西沢家の主治医である飯島病院の特別室で、機械や点滴の管に繋がれたまま意識の戻らない西沢を見つめ、滝川は遣る瀬無さそうに溜息をついた。
西沢のベッドの脇に付き添って夜を過ごした滝川は、う~んと背伸びをしながら立ち上がった。
朝まで締め切ってあった窓を開けて空気を入れ替えた。
まる二日このままの状態でいる…。三日目の朝を迎えても目覚める様子はない。
紫苑…おまえってやつはどこにいても何かに繋がれる運命にあるんだなぁ…。
点滴の針に貼られたテープが痛々しい西沢の腕に眼をやった。
西沢の容態は予断を許さず、点滴も栄養補給のための気休めに過ぎなかった。
腕の立つ医師ではあるが治療師ではない飯島院長は、さすがに極限まで消耗した生命エナジーを回復させる方法までは知らなかった。
それでも…普通の医師として可能な限りの手は打ってくれた。
裁きの宗主が西沢に施してくれた応急措置は、おそらく宗主自身の生命エナジーを分け与えてくれたというものだろうが、他人の生命エナジーの投与は根本的な解決にはならないらしく現状維持がやっとで回復までは望めなかった。
何とか新しいエナジーを作り出す手立てはないだろうか…。
新しいエナジーなら微量でも紫苑が自力で回復する起爆剤になるかもしれない。
和の命を救えなかったという過去が治療師滝川の深い傷となって残っている。
英武のことにしても…滝川の力を以ってすれば…本来なら有が手を出すまでもなかったのかも知れないが、滝川自身がひとりで治療にあたることを避けた。
裁きの宗主は滝川のそんな心の闇を見抜いていた。
心に迷いを抱いている時ではない…。治療師としての本来の姿を取り戻せということなのだろう…。
勿論だとも…紫苑を助けてみせる…。
自らを犠牲にして命を護ってくれた紫苑に恥じるようなことはできない…。
何としても…この手で方法を見つけ出す。
だから紫苑…もう少し頑張ってくれ…。
ドアをノックする音とともに有が登校前の亮とノエルを伴って現れた。
滝川にまだ温かい朝食の包みを渡すと西沢の顔を覗きこんだ。
「相庭と玲人があちこちの高名な治療師を訪ねてみてはくれているんだが…誰も完全にエナジーを失った者の治療を試みた者はいないそうだ…。
本来なら…とうに死んでる筈なんだからな…。 常識的に考えて…生きているのが不思議なくらいだ。」
良い治療方法を思いつかず無力感に苛まれながら有はつらそうに言った。
亮が湯に浸したタオルで西沢の顔や手をそっと拭いた。
有が愛しげに清められた我が子の額に触れ乱れた髪を整えてやった。
ノエルはそっと西沢の手を握ってみたが…反応はなく…切なくて思わずぽろっと涙をこぼした。
「新しい…エナジーを作り出す方法を…考えているんです。
それさえ可能ならきっと…。 」
滝川は有にそう打ち明けた。
新しいエナジー…その言葉に有は頷いた。確かにそれができれば…助けられる。
取っ掛かりがあれば紫苑は自ら生きるための能力を発揮するだろう。
だが…新しいエナジーを生み出したものなど聞いたことがない。
「今は…怜雄や英武が交代で自分のエナジーを少しずつ与えてくれています。
親兄弟のエナジーの方が紫苑の身体も受け入れやすいでしょうけど…有さんと亮くんのはいざという時にストックしておかなきゃ…。 」
滝川は朝食のホットドッグを頬張りながらそんなことを話した。
腕時計を見ながら有は西沢の傍からなかなか離れようとしない亮とノエルに早く出掛けるように促した。
ふたりは名残惜しげに病室を後にした。
「恭介…仕事があるんだろう? 今日は俺が付いているから行って来いよ。 」
有が勧めると恭介は…助かります…と答えた。
正直…幾つか予定が入っている。
キャンセルするにしても一度スタジオに顔を出しておかなきゃ…と思っていた。
いくつか段取りをして夕方には戻ると言い置いて滝川も病室から出掛けて行った。
西沢が仕事に出掛けて行ったすぐ後で相庭親子が見舞いにやってきた。
いやあ…もう参りました。
挨拶もそこそこに相庭はうんざりした様子で愚痴をこぼした。
何処から情報が流れたものか…西沢紫苑が原因不明の病で突如入院なんて記事が出ましてね…。
この病院…情報管理がいい加減なんじゃないですか?
