マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

5年ぶりの草津(その2) ブログ最終回

2023年12月09日 | 街道を行く

 帰路、草津から河原湯温泉までは通い慣れた道を辿ったのだが、そこから高崎までは全く初めて通る道だったのでどの道を通ってきたのか私には全く見当がつかなかった。そこで運転を務めてくれた石野さんにメールで聞いてみた。
 「河原湯温泉駅から県道377号線でトンネルに入り、大戸関所あたりで国道406号線に合流した」とのことだった。この国道406号線こそ草津街道と呼ばれ、かっては信州から草津を経由して江戸に向かう最短道路だったらしい。途中「信州草津街道」という道路名看板を見たことからも、国道406号線は信州草津街道(以下草津街道)とも呼ばれていたのだろう。そのトンネルは距離にして3Kmあまりだが、2020年に開通し、川原湯方面から高崎方面に行く時間が30分短縮したとのことだ。(写真:トンネル開通式)
 帰路、草津街道を通ることによって初めて出逢った風景など幾つもあつた。

 ①国定忠治地蔵
 吾妻町大戸には昔大戸関所があったそうな。その関所を破った国定忠治は関所破りの重罰で処刑された。今もその場所が処刑場跡として残っている。不思議なことにそこに忠治の地蔵さまが建てられている。私も何かの本で読んだのだが「強気を挫き、弱気を助ける渡世人」だったからか、世にその人気は高く、地蔵まで建ててくれた御仁がいたのだろう。子分一覧の立て板も張り出されていた。(写真:国定忠治地蔵)





②牧野酒造
 車は大戸関跡を通過すると高崎市倉渕町に入り、406号線はその中心部から山側を辿った。そこに「牧野酒造」があった。このような山深き所に酒蔵があるとは、この辺をドライブしたことのある石野さんでなければ知らないだろう。創業が元禄3年というからかなりの老舗である。ブランドは「大盃」(鑑評会で最優秀受賞)と「榛名山」。「大盃」を試飲させてくれた。やや辛口ながら非常に口当たりが良かった。早速石野家は購買に及んでいたが、最近晩酌を止めている私はぐっと堪えてしまった。クリスマスに掛けて友と飲む機会もあるので、買いそびれたことを後悔したが、後の祭りであった。
 次回草津温泉に誘って頂けることがあるならば、このルートを通って牧野酒造に寄って欲しいものだ。

③道の駅「くらぶち 小栗の里」
 同じ倉渕町に道の駅「くらぶち 小栗の里」があった。石野車が「小栗の里」に入る直前にここは小栗忠順(ただまさ)の領地だった土地ではないかと思い至った。幕末に徳川幕府を支えた中心人物の一人小栗忠順は鳥羽・伏見の戦いで破れた後も徳川慶喜に薩長軍との主戦を主張し退けられ、上州は領地権田の地に隠退した。慶応4年新政府軍に捕らえられ、この地で理不尽に断首された。日米修好通商条約批准書交換のため渡米し、帰朝後外国奉行にまでなった傑物である。道の駅の一角には、小栗忠順の説明コーナーがあったが、この有能な人物の業績を語るには、説明コーナーの規模は小さく寂しかった。小栗びいきの私には非常に不満だった。(写真:道の駅外観)

 ④少林山達磨寺
  車は高崎市上豊岡町北交差点で高崎環状線に入り達磨寺に向かった。「高崎のだるま市」で有名な達磨寺を私は一度も訪れていなかった。本堂までを階段を上って行けば200段はあろうかという高低差のところを、石野車で一気に本堂近くの駐車場まで行ってしまった。本堂には実に多くの、目玉2つが黒く塗られた達磨さんが置かれていた。


 黄檗宗禅宗のこの寺は達磨大師の教えを受け継ぐ縁起達磨発祥の寺として有名で、毎年正月6,7日に開かれるだるま市はかなりの人出で賑わい混み合うそうだ。秋の紅葉も有名で、私たちが訪れた時も見事な色合いを見せてくれた。マコちゃんが納経帖を持って社務所に向かうと、写経してくれる間にお経を唱えてくれた。マコちゃんには初めてのことだそうで、紅葉とだるまとともにこの寺の写経を覚えておくだろう。

