マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『再任用更新拒絶』裁判の高裁判決

2019年08月31日 | 裁判

 8月28日(水)、“再任用更新拒絶”裁判の高裁判決があった。控訴棄却だった。
 初めての経験だが、裁判長が6つの判決を同時に申し渡す瞬間を傍聴・目撃した。裁判名は4桁の番号で呼ばれ、「〇〇〇〇号控訴事件の控訴棄却・・・」、「〇〇〇〇号控訴事件の控訴棄却・・・」
と続き、最後に“再任用更新拒絶”裁判の番号4007号が読み上げられ、固唾を飲んで判決に耳を傾けた結果が控訴棄却。秋吉仁美裁判長が担当する裁判は十把一絡げの様に、6つ判決が同時に申し渡されて閉廷。この間10分位。

 この日、支援する会々員の私は判決文20部増し刷りする仕事を任されていた。判決が言い渡された後直ぐ、Mさんと2人、弁護士さんに付いて10数階に直行し、そこで判決文3部のうちの1部を貰い、虎ノ門にある印刷所に向かった。最近のコピー機は性能が優れ、ボタン設定で20部のコピーが両面印刷・ホチキス止めで仕上がって来た。急いで裁判所に戻り、裁判所内にある司法記者クラブでの記者会見を覗いた。壇上には原告3人と弁護士2人が並び、代表記者の質問に答えていた。私は遅れての到着だったが、原告3人の感想が聞けた。ただ翌日の東京新聞にはその記事は掲載されていなかった。
 15時からは弁護士会館内での報告集会。30名は参加しただろうか。ここでも原告3人の感想を聞けた。不当判決に怒りと悔しさが渦巻いていた。

 高裁審理の中で、それまでブラックボックスだった再任用選考の合格点・不合格点などが明らかにされた。推薦書・校長面接評定・副校長面接評定のA、B、C、Dは何れも5点満点の5・4・2・0点に換算され、その3つの合計点が10点以上が合格で、9点以下は不合格。この選考基準だと、推薦書が‘最高A(=5点)でも、15分間の校長・副校長による面接評価がC・Cならば合計点9点で不合格。現に元同僚小海さんはC・D・Dの、合計点2点で不合格。いくら推薦書点が最高のAでも、校長・副校長の一存で簡単に不合格となってしまうのだ。人一倍気合を入れて働く小海さん。教育に関する意見をハッキリ表明したかも知れない。それを根に持っての評価としか考えられない。彼自身も感想でもそう語っていた。(写真:再掲の換算点数表。)
 任命権者側の“裁量権”が一人歩きしている。年金支給年齢が引き上げられ、定年後の労働は必須となった今日、その裁量権の逸脱・濫用は許されない。東京都教育委員会の選考基準が裁量権の逸脱となっていないか否かを、具体的実例を前にして、慎重に審理すべきだったのだが、高裁判決はそこには全く触れないでの控訴棄却。
 定年後も再任用教員として誠実に職務を遂行して来た3人にたいし、再任用の任期満了まで2ヶ月という直前になって唐突に何ら理由を示すこともせずの再任用不合格。これは裁量権を遥かに逸脱している。弱いものが最後に頼るのが司法。しかし、日本の司法は弱者の味方にはなっていないことを目の当たりにして暗澹たる思いだ。
 

 
 
 


展望ラウンジにBARがオープン

2019年08月29日 | 東京散歩

 5月の初め頃だったか、文京区シビックセンター25階にある展望ラウンジに期間限定でBARがオープンすると知った。普段、展望ラウンジは飲酒禁止だが、月に2日間だけ飲酒可能日を設けたのだ。例えば5月は24日(金)が17時~21時、25日(土)は12時~20時が開放時間とあった。珍しい体験となりそうなので、これは是非出掛けようと思ったのだが、日程の都合が付かなかったり、雨天だったりしてその機会はなかなかやって来なかった。
 アカデミー推進課に問い合わせ、8月は24日(土)がイベント日と知り、古くからの友人とここで待ち合わせた。私達は妻と二人で出掛けていった。今夏、私一人あちこちへ出掛け、二人では旅行にも行っていなかったので、罪滅ぼしに、体調好調ではない妻を誘うと一緒に行くとのことだった。

