マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

それは、雲ノ平から始まった(その1)

2017年11月27日 | 

 その人の名前を高山さんとしておこう。彼女と初めて会ったのは2000年7月、雲ノ平を望む太郎平小屋付近だった。最初に会ってからから既に17年が経過した。過去のブログにも書いたので重複してしまう部分もあるが、節目の時を迎え、その時から今日までの、そう多くはないが、高山さんとの思い出を綴っておこう。(写真は”富山で休もう”のポスター。上が薬師岳で下が太郎平小屋。この地点付近で高山さんと初めて会った)

 定年退職を間近に控えた2000年の夏、私は久し振りの単独行で、太郎平小屋から黒部五郎岳・三俣蓮華岳・双六岳などを経て、西鎌尾根経由で槍ヶ岳に至り、上高地へと下山した。





 二日目の、太郎平小屋から黒部五郎へと辿る日は雨模様で霧深く、更には残雪が豊富で道に迷い易い尾根歩きだった。高山さんも私も一人旅。どちらからともなく「ご一緒しませんか」と言う訳で、黒部五郎岳まで、途中からもう一人も加わり、なんとなくグループが形成されて、黒部五郎小舎に到着した。(写真:ツマトリソウ)
 道すがらの会話から、彼女は私とご同業で、高山植物のツマトリソウを写真に撮ることが趣味で、今回は何時も山へ同行する友人の家族にご不幸があり、一人旅との事。百名山は90座ほど登ったことも知った。

 翌朝、高山さんは私よりも早く黒部五郎小舎を出発し、彼女より遅れて出発した私は、約1時間の登りで黒部五郎岳が良く見えるはずの地点に到達し、霧が晴れるのを待った。この日雨は上がってはいたが、まだ霧が残り、黒部五郎岳は姿を見せてくれない。ここから、この山のカールを是非とも写真撮影したかったので、2時間は粘った。
 徐々に霧は晴れて行き、遂にその全容が見渡せ、夢中でシャッターを押した。右写真がその時撮影したもので、2001年の年賀状に使用した。その写真を彼女に郵送し、彼女からはツマトリソウの写真が送られて来て、2回ほど文の交換があったが、音信不通で数年が流れていった。(上の写真が2001年の年賀状で、この山行で撮影した黒部五郎岳の写真を使用した)


 再会は全くの偶然だった。7年後の2007年の夏。やはり雲ノ平を望む水晶小屋で。その日は快晴だった。菅原さんと私は水晶小屋にザックを置いて水晶岳(百名山の1つ。標高2986m。別名黒岳)をピストンした。下山途中、赤いネッカチーフの、足取り軽やかな女性とすれ違った。私たちが水晶小屋に戻り昼食の準備をしていると、件の赤いネッカチーフの女性も下山して来て、私達の傍らまでやって来た。「あの時の方ではありませんか」と私に語りかけてきた。すれ違った時には全く気が付かなかったが、間近で良く見ると、かつて太郎平小屋から黒部五郎小舎までご同行したことのある高山さんだった。(写真:水晶小屋。その背後の山が水晶岳)
 高山さんとの突然の、奇跡的な再会。前回と同じく雲ノ平を望む山で。確率としては極めて少ない事が起こった事に感激して、地上でもお会いしませんかとの手紙を出しておいた。百名山は96にまで達したことも知った。
 それから3年の歳月は流れ、2010年「巻機山に登りました。百名山完成間近」のハガキが舞い込み、9月には五竜岳を最後に遂に百名山完成の知らせが来て、神保町でささやかなお祝いをした。後で考えるとお祝いの会は物語の序章に過ぎなかった。(写真:高山さんからの写真。巻機山山頂付近の池塘の水芭蕉)