 今回まででブログ「マーちゃんの数独日記」を終えます。始めたときにはこんなに長く続くとは思いもよらなかったのですが、14年7ヶ月近くに及びました。少し«数学帰り»をしようと思っています。長い間のご愛読を深く感謝申し上げます。有難うございました。
 
 
 


5年ぶりの草津(その1)

2023年12月03日 | 街道を行く

 実に5年ぶりに、草津に旅し中沢ビレッジ・タワー棟に2泊して来た。義理の妹の石野さん夫妻から私にお声が掛り、ご一緒に菅原さんもお誘いしませんかとの有難い話があった。
 11月27日(月)から29日(水)まで2泊3日の旅で、往復、菅原さんと私は池袋・籠原間は高崎線を利用し、籠原で石野さん夫妻と合流した後は籠原・草津間を石野車で移動した。特に高速道路を利用しない、今までとは違うルートで草津入りしたので、今までに見たことのない、印象深い風景に接することが出来た。
 11月27日(月)、籠原駅で合流後大きなスーパーで刺身・日本酒・ビール・つまみなどを購入。今回の宿泊は全く宿食には頼らず、全て持ち込んだものを部屋で食したので、宿泊費は1人1泊3950円と安上がりで済んだのだ(ホテルそばのコンビニで補充もしたが)。
 さて取ったルートは初めての道なので、通った道路名は分からなかったが、最初に着いたのが、群馬県中之条駅から山側に入った「道の駅霊山たけやま」。「道の駅」からは山頂が岩山の「嵩山」が実に良く見えた。嵩山は吾妻八景の一つで、山頂の大天狗からの眺望が素晴らしいとのこと。山内では胎内くぐりも出来るらしい。(写真:嵩山。山頂の右端の岩山が大天狗)
 私たちは嵩山を見た後、道の駅の一角にある「そば処けやき」に急いだ。ここの十割蕎麦が絶品とは来たことのある石野夫妻の弁。繋ぎが難しいと言われる十割蕎麦は滅多に食せない。流石に美味しかった。妹の石野マコちゃんは蕎がきを注文し、私も一口食べたがこれは蕎麦の味が十分味わえた。



 次に到着したのが「岩櫃山(いわびつやま)」を良く展望出来る地点だった。今までに何度も吾妻街道を通ったのだが、私は岩櫃山の存在に気が付かなかった。岩櫃山は標高802メートルの岩山で、吾妻八景を代表する景勝地。南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容は、中国の南画のような趣で、登山路も整備されているらしい。山頂からの眺望はすばらしく、眼下には東吾妻町や中之条町の市街地が、眼前には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めるそうな。今私の脚力では可能性は薄いが、新緑か紅葉のシーズンに登っみたい気を起させる山だ。その山容がしっかり見渡せる地点を案内してもらったのだ。(写真:岩櫃山)

 その日最後の見たのが、水が湛えられた「八ッ場ダム」だった。5年前ここを通過したときはまだ建築が進められていて喧騒が感じられたが、今回訪れた時は、人影は全く疎らだった。(写真:八ッ場あがつま湖







 名湯「川原湯温泉」は湖底に沈み、変わりに、高台には川原湯温泉宿が幾つか作られていた。川原湯駅にはエレベーターで下っていくので、まるで地下鉄に乗るような雰囲気だ。実際に駅に降り立っては見なかったが、駅からは湖が見えるらしく、«地下鉄駅»ではなく«地上駅»だ。 川原湯駅入口付近には記念碑と「元の湯源泉」が作られていた。大きな変りように驚きつつ湖面を見つめ、息子と万座プリンスホテルへ行く前夜宿泊した30数年前を思い出した。
 ここを最後に、車は一路草津温泉「中沢ヴィレッジ」を目指した。(写真:元の湯源泉)


“みちしるべ”を探しに(その1)

