『舞姫』現代語訳 第二十四段落 金澤 ひろあき
【要旨】
結末
【現代語訳】
意識が戻ったのは、数週間後であった。熱が激しくうわごとばかり言ったのをエリスが丁寧に看病していた時に、ある日相沢が尋ねてきて、私がエリスに隠していたすべての事情を詳しく伝えられ、また大臣には私が病気であるという事だけ伝え、つごうのよいように話をとりつくろっていた。
私は初めて、私の病床のそばにいるエリスを見て、その変わり果てた姿に驚いた。エリスはこの数週間のうちにひどくやせて、血走った目はくぼみ、灰色の頬は落ちていた。相沢の援助で、日々の生計には窮していなかったが、この恩人(相沢)はエリスを精神的に殺してしまったのだ。
後で聞くと、エリスは相沢に会った時、私が相沢に与えた約束を聞き、またあの夕べ大臣に申し上げた承諾を知り、にわかに椅子より躍り上がり、顔色はさながら土のようになって、「私の豊太郎様、ここまで私をだましておられたのですか。」と叫び、その場に倒れた。相沢はエリスの母を呼んで、ともに助けてベットに寝させていたが、しばらくしてエリスが目覚めた時には、目は直視したままでそばの人が誰かもわからず、私の名前を呼んでひどくののしり、髪をかきむしり、布団を噛みなどして、また急に何かに気づいたように物を探し求めている。母が手にとって与える物をすべて投げ捨てたのだが、机の上にあったおしめを与えた時、さぐって見て顔に押しあて、涙を流して泣いた。
これよりはしばらく騒ぐ事はなかったが、精神の働きはほとんどだめになり、赤ん坊のようになった。医者に見せたが、過激な心労によって急に起こったパラノイアという病気であるので、治癒の見込みがないという。ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んできかず、後にはあのおしめ一つを身につけて、何度も出しては見、見てはすすり泣く。私の病床を離れないけれども、これすら判断力があってそうしているのではないように見える。ただ時々、思い出したように、「(倒れている太田に)薬を、薬を」と言うばかりである。
私の病気は全く治った。エリスの生けるしかばねを抱いて無数の涙を流したのは、どれほどであったか。大臣に従って帰国した時には、相沢と相談してエリスの母にささやかな生計を営むに足りるほどの金を与え、あわれな狂女の胎内に残った子供の生まれた時のことをたのみおいた。
ああ、相沢謙吉のような良い友は世の中でまた得難いであろう。しかしながら、わが脳裏に彼を憎む心も今日まで残っているのだった。
〔ポイント〕
1 結末…太田の裏切りを知らされたエリスが発狂
発狂しても覚えていることが二つ
① 準備していた産着を探す。身につける。=産まれて来る子どものことを覚えている。
② 倒れてしまった太田に「薬を」飲ませようとする。=太田への愛情は覚えている。
2 ラストの文の問題
a太田 意識不明=エリスに真実を告げたり、謝罪をすることができない状態に描かれる。
b相沢は良き友=失業した太田に職を斡旋。また、太田の日本復帰を助けた。
しかし、対立する心情がある。
c「相沢を憎む心」=『舞姫』冒頭部の「恨み」と対応
①太田が意識不明の時に、エリスに真相を知らせ、精神的に殺してしまったこと。
②相沢の考え=当時の日本の常識=能力重視・個人よりも家や国家重視
太田は有能だから、日本・エリート社会に帰り、国のために尽くすべき。
エリスは有能でないので、太田と釣り合わない。別れよ。個人の愛情など軽視する。
その結果、エリスは発狂。見捨てるように太田は帰国。
自分達を追い込んだのは相沢の考えに代表される日本の常識・個人軽視の考え=太田自身の生き方でもある。
だから、相沢を憎む=自分自身を憎む=日本の常識・個人軽視の考えを憎むともとれそう。
③しかし、太田はその日本社会に復帰する道を選んだ。
3 なぜ、自分の恥を発表したのか。何を知らせたかったのか。『舞姫』執筆の動機。
『舞姫』を誰に読ませたのか。最初の読者…鷗外の家族 鷗外が家族を集め、弟の篤次郎に読ませたことが伝えられている。
