市川猿之助が10月は新橋演舞場で、11月は明治座でと、2ヶ月連続の文字通り、奮闘の公演を勤めている。
幸運にも、私たちは、10月の新橋演舞場での、昼の部・夜の部両方のチケットを頂き、奮闘ぶりを堪能する事が出来た。
夜の部を観たのは10月13日(月・体育の日)。台風がまさに、関東地方を直撃しようとする夜。家を出るときには風雨はそれほど強くなかった。交通機関は地下鉄利用だから、電車が止まるようなことはよもやあるまと思いつつも、万一、帰りの時間帯に交通機関がストップした場合には、タクシーで帰宅しようと腹を括っての出発だった。それだけ、猿之助のスーパー歌舞伎を観たかったのだ。不思議にも台風前夜なのに空席は少ない。それほどに猿之助人気が高いのだ。 夜の部は通し狂言「獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)」のみの一本立て。お家騒動と仇討が絡み合う展開なのだが、筋はあって無きに等しい展開。私には理解不可能なほどの速い流れで物語は進行するが、この芝居、筋の理解が不十分でも、猿之助の演技で、十分過ぎるほど楽しめた。水中での、ずぶ濡れになっての立ち回り、宙乗り、化け猫の怪異、早替わり等々。
何せ十八役の早替わりが凄い。人物入れ替わりの手品を見ているような場面もあった。最大の見せ場は宙乗り。昼の部「金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)」の宙乗りでは、天井から金の短冊が降ってきた。私たちはこれを手掴みして、記念にした。
歌舞伎は、観客を楽しませようと数々の工夫を凝らしてしてきたことだろう。その集大成が、猿之助のスーパー歌舞伎だと思う。(写真:左は夜の部の猿之助。右は昼の部の清姫と忠文の合体の”双面”)
(宙乗りの猿之助)
幕間に隣席の老婦人と話した。小諸から新幹線利用でやって来たのだ、「先代猿之助を贔屓にしていました、夫が存命の頃は、娘の所に泊まって夜・昼の部を見てから、特急”あさま”で帰ったものです」と語られた。三代目猿之助が確立した復活通し狂言を懐かしむだけでなく、果敢にその役に挑む、当代猿之助の大立ち回りに心躍らせる老婦人。80代とのことだった。脱帽!
東京新聞演劇評蘭は「十八役を鮮やかに演じ分けるのは、歌舞伎の役柄の基本が身についているからだ、宙乗りや立廻りも力が抜けて素晴らしい」と絶賛した。機会があれば、猿之助の舞台、更に見続けたい。帰路、奇跡的にも雨は止んでいた。
10月25日(土)も忙しい一日だった。
午前中は「伊勢物語」講座へ参加。会終了後は、その「源氏の会」の皆さんを昼食から浅草までご案内。午後3時にはご一行と別れ、目黒で開かれるクラス会へと向かった。 『伊勢物語』全125段のうち、今回が第23段~第25段。第9段は既に読了していて、そこには有名な”都鳥”が登場していた。本物語の主人公・在原業平は二条后との密会が世に知られることとなり、”身を要なきものに思ひなして、京にはあらじ、東のかたに住むべき国求めに、とて”やって来た東国で、角田河(現隅田川)を舟で越えた。「名にしおはばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやと」の歌で名高い場面だ。
ではどの辺りで渡舟したのか。江戸時代末期には現言問橋付近と信じられ、その辺りは「言問ヶ岡」などと呼ばれ、当時の牛嶋神社参拝客目当てに”言問団子”と命名して売り出した団子は大当たりしたこともあったが、ここではない。
言問橋の上流に架かるのは桜橋。江戸時代は「竹家の渡し」と呼ばれたが、実はここでもなく、更に上流に掛かる白髭橋(かっての白髭の渡し)と現水神大橋の間というのが有力。・・・これらは妻のレポートからの抜き書きだが・・・。
兎も角『伊勢物語』を読む会としては、向島百花園直ぐそばに住む島谷さんと妻をガイドとして、それらの橋々を眺めては往時を忍び、併せて牛嶋神社などを巡ろうという計画を実行に移したのだった。(写真:「伊勢物語」色紙:渡川の業平たち)
当日のコースは
海上海(昼食)→上野広小路→浅草→吾妻橋→牛嶋神社→言問橋の袂→三囲(みめぐり)神社→向島百花園 と巡った。
私は吾妻橋渡った後、一時一行とは別れ、桜橋袂の「長命寺桜もち」へと急いだ。予め、6個入(1350円)7つと、バラ(200円)9個を注文しておき、午後2時に受け取り、三囲神社に引き返し、再会した。 この三囲神社、見るべきものは多かった。有名なのは三井から寄贈されたライオン像。2頭が揃えば、”狛犬状”のライオン像となってしまうが、幸い一頭のみ。この前で記念撮影。更に、奥には三角形の鳥居が立っていた。詳しくは調べていないが、これまた珍しい例と思う。(三囲の”囲”から”口”を取れば三井となる。それがあって、三井は三囲神社のスポンサーとなった、と私は推理している)
この時点で3時を回り、私は目黒「やまきた」のクラス会へと急いだ。買った桜もちを食したのは、クラス会から帰宅した22時であった。流石に、もちもちとしたお餅、美味だった。
(三角形をなす鳥居。三井の三と関係あるか?)
