マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

富士前福寿会の新年会

2019年01月30日 | 文高連

 一昨日の1月28日(月)に富士前福寿会の新年会が本郷三丁目駅付近の「棲鳳閣」で行われた。
 新年会はこの数年「棲鳳閣」で開催されてきていたが、今年の参加者は10名と一番少なかった。逝去・引越・公用・風邪・血圧高めなど理由は様々だが、今後、減少傾向に歯止めはかかるだろうか?参加者の年齢構成は80代前半が4名で70代後半が6名。平均年齢の正確なところの計算ではないが、多分80歳寸前。思えば私達の会は高齢者クラブなのだ。





 会長小林さんの挨拶に続いて熊坂さんの乾杯で会は始まった。中国人の経営になる「棲鳳閣」の料理は美味しい。コース料理が3500円で10品。少人数ではあったが皆その料理に舌鼓を打ち、御酒と会話を楽しんだ。






 料理の一品に北京ダックが出た。富田さんが毎年見事に作ろってくれる。彼は中国出張が何度もありの”中国通”。今年も調理は彼に任せて私達は美味しく頂くのみ。








 会半ばから全員に一言ずつ語ってもらった。何故か話題は”長生きの秘訣”に偏った。適切な食事と適度な運動、この二つに異論はない。これに+αは見解の別れるところ。社会参加を推す人あり、ノンストレスを語る方あり、生きがいを強調する御仁もいる。長寿の問題は運に左右されることの方が多いかも知れないが・・・。
 会は富田さんの締めで終了。酔った身に夜風が心地よい。男性4人は本駒込2丁目の自宅まで歩いて帰宅した。(写真は冒頭の写真を除いて熊坂さん撮影のもの)

 
 

 


輪投げ「城北大会」は無念の準優勝

2018年12月12日 | 文高連

 昨日の11日(火)、「城北ブロック輪投げ大会」が地元文京区シビックセンター4Fで開催され、私達富士前福寿会は準優勝だった。文京区の一つ上のレベルの大会で、選抜出場は台東区・北区・荒川区・文京区から各6チームの合計24チーム。そこで争われた結果の準優勝だった。
 文京区からは、7月に行われた文高連の大会で6位まで入った播磨坂クラブ・根津寿クラブ・後楽クラブ・若葉会・寿同志会と私達のチームが参加。私達のチームは区大会より1つ上の大会の常連だったが、それらの大会で10位内に入ったことはなかった。それがいきなりの準優勝。頂いた賞金で「えんまや」での祝賀会は大いに盛り上がったが・・・。


 優勝は台東区から出場の「台東 Aチーム」。台東区の精鋭を結集したチームだそうで、そのチームとの差は僅か8点。それを考慮にいれれば大健闘したと言えるだろう。それも4投終了時点では6点差で私達のチームがトップに立つていたのに、最終ラウンドでの逆転負け。嬉しさと無念さの同居する準優勝だった。
 私達の各投の得点は順に94点・130点・107点・70点・83点。後半に失速したのが如実である。我がチーム5名の得点の詳細は記憶していないが100点以上が3名、90点以上が1名で私は60点。多分過去最低で、私が70点以上の得点を挙げていたならば優勝していただろうに無念。低得点の原因分析はまだ出来ていない。祝賀会のお酒は些か苦かった。



 主催者発表の年齢構成に興味を抱いた。65歳~79歳が87名、80歳~84歳が35名、85歳~89歳が13名、90歳以上が3名、最高年齢は98歳。推定だが平均年齢77歳。最高齢の方へは記念品が渡されたが、登場された姿に皆々びっくり。(写真:90歳代の方3名)

 

 

 
 以下開会式で。上から順に文高連会長の和田さん、審判長で富士前福寿会々長の小林さん、出場の選手。








文高連創立50周年記念祝賀会開かれる

2018年11月12日 | 文高連

 実はという話2つから綴りたい。実は今、息子家族住む帯広・音更に来ている。二人目の孫の様子を見る為だが、初孫と遊ぶ時間が多く、思ったほどブログを書く時間は無かった。
 もう一つは、中山道に出掛ける数日前に、このブログに記しておきたい、幾つかのイベントなどがあり、そちらも忘れずに書き留めておきたい。とうい訳で、中山道後半の様子や音更での出来事は後日のブログに回します。
 文高連創立50周年記念祝賀会が10月29日(月)、東京ドームホテル「天空」の間で開催された。出席者は260人とも280人とも言われる多数の参加があった。富士前福寿会からは会長の小林さん・文高連役員の富田さんと私の3人が出席した。
 創立50周年を祝うに相応しい、豪華かで意義深い祝賀会だった。文高連会長挨拶の後、文京区長・文京区社会福祉協議会々長・東老連会長の挨拶と続き、祝宴の部の舞踏・ジャズ生演奏が華を添えた。
 その中で特に3つを記しておきたい。区長の挨拶は毎度のことながら、要旨明快にして弁舌爽やか。「健康寿命」についての話は、何歳まで生きられたよりも、何歳まで健康で行動できたかが大事。健康寿命を延ばすためには①適度の食事 ②適度の運動 ③社会参加が必須と語った。自分を顧みて②に問題があるなと思った。”適度”が”過度”になる傾向が強いのだ。



