『舞姫』現代語訳 十六段落 金澤 ひろあき
【要旨】
相沢に会いに行く太田の迷い
【現代語訳】
かわいい一人っ子を出してやる母親も、このようには心をつくさないだろう。大臣にお目にかかることもあるかと思うからであろうか、エリスは病気なのに無理をして起きあがり、ワイシャツもきわめて白いものを選び、ていねいにしまっておいたフロック・コートという2列ボタンの服を出して着せ、ネクタイさえ私のために自分の手で結んだ。
「これで見苦しいとは、誰も言わないだろう。私の鏡に向かって見てごらんなさい。どうしてこのようなつまらなそうな顔つきをお見せになるの。私もいっしょに行きたいぐらいなのに。」
それから少し服装を改めて、「いや、このように衣服を変えなさったのを見ると、何となく私の豊太郎様のようには思えない。」
また少し考えて、「たとえ富や地位を手になさる時があっても、私をお見捨てにならないでしょうね。私の病気が母がお話しになったもののようでなくても。」
「なに、富や地位だって」私は微笑した。「政治社会などに出る望みは断ち切って何年かたったのだよ。大臣は見たくもない。ただ長年別れた友に会いにいくのだ。」エリスの母が呼んだ一頭立ての馬車は、車輪の下にきしる雪道を窓の下までやってきた。私は手袋をはめ、少し汚れたコートを背中にかけ、手を通さずに帽子を取って、エリスに接吻してアパートから下りた。エリスは凍った窓を開いて、乱れた髪を北風に吹かせて、私が乗った車を見送った。
私が車を降りたのは、カイゼルホフ・ホテルの入口である。ボーイに秘書官相沢の部屋の番号を聞いて、長いこと踏み慣れていない大理石の階段を登り、中央の柱にビロードで覆ったソファーを置き、正面には鏡を立てたロビーに入った。コートをここで脱ぎ、廊下を渡って、部屋の前に行ったが、私は少しためらった。同じように大学に在学していた日に、私の品行が正しいことを激賞した相沢が、今日はどのような態度で出迎えるだろうか。部屋に入って面と向かって会ってみると、体つきこそ以前にくらべて太ってたくましくなっていたが、依然として快活な性格、私の失敗をそれほどまでに気にしていないように見えた。別れてからこれまでのようすをくわしく言うような余裕もなく、連れられて大臣にお目にかかり、まかせられたのは、ドイツ語で書かれた文書で急を要するものを翻訳せよということであった。私が文書を受け取って、大臣の部屋を出た時、相沢は後から来て、私と晩飯をともにとろうと言った。
食卓では、相沢が多く質問し、私が多く答えた。相沢の人生はおおむね順調であるのにくらべて、不幸なのは我が身の上である。
【ポイント】
1、エリスの不安
太田の名誉回復ののち、自分が捨てられるのではないか。
2、太田はエリスの不安を否定。しかし、否定しているが、エリスに言われてはじめて気づいている。現実面では頼りない。
3、友人相沢との比較。
「自分は不幸。相沢は順調。」と考える。
やはり日本社会・官僚社会への未練。エリート・立身出世への未練が強くある。(つけ込まれる所・弱さ・無責任)
4、大臣からの仕事の依頼 ドイツ語文書の翻訳=太田の能力テストも兼ねている。