2020年09月06日 | 街道を行く

 『北区の古い道とみちしるべ』には「王子道をたどる」として次の記述がある。「王子道の道標銘は滝野川1丁目の西大原巡査派出所前の分岐点にある、庚申塔(元文5年)と観音塔に彫られている。前者は《これより右王子道 これより左弁天道》と彫り、後者は《右王子道 左せんりのたき いわやべんてん》と彫られている。(中略)ここから南へ向かうと大塚に至る折戸通りに至っている。後にこの道に並んで飛鳥山南麓へ電車が敷かれたのが、王子電車最初の軌道で都電荒川線となっているのである」と。ここまで読んできて、折戸通りからここに至る道も王子道だと知った。前回のブログで王子道として(5)を掲げたのはこの記述による。(写真:みちしるべ付近の都電と都電駅)

 最終ページの一覧には、現在地は滝野川1の77とあった。地図には⑨と⑩の番号が付いていた。この場所は都電「西ヶ原四丁目」のすぐ近くと予測し、9月1日(火)の早朝散歩はこのみちしるべを探しに出掛けた。

 都電通りを過ぎると交番が見えた。西大原巡査派出所は滝野川1丁目交番と名前を変えていたが、その前の分かれ道に2つの塔が建てられていた。私の予想より小さいものだったので、本当にこれかと疑い77番地を全部歩いて見たが、これ以外に塔は見当たらず、この塔こそが『北区の道』に登場するものだと一応納得した。



 4日に再度出かけ塔の高さを測定すると、一覧表の数値に一致したから間違いないと思う。この日は花が供えられていた。左が庚申塔で右が観音塔。その昔からこの様に花が添えられてきたのだろう。
それにしても彫られた字は“道”しか読めなかった。






 右に江戸時代の地図と道標位置(A地点)を記入したが、一番ビックリしたことは、この場所は私たちが結婚して直ぐに住んだ場所(B地点)から直線にして200mくらいの近距離にあったことだ。交番がここにあったことも思い出した。太いほうの道が王子道であることは納得できたが、細い方の道が「岩屋弁天道」とは信じられないほど細い道だった。それにしても岩屋弁天とは何だ?(A:みちしるべ B:昔住んだ辺り C:西ヶ原四丁目電停
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第3回中山道行 小田井宿から望月宿まで

2018年11月09日 | 街道を行く

 旅の2日目は小田井宿→(4.4Km)→岩村田宿→(5.7Km)→塩名田宿→(2.6Km)→八幡宿→(3.7Km)→望月宿の16.4Kmを巡った。








 ホテルの朝風呂に浸かった後、ホテル内の庭や付近を散策した。ひと際紅葉が鮮やか。朝7時半には妹夫婦の車がホテルに到着。小田井(おたい)宿へ向かう途中に、二人の良く知っているパン屋さん「ココラデ御代田」で朝食。人気のパン屋さんらしく既に混んでいた。美味しい菓子パン2個を食し、お代り自由のコーヒーを飲んだ後、店の裏庭に出て浅間山を眺めた。この日も快晴で、少し雲を纏った浅間山が秀麗。

 写真をして語らしめよ、で今日のブログは道中16枚の写真をご覧下さい。
 右写真は小田井宿の家並み。ここは浅間山麓の小さな静かな宿で、女性が安心して利用できたことから「姫の宿」と呼ばれたとかで、その雰囲気は今に残されている。江戸時代からの本陣・問屋・旅籠などの建物がよく保存されていた。
 
 
 右写真は岩村田宿手前・住吉神社の、こぶの多い欅。樹齢400年の巨木は「住吉の祠」と呼ばれているそうな(写真右)。神社付近には千手観音などの石仏群(写真下)。


 
 岩村田宿手前の龍雲寺は本堂の佇まいが美しい。武田信玄が再興し、後に遺骨が密かに葬られたと伝えられている(写真右)。私が中学生の頃、従兄弟のバイクイの後ろに乗せられて遊びに来た岩村田の商店街にはアーケードが作られている(写真下)。

 

  
岩村田宿から塩名田宿へは、10年前まで車でよく通った道。上信道を佐久インターで下車し、蓼科山麓を抜けて別荘に通った。写真右は駒形神社。騎乗の男女二神像を奉り、望月牧の東端に当たるとされているが、残念ながら二神を拝むことは出来なかった。

 

 右は塩名田宿問屋本陣。
信濃には15宿、木曽には11宿があった。そのなかで、ここだけ2軒の本陣があった。

 
 