(三囲神社正面。ライオン像も見える)
10月25日(土)、目黒の蕎麦処「やまきた」で3年振りの第15回クラス会を開いた。目黒3中の、1957(昭和32)年3月卒の3年E組生は何と56名(実に多かった。亡くなられた方3名)。その内、住所が判明している方は29名で、インターネットと葉書で開催のお知らせをしたところ、参加者は12名(不参加連絡6名)。多分今までで一番少ない参加者だったと思う。
17時開会。19時半閉会予定のところ20時まで延長してもらい、盛会のうちに終了。このお店で一番広い、12名収容の洋室。人数的にはゆとりある席で、蕎麦懐石(4000円)を、時間内に食べ終われる様に、上手に料理を出してくれた。最後に手打ちそばが供された。低温貯蔵の石臼そば粉を使用しての新そば。皆これは旨いと食した。お代わり自由と言われ、ソバ好きの私は、その親切を無駄にはしなかった。店員の接客態度も好感度高く、次回クラス会もここと決めた。
司会は石井君で、参加者全員に一言語って頂いた。今回は病の話より、”健康の秘訣”が多かった様に思う。早朝散歩・ラジオ体操・ペタンク・バドミントン・ハイキング・農作業・ヨガ・ボウリング等々が登場した。多摩川を上流から東京湾まで歩いた話も披瀝された。私は自慢げに、毎日の”千段階段”。思えばクラス会に来られる方は、どちらかという”健康エリート”むべなるかな。
既に大半は73歳、老いさき短いかもしれない寿命。そこで、幹事からは、3年に一度のクラス会を2年一度に短縮しませんかと提案し、OK。
2次会は目黒駅前の「珈琲茶館 集(しゅう)」へ。
9月に、馬場さんと私は、2次会の場所を探して目黒周辺をウロツイた。どこの喫茶店も土曜の夜時間の予約はNOだったが、ここ「集」は色好い返事。美味いコーヒーで、”談話室”を売り物にした喫茶店。値段はコーヒー一杯900円とお高いが、ゆったりしたスペースで、かっての「滝沢」、現在の「椿」の様な喫茶店。それが目黒にもあった。喜んでここを予約しておいたのだ。
11名参加で、会話が弾んでいると、同じような集団を発見。きっとクラス会と直感した私は、物好きにも出かけていって尋ねた。応えて曰く「都立小山台高校で、昭和34年卒業」と。聞いて吃驚。全定の違いはあるが、同窓の先輩達だった。
遅れて入ってきた一団もクラス会の雰囲気あり。これまた話を聞くと「目黒4中卒」とのこと。お隣の中学だった。かくして、この夜、この狭い珈琲茶館「集」には、目黒近辺の中・高卒のクラス会が3組も集う不思議さ。
終わりまで気持ちの佳いクラス会は無事終了した。友よ2年後に。
10月21日のブログの続きです。20日、152号線を南下していた私たちは分杭峠を過ぎ、13時半頃大鹿村に到着した。
④大鹿村にて 実は前日の10月19日の第3日曜日は大鹿歌舞伎の日だった。映画『大鹿村騒動記』に登場した歌舞伎。しかし、日程の関係で、残念ながら今年はこの歌舞伎を観る事は出来なかった。村役場には、大きなイベントを終えてホットした雰囲気が流れ、観光担当の方も、私達のような、突然の訪問客に、ゆとりある丁寧な態度で接してくれた。「するぎ農園」のチラシを見た私たちは、そこでの手打ちそばのお味について尋ねると「非常に美味しいです」との返事で、早速、そこへ出掛けた。(写真:大鹿歌舞伎。ポスターを写す)