 展望ラウンジは久し振りだった。25階だけあって展望が素晴らしい。ラウンジは円形の造りで、完全一周出来ないのが残念だが、それでも都心部の殆どが見渡せる。実に多くの高層ビルが造られていて、名前の分からないビルもある。晴れていれば富士山や丹沢山塊も望めるのだが、この日は空は霞んでいて山脈の展望は無理だった。テーブルに腰掛け、生ビールを味わった。誰でも自由に演奏できるピアノが置かれ、演奏曲が流れてきた。



 遠くに江北橋が見える。緑濃きところは小石川植物園。眼下には小石川後楽園。新宿の高層ビル群と池袋のサンシャイン60の間には超高層ビルは無い。微かに私達が住むマンションも望めた。但し、このラウンジの目の前は再開発途上で、高層ビル建設されている。何階建てのビルか。高さが気に掛かってしまう。(写真:小石川後楽園)
 夜景は観ることなく友とはここで別れた。
 
 今日の二葉:ご近所に咲くサルスベリ

  



 


卒業生と池袋で昼食

2019年08月27日 | 身辺雑記

 8月24日(土)、池袋「音音」(おとおと)で向丘高校の卒業生3名と昼食会。元教員は菅原さんと私。
 もう30年ほど前、昭和60(1985)年入学の卒業生とはスキーなどによく一緒に出掛けたものだった。それが、何時頃からだったか、疎遠となり、年賀状の挨拶程度の行き来程度になっていた。7月に入りその卒業生の1人Tさんから菅原さんに連絡が入り、再会の運びとなった。
 再会場所はTさんが選んだ板前ごはん「音音」。明治通りを隔て「無印商品」の反対側のビル5階にあった。洒落た作りの廊下を通り、椅子席の個室に案内され、まづは生ビールで乾杯。




 彼女達は今年で50歳になるそうな。最後に会ったのはいつ頃かという話から、どうやら25年振りの再会と知った。皆その頃の面影を十分残していた。私は「声は昔のまんまですね」と言われた。そう、声のみは変わらないのが世の常なのだ。
 話は当然在学中の数々や友達のことに及んだ。懐かしい話や楽しかった話題、恥ずかしい思い出も登場した。中でも彼女たちが2年生の時に行った修学旅行。最後の宿は厳島で、分宿となり、菅原さんと私が担任した2クラスが同じ宿で、添乗員も私達二人も寝坊したらしい。朝食終了が他の宿のクラスよりだいぶ遅くなり、出発も相当遅れた。私達はまったく忘れていたが、元生徒さんはそういったことは良く覚えているものらしい。
 三人とも現役の働き手だった。キャリアウーマンで海外出張が定期的に入るのがTさん。子どもさんが20歳となり、子育てが漸く終了したのがSさん。勤務先の保養所が越後湯沢にあり、そこに7・8人で宿泊してスキーをしたこともあった。その職場は既に辞め、事務職を転々としていますと語るのがYさん。それぞれの25年間は一回だけの再会では語り尽くせなかったのだろう。再度の昼食会(?)は11月と決めてお開きとなった。


『天草島原一揆後を治めた代官鈴木重成』(著:田口孝雄)

2019年08月25日 | 読書

 妻は最近読んだ『天草島原一揆後を治めた代官鈴木重成』にいたく感心し、その読後感をブログに書いていた。私はそのブログを読んで、その著作ともどもそのブログを紹介したいと思った。私はブログを始めて10年になり、訪問者が時として500人を超える時がある。2年ほど前にブログ開設した妻のブログへの訪問者より圧倒的に多い。この本を多くの人に知って貰いたいとの妻側の思惑もあって、今日は(も?)妻文からの拝借である。



 
『驚いた。こんな人がいたなんて。「知らないことが多すぎる」わけだが、この人については知らない人が圧倒的だろう。

 「島原の乱」後、キリシタン弾圧強化、長い鎖国、「それでも隠れキリシタンとして信仰が残った」ぐらいの認識だった。処罰された領主達に代わった新領主達の領地経営だったのだろうが、残った領民達は苦難を強いられた、と多くが思ってしまう。ところが、そうではなかった、というのが本書である。
 読み捨ててしまうのが惜しい、真面目なまじめな本である。著者は、天草市鈴木神社の宮司さん。長く高校の先生をなさっていた方で、このお作は、とにかく読みやすい。屈指の名著ではなかろうか。