これらの考察は次の会で行いたい。
【要旨】
結末
【現代語訳】
意識が戻ったのは、数週間後であった。熱が激しくうわごとばかり言ったのをエリスが丁寧に看病していた時に、ある日相沢が尋ねてきて、私がエリスに隠していたすべての事情を詳しく伝えられ、また大臣には私が病気であるという事だけ伝え、つごうのよいように話をとりつくろっていた。
私は初めて、私の病床のそばにいるエリスを見て、その変わり果てた姿に驚いた。エリスはこの数週間のうちにひどくやせて、血走った目はくぼみ、灰色の頬は落ちていた。相沢の援助で、日々の生計には窮していなかったが、この恩人(相沢)はエリスを精神的に殺してしまったのだ。
後で聞くと、エリスは相沢に会った時、私が相沢に与えた約束を聞き、またあの夕べ大臣に申し上げた承諾を知り、にわかに椅子より躍り上がり、顔色はさながら土のようになって、「私の豊太郎様、ここまで私をだましておられたのですか。」と叫び、その場に倒れた。相沢はエリスの母を呼んで、ともに助けてベットに寝させていたが、しばらくしてエリスが目覚めた時には、目は直視したままでそばの人が誰かもわからず、私の名前を呼んでひどくののしり、髪をかきむしり、布団を噛みなどして、また急に何かに気づいたように物を探し求めている。母が手にとって与える物をすべて投げ捨てたのだが、机の上にあったおしめを与えた時、さぐって見て顔に押しあて、涙を流して泣いた。
これよりはしばらく騒ぐ事はなかったが、精神の働きはほとんどだめになり、赤ん坊のようになった。医者に見せたが、過激な心労によって急に起こったパラノイアという病気であるので、治癒の見込みがないという。ダルドルフの精神病院に入れようとしたが、泣き叫んできかず、後にはあのおしめ一つを身につけて、何度も出しては見、見てはすすり泣く。私の病床を離れないけれども、これすら判断力があってそうしているのではないように見える。ただ時々、思い出したように、「(倒れている太田に)薬を、薬を」と言うばかりである。
私の病気は全く治った。エリスの生けるしかばねを抱いて無数の涙を流したのは、どれほどであったか。大臣に従って帰国した時には、相沢と相談してエリスの母にささやかな生計を営むに足りるほどの金を与え、あわれな狂女の胎内に残った子供の生まれた時のことをたのみおいた。
ああ、相沢謙吉のような良い友は世の中でまた得難いであろう。しかしながら、わが脳裏に彼を憎む心も今日まで残っているのだった。
〔ポイント〕
1 結末…太田の裏切りを知らされたエリスが発狂
発狂しても覚えていることが二つ
① 準備していた産着を探す。身につける。=産まれて来る子どものことを覚えている。
② 倒れてしまった太田に「薬を」飲ませようとする。=太田への愛情は覚えている。
2 ラストの文の問題
a太田 意識不明=エリスに真実を告げたり、謝罪をすることができない状態に描かれる。
b相沢は良き友=失業した太田に職を斡旋。また、太田の日本復帰を助けた。
しかし、対立する心情がある。
c「相沢を憎む心」=『舞姫』冒頭部の「恨み」と対応
①太田が意識不明の時に、エリスに真相を知らせ、精神的に殺してしまったこと。
②相沢の考え=当時の日本の常識=能力重視・個人よりも家や国家重視
太田は有能だから、日本・エリート社会に帰り、国のために尽くすべき。
エリスは有能でないので、太田と釣り合わない。別れよ。個人の愛情など軽視する。
その結果、エリスは発狂。見捨てるように太田は帰国。
自分達を追い込んだのは相沢の考えに代表される日本の常識・個人軽視の考え=太田自身の生き方でもある。
だから、相沢を憎む=自分自身を憎む=日本の常識・個人軽視の考えを憎むともとれそう。
③しかし、太田はその日本社会に復帰する道を選んだ。
3 なぜ、自分の恥を発表したのか。何を知らせたかったのか。『舞姫』執筆の動機。
『舞姫』を誰に読ませたのか。最初の読者…鷗外の家族 鷗外が家族を集め、弟の篤次郎に読ませたことが伝えられている。
これらの考察は次の会で行いたい。