⑤「するぎ農園」にて 152号線を外れ、山道を3.5キロ入った奥山にその店はあった。まずその建物に驚いた。大鹿村が17年前に気合いを入れて建築した、天井の高い古民家。その中で、打ちたての新蕎麦を食した。役場の方が語った様に、絶妙のお味で、香りも佳かった。
後刻気がつくのだが、実は大鹿村は塩を製造していて、その塩で頂いた、よもぎ・ささげなどの野菜天ぷらも格別に美味しかった。来年には、歌舞伎見物を兼ねて、この農園を再訪したいと思わせる、野趣満点の雰囲気がここにはあった。打ち手に、遠山郷への所要時間を訪ねると「ここから先は152号線は、細くて、すれ違うのに難渋しますよ」とのこと。農園の近くで”古秋葉街道”を発見していたが、雨も降り出してきていたので、今回は古道を歩くこともせず、残念ながらここで152号線を行くことを断念した。(写真:するぎ農園内部)
(高い天井)
(打ち立て、茹でたての新蕎麦)
(一部食してしまった野菜天ぷら)
⑥大鹿村→遠山郷
村役場からは大鹿トンネルを抜け、まずは松川を目指した。この道は砂利トラックが何台も行き来する国道で、雨が強くなる中、慎重な運転を強いられた。松川から飯田に抜けたが、カーナビは「矢筈トンネル」を指示してくれなかった。途中そのことに気がついたが、時すでに遅し。既にかなり南下していたので、やむなく天竜川沿いの道を下り、平岡からからは幾つものトンネルを抜け遠山郷を目指した。
この日は西軽井沢を9時25分に発ち、遠山郷着が17時丁度。走行距離は200キロを超えていた。
一本の車道として連続していない152号線の険しさを実感した一日だった。遠山郷は遠かった。
⑦遠山郷で 宿泊先は、8月上旬に連泊した「かぐら山荘」。そこに隣接する「かぐらの湯」は”鄙にはまれな”温泉で、檜造りの露天風呂や低温の湯などが充実した、半掛け流しの温泉。思いっきり手足を伸ばし、旅の疲れを癒した。(写真:かぐらの湯入口付近)
10月22日(水)、信州からの帰途、中央高速道「駒ヶ岳SA」で、Aさんが急逝されたことを知った。享年64歳の若さだった。
Aさんとは同じ職場になったことはない。Aさん夫人とは向丘高校で同じ学年を組んで以来のお付き合いで、少なくも年に一度、飛鳥山の花見の宴などでお会いしている。
Aさんとは、10年ほど前に、二人の共通の友人の菅原さんを通じて知り合い、蓼科の別荘に宿泊して頂いて、何回か、一緒にゴルフに興じたことがあった。別荘での夜に、二人だけで一献を交わし、語り合ったこともあったように記憶している。
50歳で既に百名山を完登。それも単独行が多いとお聞きした。彼のあまりに速い登山ペースに、多くの人はついていけないほどの健脚だった。ウインド・サーフィンもするほどスポーツ好きで、活動的な生き方。60歳の定年後も再任用として働かれていた。
旅から帰宅して。菅原さんに電話をして、亡くなられた時の様子を聞いた。ゴルフ中での急逝とのこと。明日がお通夜とのことだが、お元気だった方の、あまりにお早いご逝去に、私は大きなショックを受け、昨夜は脱力状態に陥ってしまった。同じように数学を学んだ後に教員となり、百名山に登るなど似ている状況が影響してるかもしれない。ただただご冥福をお祈りするだけである。