マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「万灯回り」に同行して撮影

2019年07月01日 | 本駒込

 今年も富士神社大祭が始まった。梅雨時の催事とあって天候が心配だが、昨日から今日の昼まで微かに雨が降った程度で祭りは順調に行われている。昨日は山開きの冒頭の「万灯回り」が行われ、最初から最後まで神事に同行させて頂いて、その模様を撮影して来た。





 実は5月の初旬に、「こまじいの家」の主(あるじ)秋元さんから電話があった。「勤労福祉センター」(以下勤福)
の所長から依頼の電話がありますとのこと。翌日、勤福の所長さんからの電話で、「協働のまちづくり講座」で本駒込周辺の魅力と歴史に関する話をお願い出来ればとのことだった。
 昨年の3月に「アカデミー文京」の”文の京18の町物語を聞く”講座の臨時講師を引き受けた時に私が話した内容が「本駒込」で、作成したパワポがあったので、お引き受けしても良いなと思い、直接所長さんにお会いした。パワポの画像の半分くらいをお見せするとそれで結構ですということで、開催日は10月12日(土)と決まった。
 パワポの映像は古いものもあり、一部は撮影し直そうと考えて、まずは万灯回りを思い浮かべた。そこで富士講の役職に就いている、町会長に事情を話して、撮影をお願いすると快諾を頂き、昨日の撮影となった。

 6月30日、10時前に富士神社に着くと、屋台の準備を急ぐ人々の活気ある姿が目に入った。そこを抜けると社務所前に万灯が置かれていた。10時少し前、富士講の元締めの発声で講の方々はお神酒を口に、万灯は、禰宜さんを中心にして、富士講の方々15名ほどと神社をスタートした。



 富士神社→稲荷坂→不忍通り→動坂→駒込病院前通り→本郷通り→信号で折り返し→本郷通り→富士神社と、万灯は台車に乗せられて、幾つかの町会を回ってきた。その間約1時間半。







 

 神社に戻って来てからが大変だった。ここからは台車ではなく一人の力持ちが万灯を担いで本殿への23階段を昇り、更に神社の裏に通じる道を一周し、最後に万灯を鳥居の横のポールに入れた。その後、禰宜さんと富士講の方々は神社にお参りして神事は終わった。
 万灯とは多くの提灯をかざしたものだったのだろうが、現在、富士神社の万灯回りに灯りは登場しない。しかし、8月28日の鎮火祭まで火は燃え続けることとなる。







    


面白くなってきたボウリング

2018年03月24日 | 本駒込

 70代になって始めたボウリング、まだ続けている。楽しいから続けて来たボウリングだが、最近では面白いとも感じられるようになって来ている。
 エクセルでこの間のスコアを記録し続け、それを見ると最初は2011年10月31日とあった。現在も東京ドームボウリングセンターを利用し、もう6年半通っていることになる。現在はここの会員となり、毎週火曜日にプロの先生の指導を受け、木曜日には富士前福寿会の仲間3人と投げ合う。
 年間のスコアー平均をみると、113,122,120,119,139,134,139,151と変化してきた。3年前など絶好調と思える時期もあったが一昨年などは前に逆戻りの時期もあった。
 
今年になって1ゲームの平均値が150を超え始め、2日前の22日(木)は1ゲームで自己最高の214点を記録した。私はそうとは気が付かなかった。熊坂さんが掲示されるスコアーを写真に撮っておこうかと言ってくれたが、自己最高は220点と信じていた私は、「いいよ」と断ってしまった。勘違いだった。自己ベストは213点だった。記憶力の方は確実に低下している。
 ボウリングでストライクが出た時は快感である。しかしそれはたまにしか起こらない。それよりも、良い点を出すには「スペア」と呼ばれ、2投目で残ったピンを全て倒すことが大事。それがママならないことが多く、無念の思いを繰り返して来た。最近はその「スペア」を取れることが多くなってきていてる。得点アップより、それでボウリングが面白くなって来ているのだと思う。

 何故「スペア」の率が高くなってきたのかはよく分からない。一時的なことかも知れない。私にはスピードでピンを倒せる腕力がない。そこで「フックボール」と呼ばれる回転ボールを投げるのだが、そのコントロールが良くなってきているのかも知れない。
 以下は3月22日第2投のスコアー記録。「×」がストライク・「/」がスペア。
  
 


『吾輩は猫である』から出発し、巣鴨病院へ(本駒込3)