 重成は、三河武士である。家康に仕えた旗本であり、27歳の時には大阪冬の陣、夏の陣にも出陣し、家康死後も代々の将軍に仕え、島原一揆(と本書にある)時には、「五畿内の代官」衆の1人として大坂にいた。島原一揆の事後処理が当初の目的だった松平信綱に請われて、同行することになった。これが、「鈴木重成が歴史の表舞台に躍り出た一瞬」と、田口さんは書かれる。

  一揆後、信綱に命じられて、重成は天草代官(後島原代官も兼務)となり、天草の半分・島原の南部の荒廃地を、藩を越えて特命・特区のように、”国の仕事”として、復興の仕事を担った。天草で、人口25,000人→17,600人、田畑の1/4(8,732石)が亡所。島原はデータが無いがその比ではなく、7ヶ村は全滅、半数以上もいくつか、とか。重成→幕閣 の命で行われたのが、①天領・西国諸藩からの移民(以後50年も) 3年間年貢免除。
 ②年貢率 寛永20年~16年間 田23% 畑18%。一揆の真の原因が元領主の苛斂誅求にあったとする認識からで、当時の年貢は40~60%だから、凄い数字。これを実現するために自刃した、ということも伝わるが、病死説もあり不明。

 ③一揆終結1年後の原城戦死者の亡魂供養。蜂起10年後、碑を建てて鎮魂の法要。終結10年後の亡魂供養。
 これは、仏教的な「怨親平等」観に依るもので、敵味方の死者の霊を供養し平等に極楽往生させることを意味し、遊行寺には関東管領と鎌倉公方の合戦の「敵御方供養塔」が現存しているそうだ。蒙古襲来の後も双方の霊を弔ったとあるが、このキリシタン供養を、宗教の相違をも超えたことだったと、既に、『岩波仏教辞典』は、評価している。重成は、天草赴任以前、大坂で豊臣家臣の追善供養を行っているが、これは、恩義ある主君家康の豊臣滅亡後の豊国社迫害に対する意志表示ではなかろうか、と田口さん。体制派であろうと、忖度者ばかりではなかろう、封建時代だってサ。』


「江戸上水基礎講座(その3 玉川上水 2)」を受講

2019年08月23日 | 学び舎

 玉川上水に関して、前回同様「基礎講座」のまとめを綴ることにする。(写真:水道歴史館のパンフレットより)













 〇玉川上水の水路
 玉川上水は多摩川を水源とし、羽村堰から取水される。羽村堰は多摩川の屈曲する地を選び、投渡堰と呼ばれる破壊堰(丸太や木の枝、砂利などで造られ、洪水時には堰を取り払うことが出来る)で水をせき止めて、左岸から上水堀に引き込んでいた。(写真右:現代の投渡堰。土木学会選奨土木遺産に認定されている)

 上水堀部分は、大木戸門に達するまでに33ヵ所に「分水」(用水)が設けられ、飲み水とともに灌漑用水として周辺の村々に配られた。有名な、青山・三田・千川は一時期「上水」として江戸市中に導かれたが、享保7年(1722)に廃止となった。灌漑用水が供給されたことにより、多摩地区での農業は飛躍的に発展した。(下の写真は『上水記』より。)

 

 四谷大木戸門から地下に潜り、四谷見付門の手前で江戸城方向へ外堀を越えるものと南下し虎ノ門に向かうものに分かれた。江戸城内には半蔵門から入った。

 〇玉川上水の構造
 羽村堰→
四谷大木戸門は開渠。暗渠部分は四谷大木戸門→四谷見付→虎ノ門付近のみ石樋で、市中の大部分は木樋や竹樋。市中では水圧がないため、水の利用は上水井戸から釣瓶で汲み上げられた。
 羽村堰→四谷大木戸間は距離43Kmで、この間の標高差は92m。10m進むのに2.14cmという僅かな傾斜で造られている。(上の写真は享保5年頃の江戸時代の水道。地図は東西が逆になっている)

 〇玉川上水の終焉
 明治維新後も近代水道が完成するまでの長期間、上水としてに役割を果たした。明治31年(1898)、淀橋浄水場から神田・日本橋方面への通水開始によって、東京の近代水道の歴史が始まり、その3年後の明治34(1901)、神田上水とともに玉川上水は使用が停止された。ただし、淀橋浄水場の水は玉川上水から引かれ、玉川上水には引きつづき滔々と水が流れていた。
 
 羽村堰をまだ見ていない。一部であれ、まだ現役として残る玉川上水路も含めて訪れたい。