元担任からの電話

2015年10月14日 | 

 9月下旬のある夜、高校時代の担任だった安永和光先生から突然の電話が掛かってきて吃驚すると同時に恐縮してしまった。
 私が電話に出るや否や先生は「都高退教ニュースに載っている“辺野古・高江連帯ツアーに参加して”を書いたのは貴方ですか。同姓同名かも知れないとも思ってね」と切り出された。私「はい、私です。先生は都高退教ニュースを読まれているのですか」と返答と同時に逆にお聞きしてしまった。
 思えば元担任も都立高校の退職者。「都高退教」の会員で、しかも私達の大先輩でいらっしゃった。私は1958(昭和33)年4月~1962(昭和37)年3月までが都立小山台高校定時制に在籍。その3年生~4年生の担任が“やっさん”こと安永先生だった。私と同じ巳年で一回り上。担任と同時に兄貴のような存在だった。

 掛けて頂いた電話で色々とお話した。先生は教育大学体育学部卒で、入都から退職までの30数年間を都立小山台高校定時制勤務のみという、現在ではあり得ない、羨ましいような勤務を過ごされた。定年退職後は嘱託などは経験されないで、いきなり松陰大学へ。主として色々な運動部の設立に携わったとのこと。先生は確かラガーマン。ラグビー部の設立にも関わったのですかとお聞きすると、それは否定され、陸上部などの監督で、陸上部はまだ箱根駅伝出場はないが、学連選抜の選手は2人育てたとのこと。
 26年前に行われた定年退職を祝う会には参加させて頂いたが、それ以来お会いすることは無く、年賀状だけのお付き合いになっていた。私は今年で74歳になった。担任だった先生が86歳で今もって元気に活躍されていらっしゃるという幸せ。その時の電話で、これはお訪ねをし、もっとお話を聞くよい機会かも知れないと密かに思ったが、その第一歩はまだ踏み出していない。

 最近のニュースから。
 10月5日(月)山梨大学卒の大村智教授、ノベール医学生理学賞受賞。氏は昭和33年~38年まで都立墨田工業高校定時制の教師。私の定時制生徒時代とほぼ一致する。
 10月6日(火)埼玉大学理学部卒で現東京大学宇宙線研究所長梶田隆章氏、ノーベル物理学賞受賞。私も同じ大学の理学部の前進の文理学部理学科卒。
 
という訳で今年のノーベル賞は殊更身近なものに感じられた。
 10月13日(火)沖縄県知事「辺野古の埋め立て承認を取り消し」

 
 


忙しさをも楽しむ人

2015年08月01日 | 

 28日(火)夜のデモ行進の際、松重さんと五郎丸さんに出会ったことは、前回のブログに書いた。五郎丸さんについては、彼女の個展に触れて何度か書いたことがあるので、今回は松重(旧姓橋本)さんについて記したい。

 1986(昭和61)年、橋本さん(ここでは旧姓で)が新卒として向丘高校に着任した時、私はそこで8年目を迎えていたが、以来29年間の付き合となり、思い出すことが数多くある。
 私は向丘高校から第3学区の鷺宮高校へと転勤したが、彼女の転勤先も同じ3学区の工業高校。西武新宿線の隣り合わせの駅で、帰路が一緒になることが何度かあった。工業高校で担任をしながらの子育て。どんなにか大変な日々だろうなと思ったものだった。「向丘人事委員会審理」の際、傍聴席を見渡すと彼女の姿が度々あった。覚え始めた数学教材成ソフト「スタディーエイド」について高田馬場付近の喫茶店で話し合ったのもこの頃だ。

 困難な日々を乗り越え、前任校へと転勤し、その高校から現在校までの14年間に担任10年と本部委員4年(分会を代表する組合の委員)。要するに担任と本部委員のみを繰り返しているのだ。都立高校経験者ならこれが如何に大変なことか分かるだろう。彼女が本部委員中に組合に7名を加入させたという、伝説もある。真相は彼女が本部委員中に5名の未組合員の方の加入があったとの事。
 彼女の子供さんが小学生の頃、私は元向丘の仲間を語らって「年末スキー」を実施していた。数家族十数名がログハウス2棟に宿泊しスキーを楽しんだときに、橋本さんは親子で参加し、一緒に滑っていた。
 私が定年の前年から始めた“向丘飛鳥山の花見の宴”は今まで続き、現在の幹事は彼女と私。集う仲間の最年少が彼女。定年を迎えた方がこの宴に来られる場合はいつも彼女が花束を用意し、彼女が花束を贈呈してくれた。彼女と私の間で一つの約束がある。この花見の宴を彼女が定年を迎えるまで続けること。その時には大きな、大きな花束を私が贈ろう。あと9年先の、私が命永らえる幸運に浴すればのことだが・・・。その時には、私は彼女の新任から定年までを見続けたこととなる。
 