2018年03月18日 | 本駒込

 昨年、妻が『吾輩は猫である』を再読した時に気が付いたことで、私の発見ではないが・・・。
 『猫』文中に「巣鴨」という文字が登場するそうだ。(以下ページ数は『現代日本文学大系17 夏目漱石集(一)』より)。例えば
 (
1)p130 「・・・ 在巣鴨 天道公平 再拝・・・」
 (2)p139 「・・・天道公平事(こと)実名立町老梅は純然たる狂人であって、現に巣鴨の病院に起居している。・・・」
 
この文章から天道公平が入院している巣鴨の病院について、その病院は何処にあった何という名前の病院かを調べたらしい。その結果、ネット上「江戸東京医学散歩」(http://sisoken.la.coocan.jp/edotokyo.html)なるサイトに行きつき、「巣鴨」は巣鴨病院と分かり、私に教えてくれた。

 そのサイトの70番目の話題として「日本医師会館・文京グリーンコート:旧理化学研究所跡・東京府巣鴨病院跡」が取り上げられ、「『江戸東京』で、榊俶の事跡を調べていて、日本医師会館や文京グリーンコートのある周辺一帯が、明治から大正のはじめまで東京府巣鴨病院(明治19年6月21日新築。旧小石川区巣鴨駕籠町から旧本郷区上富士前町)の敷地であったことがわかりました」とあった。
 ここで初めて、私は現文京グリーンコートの周辺一帯の前身が東京巣鴨病院であることを知った。(写真:グリーンコート内の理研の写真)

 「巣鴨病院の跡地に建てられたのが理化学研究所と府立5中(現小石川中高校)」との記述をほぼ信じたが、このサイトの文章だけに頼るのではなく、他の情報も知りたくて、府立5中の資料を公開している、小石川高校(現在名 小石川中等教育学校)を訪ねた。
 事務室でその旨を告げると、資料室の鍵を渡された。そこからは自分だけの行動だった。資料室には色々なものが展示されていたが、右の「小石川検定」がその間の事情をよく説明していた。そこに書かれていたことを要約する。










   

 「
府立5中は大正7(1918)年、小石川区駕籠町の東京府巣鴨病院が移転した跡地に建てられた。校地の候補地は幾つかあって、上富士前にあった牛舎や荏原郡松沢村上北沢の都立松沢病院に移転する東京府巣鴨病院跡地が候補に上がっていた。府立病院の方がほうが費用が安く済むので巣鴨病院跡地に決定した」とあった。


 それ以外にも面白い事が書かれていた。
 
「岩崎家別邸やその周辺はうさぎやたぬきが生息する土地でした。明治中頃より牛乳の需要が高まり 東京市内への牛乳の供給のため本郷から巣鴨周辺に牧場や牛舎がかなりあった。駕籠町から上富士前に抜ける不忍通りもまだありませんでした」
 整理をすると現グリーンコートの敷地は、その前身を遡って行けば、グリーンコート⇒科研製薬⇒理化学研究所⇒巣鴨病院⇒岩崎駒込邸⇒柳沢下屋敷となる。
 小石川高校の創立が1918年と知り、今年が創立100周年。盛大な式典が行われるだろうなと推定している。巣鴨病院は松沢病院へ移転したとあるように、そこには精神科が置かれていた。(写真:府立5中開校数年後の写真。不忍通りはまだない)


『文の京(みやこ)十八の町物語を聞く 本駒込』を話し終えて

2018年03月12日 | 本駒込


 2日前の3月10日(土)、「文京アカ
デミア講座」で”本駒込”を一応無事話し終えて、正直なところほっとしている。その一方で、振り返れば反省点が多い。全体構成としては、話したいことが膨れ上がり過ぎた内容となっていた。その結果、90分では語り終えそうもなくなり、後半はあせって、駆け足の話となってしまった。教員時代に心掛けていた「丁寧で、分かる授業」にはならなかったように思う。
 この講座、20人の定員に対して74人もの申し込みがあり、急遽40名に増加変更しての開催だった。場所も「アトリエ」からより広い「レクリエーションホール」に変更になった。講座の形式は講義式ではなく座談式。
 私はスクリーンとプロジェクターを用意してもらい、「Power Point」に取り込んでおいた145枚の映像などを映し出しながら話を進めた。話す内容のポイントを予めメモ作成しておいて、ところどころではそれを見ながら話を進める予定だった。しかし、右手ではパソコンとレーザーポインターの操作、左手にはマイク。メモを見る余裕がなくなった場面もあった。やはり語るべき内容は全てを頭に叩き込んでおいたほうが良かった。記憶力の低下している今日、それは難しいかもしれないが・・・。ウケ狙いの話を語り忘れて残念な思いもしている。声の大きい私はマイク不要だったかも。