夕べから問い合わせが立て続けです…。
おまけに滝川先生自身はとうに忘れていらっしゃるんでしょうが…昨日…新しい写真集が出たもので…遺作じゃないかなんて話まで飛び出して…。
遺作にならないようにしたいものだね…と有は苦笑いした。
玲人が心配そうに西沢の頬に触れた。
幼馴染…幼児期から時折…仕事先で出番を待つ紫苑の傍で過ごした。
幼い紫苑が気分良く過ごせるように遊び友達として相庭はよく玲人を同行させた。
玲人の大事なお人形さん…そんなふうに相庭は言って聞かせた。
脱走癖のある紫苑が勝手に消えてしまわないように…玲人…玲人の可愛いお人形さんが逃げ出さないように見張っていておくれ…と。
生まれ月が少しだけ早い玲人は自分がお兄ちゃんだと自負していたし、紫苑のお守りをすることは嫌ではなかった。
子犬のように転げまわって遊んで…お菓子を分け合って…悪戯もして…叱られるのも一緒だった。
紫苑が撮影用の服を着ている時には、汚すな・破るな・転ぶな…と注意を払うのも玲人の仕事だった。
紫苑…玲人の大切なお人形…護ってあげられなくて…ご免よ…。
幼馴染としての玲人が胸の中でそう呟いた。
西沢に対してはどうしても個人的な感情が先に立ってしまいそうになるのを抑えて、玲人はすぐに自分を切り替えた。
ねえ…西沢先生…好きな女の子のこと眠れないくらい思いつめる十四歳も…たまにゃあ居ますよ…。
桂の表現がちょっと大袈裟なだけで…ね。
私も少しばかり思い出しました…。
十四の時にめっちゃ憧れたアニメの美少女キャラってのは…本当は私の心が描いた紫苑という女の子だったのかもしれないってね…。
早いとこ眼を覚まして…仕事してくださいよ。 気にいらねぇって…ぶーたれながらでも構いませんから。
お得意さんが首長くして待ってるんですから…ね。
まるで西沢にその声が届くと信じているかのように玲人は心の中で語りかけた。
本物の人形のようになってしまった西沢を切なげに見つめながら…。
「親父…俺…坊やたちが心配だから先行くわ…。
西沢先生も一応有名人だから…取材と称して坊やたち…うるさいこと言われるかもしれないからね…。 」
急に心配になったのか…相庭にそう告げ…お大事に…と有に向かって丁寧に頭を下げてから玲人は部屋を出て行った。
玲人が行ってしまうと、相庭はそっと西沢の傍らに近付いて、度重なる点滴のせいで傷付き蒼く腫れている紫苑の腕や指に触れた。
先生…綺麗だった手がこんなに腫れちまって…。
なあに…すぐ良くなりますからね。 必ず滝川先生が助けてくれます…。
「私が御使者なんぞにならなければ…先生は…有さんの許で幸せにお暮らしだったのでしょうねぇ…。
私が有さんから先生を引き離したようなもんだ…。 」
相庭は申しわけなさそうに言った。
有は怪訝そうな顔で相庭を見た。
「絵里さんを袖にした男ってのは私です…有さん。
その方が…正しいと信じて絵里さんを突き放したのですが…結果的にあなたには…申し訳ないことをしてしまった。
当時…私には…すでに妻子が居て…二十歳になったばかりの子どもみたいな絵里さんの申し出を受けるわけにはいかなかったんです。
誇り高い方だったから…絵里さんは馬鹿にされたと思ったんでしょうな…。
まさか自殺を図るなんて…思いも寄らなかった…。 」
有が自分に対し怒りをぶつけてくるだろうと相庭は覚悟していた。
しかし…有は…一旦何かを言おうとしながらも思い止まった。
「何もなかったとは…言いません…。
もともと私は…先生のお守りだけでなく…出産とともに気分が冴えなくなってしまった絵里さんのお守りも言いつかっていましたから…。
あなたがいつか絵里さんと先生を迎えるために一生懸命努力なさっていたのは…西沢家の巌御大もご存知だったのですが…遊びたい盛りに母親になってしまったために…少々おかしくなってしまった絵里さんを放っては置けなかったのでしょう。
遊び相手になるように…とご命令で。
私には家庭があって…絵里さんに対して本気にはなれないことをご存知でした…。
断れば先生の傍に居ることもできなくなります…。
御使者としての務めが果たせなくなる…私も随分…悩みました…。 」
同じ御使者である有には相庭の困惑が目に浮かぶようだった。