 舞踏の部の「サンフランシスコのチャイナタウン」はお隣組・寿同志会のダンサー5人の舞。知っている方がいたので間近で観賞・撮影した。華麗な舞いだった。



 私達のテーブルには駒込地区の方たち10人。交流のある宮元白寿会の方4人もおられ記念撮影。このテーブルの平均年齢は82歳。私などは下から数えて4人目で、70歳代などは”若造”となる文高連である。白寿会の元会長は95歳。戦後シベリアから奇跡的に帰国され、白寿会の構成メンバーを100人以上に引き上げた功績を持つ。
 私は文高連に参加して僅か9年ほど。50年という歳月の長さに驚くばかりで。発刊予定の記念誌をじっくり読みたいと思っている。
 
 
 


“社会奉仕の日”に

2018年09月25日 | 文高連

 文高連から「各高齢者クラブは年に1度は社会奉仕の日を設けて下さい」の様な要請が来ている。それを受けて私達富士前福寿会は毎年富士神社の清掃をすることにしている。
 9月20
日、会員6名で神社全域の落葉の清掃をした。富士神社には毎日お世話になっているから社会奉仕というより自宅清掃の気分。境内はかなりの広さだが1時間ほどの作業でほぼすべての清掃を終えた。
 本殿へと続く、いわゆる男階段は23段の急階段。会長曰く「あそこは危険だから一番若い人にやってもらおう」とのことで、72歳のお若い方にその作業が回っていって、77歳目前の私には緩やかな女階段が回って来た。清掃中、本殿脇に咲く曼殊沙華に気が付き、清掃を終えた後撮影に向かった。もう曼殊沙華咲く季節がやってきていたのだ。
 富士神社には石造の遺跡が多く残されていて、石故に長い年月の雨風に耐え、歴史を語ってくれる。曼殊沙華咲く辺りの標石に興味を抱いた。
 かって流し読みした『駒込富士神社誌』(著:飯塚文治郎)を再度借りてきて紐解いた。
 
右写真の標石。私が清掃した女階段の願主は〇瀧講中、惣同行と記されている。ここから著者飯塚さんは次のように書いた。
「男講中でなく女講中が力を合わせて女坂を設立し、修理したもので、坂を上り切ったここに記念標石を建てたと考えられる。石工もここから程遠からぬ小石川白山下の、石工五郎兵衛に依頼したもので、富士社を中心としたあまり遠くない女信者が参道を造ったのである。文政6年には既に坂のあったことも考えられる。当時は飛石位の簡素なものであったことも想像できるのである」と。
 
職人さんが標石の文字に朱を入れているのを何度か見たことがあった。多分現富士講が依頼している、石造の標識への毎年の朱入れ。(写真:上は標石の正面。下は裏面)

 
 富士神社境内の石刻と塔碑を調査・研究した『駒込富士神社誌』は、今から50年以上も前の昭和39年に発刊されている。朱入れと神社誌。それらが無ければ見逃され、忘却されてしまっただろう歴史的事実。社会奉仕の日から数日後、予期せぬ事実を知ったのだった。
 女坂は文政6(1823)年に〇瀧講の女衆によって造られたのだ。









 今日は二葉:左は神社に咲く彼岸花。右は三脚を用いないで撮影した中秋の名月。
  

 

 

 

 

 


輪投げ大会4連覇

2018年02月24日 | 文高連

 2月20日(火)に行われた、文高連主催の第31回輪投げ大会で、私達の富士前福寿会チームは4回連続の優勝をすることが出来た。参加51チームの頂点へ。今までに3連覇したチームも4連覇したチームも無い。快挙だと思う。予選突破も出来なかった私達のチームがよくぞここまで来れたなという思いも強い。

 過去4回の優勝を振り返れば、28回(その時の得点610 以下同じ)、29回(589点)、30回(605点)、31回(600点)と、チームの目標点600点を3回クリヤ―し、平均点も601点と”高値安定”していることが分かる。
 しかし前3回は先行逃げ切りで、緊張場面をあまり迎えることなく勝利していたが、今回の結果は、最下段に掲げた
エクセルのグラフ2つにも見られる様に、かなり出遅れてしまった。最終ゲームを前に第1位を行く「播磨坂クラブA」との差は5点。最終ラウンドでの辛うじての逆転優勝だった。

 競技終了後、応援団(1名)と選手5名の合計6名で優勝祝賀会。いつもながら美酒だった。5連覇したチームに「永世輪王」の称号はどうかなどの冗談も飛び出した。
 しかし、参加者5名を得点順に並べると、159・145・120・93・83で、その83点が私。美酒ながらワインは辛口の味がした。このゲームのチームへの貢献度は一目瞭然。得点そのものが語ってくれる。私の貢献度は一番低かった。
 ただ面白いことに、逆転を果たした最終6ゲームに於いて、私の前に投げた3人の点数が平凡で、優勝はほぼ諦めた時点で第4投者の私の出番となり32点。最終投擲者熊坂さん20点で、その二人の好結果が逆転へと繋がった。“あれがあったから優勝出来た”との言葉は私を慰める配慮かも知れない。第32回大会は7月のはず。

 昨日は台東区リバーサイドスポーツセンターで「城北大会」。この大会での私の得点は過去最低。フォーム改造を考えねばならない地点に来てしまった。 


 (5ゲーム目までは播磨坂チームが先行し、最終の6ゲーム目で私達が追い越したのが読み取れる)