 7月28日の夜、帰りのプラットホームで手帳を見せてもらう場面があった。そこには夏休み日程がギッシリ。補習授業・吹奏楽部の指導・クラブ合宿引率・家族旅行などで埋まっていた。年に10回の演奏活動とその練習もあるそうな。大学卒業以来バンドを組む仲間との宿泊演奏にも参加するそうだ。これらの日々が楽しいと語る彼女は全てに前向き。忙しさを楽しんでしまう聡明な人。会う度に私は元気の素を貰っている。
 気になっていることが一つ。整数論では証明済みの問題を「初等的に解けませんかね」と尋ねられ、2年間ほど考えた結果を渡した記憶があるが、分かりずらい証明だったらしく、いまだ目的を果たせていない。残念なことも一つ。最近はご酒を一滴も飲まなくなってしまったことだ。五郎丸さんと私が実施したい「本部委員ご苦労様会」では是非一献を傾けたいものだ。

(明日から北アルプス雲ノ平に出掛け、帰京は6日。暫くブログ休みます)
 今日の一葉:昨夜は満月
 


髭じいのこと

2015年04月14日 | 

 桜が咲き始めるとともに、富士神社のラジオ体操も参加者が増え始め、4月に入ってからは50名を超えている。私が参加し始めた6年前と比較すれば、確実に倍増している。

 その中での最高年齢は、女性では91歳のHさん。毎日すきっとした歩き方でお見えになる。男性では沢さんや佐藤さんの姿が見えないので、最高年齢は多分間もなく84歳になられるYさん。遠くからでも一目でわかる、白く長い髭の持ち主。私は“髭じい”と名付けている。富士神社界隈では多くの人が知っている有名人だ。
 私とはラジオ体操が隣り合わせ。いろいろと話を聞くことが多い。上富士交差点で、交通安全の旗を振って50年近くなるという。いわゆるスクールガードだ。昭和小学校の児童の安全に寄与して既に半世紀。凄い、偉いと思うが、偉ぶった雰囲気は皆無。天祖神社の神幸祭にも乞われて役割を演じていた。
 雨の日の行動が特異である。”体操おたく”は社務所軒下に移動して体操するが、Yさんは普段の定位置から移動しない。「男が一度立ち位置を決めたら安易に移動してはいけない」とか言って、「出席を取ります」と称し、参加者を眺め、体操抜きでそのまま去っていく。
 
 銭湯と川柳を好まれる。文京区以外の銭湯も含め、銭湯へ毎日通う。川柳はかっては相当詠んだようだ。時折私に本を貸して下さる。最初にお借りしたのが『東京湯巡り、徘徊酒 』(講談社)。23区内にある銭湯に出掛け、帰りに必ず飲み屋に寄った体験談が書かれていた。行ってみたくなる銭湯や飲み屋が多数登場する。私は文京区図書館のブックリストに登録した。いずれ、遠出しての銭湯+飲み屋を楽しめる日が来るだろうか。
 川柳の本は『シルバー川柳』や『女子会川柳』。中でも『女子会川柳』が、枯れていない分だけ面白い。上司や、不倫を思わせる相手への恨み辛みが強烈な言葉で表現されている。生々しい体験を窺わせる川柳もある。その一端を書き並べてみた。(△は私に当てはまるもの)
『女子会川柳』(ポプラ社)
  「調子どう?」あんたが聞くまで絶好調   やっぱりね残りものには訳がある
   婚活でであった男就活中          逆らわずただうなずいて従わず
  もう会わぬ番号消して待つ電話        年の差の部下がダンナになる時代
 『シルバー川柳』(ポプラ社)