結局…相庭は御使者としての務めを果たす道を選ぶより他にどうすることもできなかった。
その結果…絵里の方が本気になってしまった。
絵里が亡くなっても西沢家が絵里の自殺の原因となった相庭を責めることなく紫苑の世話を続けさせたのは、相庭の行動のすべてが西沢家の意思で行われたことだったからだ。
ここにも…遣り切れない思いをずっと抱き続けてきた男が居る。
絵里を死なせてしまったという重い十字架を背負って…どれほどの想いで紫苑を護り続けてきたのだろう。
「自殺と聞いた時には…私も生きてはいられない…と思いました。
真剣に向き合ってあげるべきだったのに…私は仕事と割り切ってしまった。
毎日どうやって死のうかと考えていました。
ですが…西沢の家にひとり遺された先生を見ると…死ねませんでした。
西沢家では先生のことを可愛がってくれてはいましたが…まるでペットのようなもので…誰ひとりとして生きる術を教えてくれるような人は居なかったのです。
勿論自分の家族のこともありました。
私には四人子どもが居ます。彼等を遺していくのも不憫でした。
何より…自殺することによって…遺された者がどれほどの重荷を背負うことになるのか…それは絵里さんに死なれた私が一番よく知っていましたから…。 」
相庭はまるで我が子を見るような眼で西沢の顔を見つめながらそっと西沢の髪を撫でた。
「我が子よりも大切に育てました。有さんの代わりに精一杯…親として子に伝えるべきことはみんな伝えたつもりです。
有さんとしては…ご不満な点もあるやもしれませんが…。
先生は…私が御使者であることは知りませんでしたが…絵里さんとのことはご存知だったようで…。
玲人に言い残してくれました…絵里さんの死は私のせいではない…と。
生きていてもいいんだよ…と…言われたような気がしました。 」
相庭は少しだけ嬉しそうに言った。
勿論…その言葉で相庭の重荷が消えるわけではない…が…肩の荷が少しだけ軽くなったように思えたのだった。
「相庭さん…あんたには感謝しているよ…。 紫苑はいい子だ…。
あんたが居なきゃ…こんなにいい子には育たなかったろう…。
あんたも俺も…嫌というほど痛い目に遭ってきたが…結構な宝物を手に入れたんじゃないかね…?
ちょっと無いぜ…こんな破天荒な息子持ってる親は…さ。
俺は生みの親…あんたは育ての親…祥さんは養いの親かな…。
誰が欠けても…今の紫苑は居ないんだ…あんた自慢していいぜ…。 」
有がそう言って涙目の顔に笑みを浮かべた。
予想外の有の好意的な態度に一瞬ぽかんとなった相庭だったが…同じように笑みを浮かべて頷いた。
有さん…さすがに…あんたは…紫苑の実の父親だ…。
本当に…そっくりだよ…その性格が…さ。
そんなことを思いながら…相庭はちょっと洟を啜った…。
次回へ
西沢のベッドの脇に付き添って夜を過ごした滝川は、う~んと背伸びをしながら立ち上がった。
朝まで締め切ってあった窓を開けて空気を入れ替えた。
まる二日このままの状態でいる…。三日目の朝を迎えても目覚める様子はない。
紫苑…おまえってやつはどこにいても何かに繋がれる運命にあるんだなぁ…。
点滴の針に貼られたテープが痛々しい西沢の腕に眼をやった。
西沢の容態は予断を許さず、点滴も栄養補給のための気休めに過ぎなかった。
腕の立つ医師ではあるが治療師ではない飯島院長は、さすがに極限まで消耗した生命エナジーを回復させる方法までは知らなかった。
それでも…普通の医師として可能な限りの手は打ってくれた。
裁きの宗主が西沢に施してくれた応急措置は、おそらく宗主自身の生命エナジーを分け与えてくれたというものだろうが、他人の生命エナジーの投与は根本的な解決にはならないらしく現状維持がやっとで回復までは望めなかった。
何とか新しいエナジーを作り出す手立てはないだろうか…。
新しいエナジーなら微量でも紫苑が自力で回復する起爆剤になるかもしれない。
和の命を救えなかったという過去が治療師滝川の深い傷となって残っている。
英武のことにしても…滝川の力を以ってすれば…本来なら有が手を出すまでもなかったのかも知れないが、滝川自身がひとりで治療にあたることを避けた。