 塩名田宿を過ぎると直ぐに千曲川。明治6年から26年まで舟橋があり、9艇の舟を板に掛けて渡したときに、舟を繋いでいた。下は街道に立つ一里塚跡
 

 八幡宿本陣跡。八幡宿を過ぎて望月宿少し手前に瓜生坂がある。
  

 この日、街道の何処からも浅間山が望めた。下は漸くの思いで到着した望月宿の建物。

 

 望月宿到着後タクシーで春日温泉もちづき荘へ。源泉かけ流しの湯が嬉しかった。

 今日の一葉:スカイツリーの真後ろに日の出後の太陽(8日撮影)
 



 
 















 
 

 
 

 


第3回中山道行 軽井沢宿から小田井宿まで

2018年11月06日 | 街道を行く

 11月1日から4日までの、4日間の中山道行は快晴にも恵まれ、一昨夜無事帰宅した。最大の難所・和田峠も越えることができた。
 『中山道 浪漫の旅』ではこの間の距離は71.3Kmで、実際に歩いた総数は159,528歩。1歩を55cmとやや少な目に計算しても約88Kmを移動したことになる。差異の17Kmは、道中以外の道のりや、道に迷った分や、脇道に入り神社にお参りした分等々がある。

 
初日、同行者3人は新高島平に6時20分に集合し、妹の夫ハムちゃんの運転で旧軽井沢へ。昨年のゴール地点「軽井沢一里塚跡」を9時20分にスタートした。軽井沢には紅葉がまだ残っていて美しい。旧軽井沢は日本で有数の別荘地域。その別荘の間を通る街道には人影は疎らで、所々の紅に彩られた静寂な風景を見ながらのスタートとなった。今回は道中全てが長野県。幼い頃から最近まで何度も遊びに行った地域。幾つもの懐かしい思い出と出会う旅でもあった。

 初日は軽井沢宿→(5.0Km)→沓掛宿→(4.6Km)→追分宿→(5.7Km)→小田井宿。









 右手に離山(はなれやま)を見ながら進むと、この日最初の宿沓掛。しかし、この宿の名はどこにも残っていない。直ぐ傍を通る「しなの鉄道」の駅名も中軽井沢に変えられて久しい。峠を控え旅人が沓(草鞋)を履き替え、履いていた古い沓を掛けて旅の安全を祈ったであろう謂れの宿名は、ビッグネイム軽井沢に乗っ取られてしまっていて悲しい。本陣跡も個人のお宅になってしまっていた。街道沿いの馬頭観音に往時を忍ぶ。(写真:本陣土屋の表札)

 

 追分宿では堀辰雄文学記念館に立ち寄った。(写真:文学館入口)














 追分宿の名は、その先で中山道と北国街道に分かれる「分去れ」から来ている。右は北国街道、左すれば中山道の別れである。現在ではその両街道を割くかのように国道18号線が走っている。
私の大きな勘違いはそこに起因していた。「分去れ」地点で18号線と北国街道は分かれる、別のものと勘違いしていたのだ。実は18号線は北国街道を継承して1952年に制定された。18号線≒北国街道なのだ。






 
 その分去れ地点に「中山道69次資料館」が立っていた。その脇にミニチュアの中山道。ここの資料館を開設したのが、『浪漫の旅』の著者岸本豊さん。翌朝妹から聞かされた話では妹夫婦は岸本さん夫妻と会話を交わしたことがあったそうな。その奇縁に驚かされる。中山道のミニチュアを歩き終え「これで中山道を歩き終えたことになるな」などと3人はほざいた。
 分去れからは長い長い下り。ここに古い思い出があった。中学生の頃、叔母住む御代田に遊びに来た私は1歳年下の従妹とよく遊んだ。その遊びの一つが駆けっこ。中山道を分去れまで駆け上り、そこから18号線を走り下って元の地点に戻って来る一周の駆けっこ。あの頃はここが中山道などとは知る由もなく、60数年後ここを往くとは想像を越えていた。
 御代田駅でしなの鉄道を潜り小田井宿着が15時。妹に電話を入れ、車で迎えに来てもらい、夕食をご馳走になり、ハーヴェストクラブ軽井沢まで送ってもらった。感謝!感謝!ホテルの湯に浸かり初日の疲れを癒した。
 
 今日の一葉:沿道から望む浅間山