  三時間待って病名「加齢です」      △探しものやっと探して置き忘れ
    老いの恋惚れるも惚けるも同じ文字    △お若いと言われて帽子脱ぎそびれ
  自己紹介趣味と病気をひとつずつ     △遅いとは思うが旅に発毛剤
 
 私も明後日から「髪殿」を持って旅に出ます。今回は旅先でのブログ更新はしない。19日以降の更新予定です。

 今日の一葉:漆家周辺の花々

 


駒師 北田如水さんのこと

2015年02月12日 | 

 中学校時代からの友人の北田義之さんは、「将棋駒研究会」会長にして、将棋駒作りのプロで、北田如水(じょすい)と号しておられる。中学時代は確か1年時と3年時が同じクラスで、3年の時に同級だったことが幸いして、卒業後のクラス会では殆ど毎回お会いしている。昨年10月25日(土)の、蕎麦処「やまきた」でのクラス会で再会したが、お誘いして1月17日の大相撲見学の時にもご一緒した。
 実は、大相撲見学は長時間話し込むのに適している。その日は、十両の4番目の取り組みの3時過ぎから、結びの6時直前までの相撲見学だったが、相撲談義のみならず、色々な話をする事が出来た。
 その中の一つに、将棋七段のプロと二枚落ちの話があった。将棋7段の飯島栄治プロとの対戦が「お好み将棋道場」(囲碁・将棋チャンネル)で放映され、DVDに録画してあるので、後日送ってくれるとのことであった。
 又、将棋駒作りのプロと書いたが、実は、駒作り名人(自称は駒作りキチガイ)
なのだと思う。ドキュメンタリー番組で紹介されたこともあり、その筋では名が通っているのだろう、昨日行われた棋王戦では、彼の駒が用いられるとも語っていた。(写真:送られてきたDVD)

 その、棋王戦の方から綴ろう。棋王渡辺明と挑戦者羽生善治の二人で争われる、第40期棋王戦の第一戦は、昨日「宇都宮グランドホテル」で行われ、渡辺棋王の勝利に終わったが、彼も前夜祭から参加し、彼の持参した3組の駒のうちから、多分棋王渡辺がどの駒を採用するかを決め、その駒を用いて第1戦が行われたはずである。風貌からしてご酒は幾らでも行けそうだが全くの下戸。酒席は短時間で済ませたいほどの苦手だそうで、渡辺棋王を贔屓とする私としては、如水さんの代理が出来るのなら本望なのだが・・・。(対局場で:左から羽生名人 北田如水さん 渡辺棋王)

 相撲見物後数日してDVDが送られて来た。私はヘボながら将棋を指すので、早速それを見て楽しんだ。彼の棋力は詳しくは知らないが、多分3・4段(ご本人からのメールでは”小生の棋力ですが、以前友人から序盤初段、終盤三段と言われましたが、今は2~3級位だと思います”)。それでもプロと指すときは、飛車・角抜きの2枚落ち。久しぶりの将棋となるので、2枚落ちの定石をかなり学んだ上で対戦に臨んだとのことであったが、飯島プロに「定石書にはない初手を指され、頭が真っ白になり、良いところ無く完敗した」と彼は語っていたが、録画を見る限り、「勝負場面あり。それを逸したのが惜しかった」と解説の中座真7段は語っていた通りだと、私は観た。
 対戦を前に、安食総子女流初段のインタビューに答えて、勤務の傍ら駒作りを始めて40年が経過、駒作りの楽しみを多くの人に伝えたくて「将棋駒研究会」を組織し、現在、会友は日本全国に散らばっているが、定例会に参加の方は15名~20名とも述べていた。(写真:棋王戦で使用された駒ではないが、飯島7段保有の如水駒)


 一昨年一緒に旅行に行ったときには小さな駒を頂き携帯に付けている。一方、10年ほど前に我が別荘に来たときの御礼にと将棋盤を貰っていた。「如水」の銘が入っていないのが残念である。(頂いた将棋盤)

 

 

 

(追記:如水さんが会長の「将棋駒研究会」のFacebook のURL は
 https://www.facebook.com/komaken.net  棋王戦の様子も載っています)