マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

微かな記憶から

2018年03月05日 | 本駒込

 幼い頃の、忘れ得ぬ記憶はそのときの感情を伴っている。入ってはいけない場所に入ってしまい、そこの主人と思しき大男に追われた記憶は怖かった感情とともにある。戦病死した父の葬儀らしく、トラックの荷台に乗せられて町中を行く記憶には悲しさが張り付いている。
 母に連れられていったお寺の記憶には、のどかな3枚のピースが連なっている。1枚目・陸橋から見下ろすと線路が見えた。2枚目・都電に乗っていた。3枚目ではお寺の本堂を回り込むと墓地に出た。

 何時の頃だったか、母から、母方の実家の檀家寺は文京区の本郷肴町付近にあったと聞いて、3枚の、点だったピースが一つの線で繋がった。線は本郷通りだ。1枚目は駒込駅「駒込橋」の跨線橋から見た山手線。2枚目は都電本郷線(19系統)。3枚目は本駒込3丁目にある徳源院。記憶が繋がったのは、その通り沿いに暮らしているからかも知れない。今の家もその前の家も勤めた高校も本郷通りに面している。(写真:徳源院)

 徳源院は本郷通りを動坂の方へ少し入ったところにあるが、そのお寺さんとの縁がこんなに深くなるとは予想もしなかった。定年になり、ラジオ体操後の散歩の途中、徳源院の裏手で7時の鐘の音を聞くという偶然。この数年は、毎年のように、大晦日に除夜の鐘を撞かせて頂いている。
 一昨年「文京区海岸物語」のイベントに参加した折に、案内された寺は南谷寺の次が徳源院で、その時初めて両寺に建てられた「コロボックルの碑」を知った。
ラジオ体操に参加する、かつては動坂1番地に住んでいた年配のご婦人から面白い話を聞いた。「目赤不動のところにあった日限地蔵さんを徳源院さんがずうっと面倒を見ていてね、その縁で徳源院に移ったのよ」と。彼女の檀家寺は南谷寺だった。
 水上勉の『東京図絵』を読んでいたら、「蓬莱町」の稿では「山手線を駒込駅で降り、市電で追分町へ出て北へ戻った。駒込蓬莱町は、追分町と吉祥寺の中間にあった」とあった。私の記憶に残る風景と同じ風景。
 「動坂目赤不動」の稿では「動坂を歩いた。徳源寺はすぐ見つかった。門を入ると禅刹らしく掃除の行き届いた庭に石畳の参道。突き当りに本堂。右手に庫裏があった。・・・」(徳源寺と書かれているが、徳源院が正しいと思う)
 水上さんはそこで「コロボックルの碑」を見つけ、そこに刻まれた文字を読んだ。私も撮影したことがある碑だが、読み取れない文字が多々あった。有り難いことに『東京図絵』には、そのほぼ全文が活字で書かれていて、それが私の理解を深めてくれた。(写真:右は『東京図絵』より)

 下が徳源院で撮影した碑。


再び、目赤不動について(本駒込1)

2018年03月02日 | 本駒込

 3月10日(土)に、文京アカデミーで「本駒込」について話をすることになり、新たに本を読んだり、出掛けたりしている。3日前には真砂町にある「文京ふるさと歴史博物館」を訪ね、「神明町貝塚」について調べ写真撮影をして来た。
 目赤不動についてはネットで検索すると、何故か、水上勉著『私版 東京図絵』がフィットした。早速、区立図書館にオンライン予約し、借りて読んだ。その「
動坂目赤不動」の稿の最初の一行に目が釘付けになった。
 “父が建てた目赤不動は、動坂の途中にあった”
 目赤不動を水上さんのお父さんが建てたという記述に驚くと同時に、目赤不動は江戸寛永年間に南谷寺へ”引越”したはずだなのに、1930年代頃にいまだ動坂に目赤不動があったとの記述が不思議で解せなかった。

 『東京図絵』は、1994年6月から翌年の9月まで朝日新聞の東京版に連載され、単行本が出版された後、1998年に朝日文庫のシリーズに収められた。水上さんは1940(昭和15)年、21歳の時に初めて上京し、駒込蓬莱町の勝林寺を染井に移築する仕事をしていた父を訪ねていた。お父さんは腕のいい大工だったのだ。
水上さんはその後、幾度となく東京を訪ねた。文学の師・宇野浩二氏との交流、幸田文さんの思い出、女性遍歴などが綴られている。文京区に限っても、旧名の駒込蓬莱町・神明町・初音町・冨坂二丁目・本郷森川町などが登場してくる。かつて読んだ『雁の寺』や『飢餓海峡』などの名作の著作に関わる話にも及び、懐かしくも楽しく読んだが、今回は「目赤不動」に限って綴っておきたい。

 ここから綴りは、“不思議で解せなかった”点を私なりに推定したものである。
「動坂目赤不動」の稿では、戦後早々森川町に住んでいた宇野浩二氏の口述筆記のときの記憶が書かれている。「・・・観潮楼跡などが焼け残り、旧屋敷町はおおかた健在だった記憶があるのに、動坂の目赤不動だけは屋根も壊れ、祠堂は跡形もなく石段だけがあるだけだった。」「そこの狭い台地の畑の中に、コロボックルの自然石の石碑が立っていたのをおぼえている」とある。

 私の赤目不動についての理解は概略次の様なものだった。
 「元和年間に万行和尚は、現在では動坂と呼ばれているこの地に庵を結び、不動明王像を安置し、赤目不動と呼ばれるようになった。その後、鷹狩に来た家光により、現在の本駒込1丁目へ移転させられ、目赤不動と改称され、「南谷寺」の寺号を与えられた。旧地は赤目堂跡と称されていたが、1
793(寛政5)年に日限(ひきり)地蔵堂が建てられた」

 ここからは私の推測だが、日限地蔵堂が建てられた時点で、赤目不動は無くなっていはいなかった。日限地蔵の傍らに、赤目不動とそれを祀る祠堂は細ぼそと残された。人々の間では”目赤不動”と膾炙されたかも知れない。水上さんのお父上さんはそこにあった、その祠堂を作り替えたと理解するのが正しいのではないだろうか。 

 初めて上京してから54年後の1994年に水上さんが目赤不動を訪ねると、戦後早々に訪ねた時にはあった祠堂上の台地はビルになってしまっていた。落胆しつつも、その後水上さんは徳源院と南谷寺を訪ね、徳源院ではコロボックルの碑に再会し、南谷寺では不動明王を垣間見ている。それは現在私達が見る風景と同じである。(写真:徳源院のコロボックルの碑を訪ねる水上さん)