に建てられたという府立5中の現小石川高校を訪ね、古い資料を見せてもらった折に同窓会発行『小石川検定』に「上富士前にあった牛舎も校舎地の候補だった」の文章にも接していた。今また『氷川下町会史』で、氷川下に「興真舎牛乳店」があったことを知った。



 「文京区にはかつて、32個もの牛舎や牧場がありました。その1つが興真舎牛乳店です。明治39年(1906)、興真舎牛乳店(後に興真牛乳株式会社)の牧場と本社工場は、白鷺坂の南側、千石3丁目から大塚4丁目にかけて今の智香寺の奥まで広がっていたそうです。」と書かれている。

 白鷺坂とは春日通りから猫又橋へ下る坂で、「興真舎」が氷川下にあったことが分かる。明治時代の地図にも興真舎の記載があり、現地図でその位置が特定出来る。いつ頃だったかは思い出せないが、はるか昔興真牛乳を飲んだことがあり、懐かしい名前で、その場所に行ってみたくなり、12月11日の早朝散歩で出掛けていった。










 牧場地は不忍通りに面する林野会館の辺りにあったと見当をつけ、そこに何か痕跡がないか“探検”したのだ。しかし足跡は何も残されていなかった。当時撮影された写真をからその頃を推測するしかない。その写真を見ると、狭い敷地に牧牛が密に存在していることが分かる。












 興真舎牛乳店は昭和3年に牧場と工場は千葉県八千代に移転し、本社のみ東大農学部正門前に置かれているとのことで、散歩で本郷へ見に行くと、本社はマンションの中に入ってしまい、右写真の看板を見るのみだった。
 波乱万丈の社史があったらしい。太平洋戦争での戦災により都内の工場を焼失し、また農地解放で習志野牧場の大半を失ってしまった。昭和25年習志野牧場の一角に牛乳処理工場(八千代工場)を建設して事業を再開し復興を成し遂げ今日に至っている。そのお陰で私もコーシン牛乳を飲んだのだった。


簸川神社

2020年12月14日 | 東京散歩

 早朝の神社境内は清々しく気持ちがよい。一の鳥居を潜り、急な50段の階段を昇り、二の鳥居を過ぎると簸川(ひかわ)神社の本殿が見えてくる。屋根は変形の権現造りだそうな。(写真は下に。神社形式に詳しくない私は後日電話で神社にその形式を尋ねた)。この辺りは“氷川台”と呼ばれ、神社はその台地の上に鎮座している。沢筋とは標高差で15mほどだろか。その沢筋だから氷川下名付けられたそうな。階段が50段の語呂合わせからか合格階段と呼ばれているらしい。






 社伝によると、孝昭天皇三年(473年)に創建されたと伝えられる実に古い社で、八幡太郎義家が奥州下向の折参籠あったとも伝えられている。素盞嗚命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)の3神を祀り、氷川神社の末寺ともある。では何故氷川神社ではなく簸川神社なのか。
 
 
 『町会史』には概略次のように書かれている。「10代目の神主・毛利昌教氏は国立博物館の鑑定士を務めた研究者だった。彼は御祭神・稲田比売命が櫛名田比売(くしなたのひめ)と巡りあったのが出雲国・簸川であるという由来を知り、氷川という社号に疑問を持った。研究者仲間に調査を依頼し、自らも調べた結果、氷川は出雲国・簸川に由来するという説に合理性があると判断し、1920(大正9)年に社号を「簸川神社」と改めた」

 ではあるが、右写真に見るごとく節分には多くの人が列を作り、例大祭には子どもたちでいっぱいになるように、地元の人々に敬愛され、神社の呼び名は“ひかわさま”だそうな。










 一の鳥居の脇に右写真の「千川改修記念碑」が建てられている。高さは優に3mはあるだろう。千川が暗渠化されたとき、その記念に建てられた。この辺り一帯は“氷川田んぼ”とも呼ばれ、洪水が多発していたそうな。地域住民にとって暗渠化は喜ばしいことと受け止められたことだろう。その記念碑は簸川神社境内に建立されたのだ。
 今思い出したが、日曜日毎にラジオ体操に出掛ける宮下公園。その宮下の由来が公園脇の掲示板に書かれている。氷川明神(現簸川神社)下に開かれていた町屋が白山御殿の用地に召し上げられた時、その代地として現在地に移された。氷川明神下にあったので、お宮の下、宮下町と名付けられたと。
 私が想像していた以上に由緒ある、立派な神社さまでした。