運慶作の阿弥陀如来坐像などの国宝を拝観し、副住職から色々なお話を伺った後、御堂内に、願成就院の往時の模型がある事に気が付いた。仏像ではないので可能かと思い、撮影をお願いすると、「済みません。堂内は一切撮影禁止なのです」とのことで、残念ながら諦めたが、全盛期には願成就院が如何に広大な寺院であったかが一目で分かる模型だった。巨大な池と小島が橋でつながれ、多くの堂宇が配置された模型だった。
大学受験の頃、鎌倉幕府の成立は1192年(いい国作ろう)と覚えたものだが、今では、それ以前の1185年には鎌倉幕府は実質的に成立していたとされている。4年後の1189年に、鎌倉幕府の初代執権北条時政によって建立された、北条氏の氏寺としての願成就院。壮大な伽藍を誇る、伊豆屈指の大寺院として、栄華を誇ったことは容易に想像出来た。この地で、1186年には運慶の造仏も開始されていた。 本堂を出て私達は「浅山講五十回団参記念之碑」に向かった。本堂に入る前に「浅山講」の文字の刻まれた碑を目にし、講は神社に固有のものと思い込んでいた私は、お寺さんで“講”の文字の入った碑があるのが不思議で、何だろうとの思いを込めて、2002(平成14)年に建てられた碑の全文を読んだ。概略次の様に刻まれていた。
1954(昭和29)年、創講者のひとり故高坂公一氏は友人と初めてここを訪れ、阿弥陀如来の慈顔に平伏合掌する一方、荒廃せる堂内に驚いた。浅草に帰って直ぐに、国宝護持の目的で、「雷おこし」社長を講元として、信仰団体「浅山講」を創立。第一回団参には約八百名の参加者があった。浅草の浅と韮山の山から「浅山講」と命名した。
1982(昭和37)年に2月に新しい大御堂が建立されが、再建の原動力は「浅山講」だった。浅草と願成就院の因縁深きことを刻して碑は終わっていた。 帰宅して願成就院の歴史を辿った。
1491(延徳3)年、北条早雲によって寺は全焼。僅かに再建されるも、豊臣秀吉の小田原征伐の際にも全焼。本尊を始めする仏像などは僧侶らの手によって、辛うじて運び出され、焼失を免れた。が多くの寺宝は灰塵に帰し、願成就院は事実上消滅した。江戸時代、北条氏の末裔北条氏貞によって再建されるも、昭和期に荒れ果てるに至っていたが、信仰心篤い、浅草商人衆の財力を得て、再建された。
過去829年を振り返れば、波乱万丈の歴史があった。それは今、英国人と結婚された女性副住職へとバトンタッチされようとしている。