 企画者側がこの講座担当にと思いを定めていた方が病となり、私にお鉢が回ってきた。企画担当者Mさんは、私との初めて打ち合わせで「素顔の本駒込をお話し下さい」と狙いを語った。私もその方向で構成を考え始めたが、何を語れば「素顔」を語れるのか意外に焦点が定まらず考え込んでしまった。結局、本駒込の住民などが多数集まり、その素顔が見られる場面とその場所の歴史を紹介しようと決めて準備を始めた。

 講座終了直後に担当をされたMさんからメールがあり、「本日はありがとうございました。皆様”本当に詳しいお話でよかった”と喜んでいらっしゃいました」とあった。過分の評価で、外交辞令もあるだろうが嬉しかった。アンケートが実施されたかどうかは分からないが「面白かった」や「良かった」などの生の感想が二三聞こえて来て、胸を撫で下してもいる。
 随分以前から、講演の多くがプロジェクターを用い、映像を映した上でのヴィジュアルな講演となっている。「お話会」などで、私にその様な役割が回ってくるようなことがあれば、より工夫を凝らして「Power Point」を活用したい。
 講座で語った話でこのブログ未登場の話題は今後この場に登場させたいが、今日は「素顔の本駒込」題した5のタイトルのみを、各タイトル毎に
2枚のスライドを掲げる。

(1)お祭りに汗流す人々・・・天祖神社







    

(2)
時に縁日に興じ、日々は早起きしてラジオ体操・・・富士神社






  

(3)花を愛でる・・・吉祥寺・六義園・江岸寺







  

(4)買い物を楽しむ・・・グリーンコート・巣鴨病院・小石川高校





  
(5)除夜の鐘撞く・・・徳源院・吉祥寺








  


駒込神明町貝塚(本駒込2)

2018年03月09日 | 本駒込

 かつてイベント「文京区海岸物語」に参加した時に、ボランティアガイドさんに見せてもらった地図に「駒込神明町貝塚」と名付けられた地点があった。“貝塚”という言葉が気になったが、それ以上に“駒込神明町”とは捨ておけない言葉だった。

 「駒込神明町」は現在の本駒込3丁目~5丁目辺り。私の住んでいる本駒込2丁目とは隣り合い、すぐそばの街だ。その辺りに貝塚があるとの話は聞いたこともないし、それを示す標識を見たこともなかった。(写真:右がその図。(駒込)神明町貝塚とある)
 アカデミー文京で「本駒込」について話をする上でも是非知っておきたいと思い、3月2日に「文京ふるさと歴史館」を訪ねた。いきなり受付の方に聞いてみたが、「分かりません」とのこと。学芸員不在の日だったのかも知れない。


 館内には「文京区遺跡一覧表」が掲示されその一つに「駒込神明町貝塚」があった。許可書を提出して写真を撮らせてもらったが、その一覧には地図上の場所とその地域、「遺跡の概要」として「台地・集落跡・住居跡」と書かれているだけで、貝塚の実態はなにも分からなかった。(写真:微かに27と見える地域が駒込神明町貝塚)







 後日、「文京区図書館」に“神明町貝塚”を項目にして検索すると『駒込神明町貝塚 第3地点』がフィットした。借りてきて早速読んだところ面白い事が幾つか分かってきた。(写真:借りた資料。その上の道路は不忍通り)
 昭和3(1928)年に駒込神明町の水谷邸での発掘で、縄文時代の貝塚が発見され、昭和63(1988)年の調査では、縄文土器・磨製石斧・木製品が出土していた。それらの事を受けて、駒込神明町(現在は本駒込3丁目~5丁目)の一帯は、縄文時代・近世の遺跡として登録され「駒込神明町貝塚」(区No27)と名付けられた。
 そうなると「埋蔵文化財包蔵地」に該当し、簡単には建設の為に土を掘りかえせなくなり、建物を建設する場合、教育委員会に対して「埋蔵文化財存否」の照会を求めなければならなった。
 その具体的一例として、富士神社脇の「駒込備蓄倉庫」の建設がある。その話は意外な事実で、面白い内容を含んでいたが、あと2日後に迫ったアカデミー文京での「お話」の準備のために時間が取れない。それは後日に回すことにして、今日のブログはこれまでとします。
 兎も角「駒込神明町貝塚」の命名理由とその所在地が確定して一安心し、自分が住んでいる近辺にはかつて縄文人が生活していたことを知って何か嬉しい。(以下参考)
 (本駒込の遺跡) 14:動坂。15:富士神社古墳。16:上富士前町
 27:駒込神明町貝塚。68:駒込富士前。59:(名称は駕籠町)。
 85:柳沢家駒込屋敷