裁きの宗主は滝川のそんな心の闇を見抜いていた。
心に迷いを抱いている時ではない…。治療師としての本来の姿を取り戻せということなのだろう…。
勿論だとも…紫苑を助けてみせる…。
自らを犠牲にして命を護ってくれた紫苑に恥じるようなことはできない…。
何としても…この手で方法を見つけ出す。
だから紫苑…もう少し頑張ってくれ…。
ドアをノックする音とともに有が登校前の亮とノエルを伴って現れた。
滝川にまだ温かい朝食の包みを渡すと西沢の顔を覗きこんだ。
「相庭と玲人があちこちの高名な治療師を訪ねてみてはくれているんだが…誰も完全にエナジーを失った者の治療を試みた者はいないそうだ…。
本来なら…とうに死んでる筈なんだからな…。 常識的に考えて…生きているのが不思議なくらいだ。」
良い治療方法を思いつかず無力感に苛まれながら有はつらそうに言った。
亮が湯に浸したタオルで西沢の顔や手をそっと拭いた。
有が愛しげに清められた我が子の額に触れ乱れた髪を整えてやった。
ノエルはそっと西沢の手を握ってみたが…反応はなく…切なくて思わずぽろっと涙をこぼした。
「新しい…エナジーを作り出す方法を…考えているんです。
それさえ可能ならきっと…。 」
滝川は有にそう打ち明けた。
新しいエナジー…その言葉に有は頷いた。確かにそれができれば…助けられる。
取っ掛かりがあれば紫苑は自ら生きるための能力を発揮するだろう。
だが…新しいエナジーを生み出したものなど聞いたことがない。
「今は…怜雄や英武が交代で自分のエナジーを少しずつ与えてくれています。
親兄弟のエナジーの方が紫苑の身体も受け入れやすいでしょうけど…有さんと亮くんのはいざという時にストックしておかなきゃ…。 」
滝川は朝食のホットドッグを頬張りながらそんなことを話した。
腕時計を見ながら有は西沢の傍からなかなか離れようとしない亮とノエルに早く出掛けるように促した。
ふたりは名残惜しげに病室を後にした。
「恭介…仕事があるんだろう? 今日は俺が付いているから行って来いよ。 」
有が勧めると恭介は…助かります…と答えた。
正直…幾つか予定が入っている。
キャンセルするにしても一度スタジオに顔を出しておかなきゃ…と思っていた。
いくつか段取りをして夕方には戻ると言い置いて滝川も病室から出掛けて行った。
西沢が仕事に出掛けて行ったすぐ後で相庭親子が見舞いにやってきた。
いやあ…もう参りました。
挨拶もそこそこに相庭はうんざりした様子で愚痴をこぼした。
何処から情報が流れたものか…西沢紫苑が原因不明の病で突如入院なんて記事が出ましてね…。
この病院…情報管理がいい加減なんじゃないですか?
夕べから問い合わせが立て続けです…。
おまけに滝川先生自身はとうに忘れていらっしゃるんでしょうが…昨日…新しい写真集が出たもので…遺作じゃないかなんて話まで飛び出して…。
遺作にならないようにしたいものだね…と有は苦笑いした。
玲人が心配そうに西沢の頬に触れた。
幼馴染…幼児期から時折…仕事先で出番を待つ紫苑の傍で過ごした。
幼い紫苑が気分良く過ごせるように遊び友達として相庭はよく玲人を同行させた。
玲人の大事なお人形さん…そんなふうに相庭は言って聞かせた。
脱走癖のある紫苑が勝手に消えてしまわないように…玲人…玲人の可愛いお人形さんが逃げ出さないように見張っていておくれ…と。
生まれ月が少しだけ早い玲人は自分がお兄ちゃんだと自負していたし、紫苑のお守りをすることは嫌ではなかった。
子犬のように転げまわって遊んで…お菓子を分け合って…悪戯もして…叱られるのも一緒だった。
紫苑が撮影用の服を着ている時には、汚すな・破るな・転ぶな…と注意を払うのも玲人の仕事だった。
紫苑…玲人の大切なお人形…護ってあげられなくて…ご免よ…。
幼馴染としての玲人が胸の中でそう呟いた。
西沢に対してはどうしても個人的な感情が先に立ってしまいそうになるのを抑えて、玲人はすぐに自分を切り替えた。
ねえ…西沢先生…好きな女の子のこと眠れないくらい思いつめる十四歳も…たまにゃあ居ますよ…。
桂の表現がちょっと大袈裟なだけで…ね。
私も少しばかり思い出しました…。
十四の時にめっちゃ憧れたアニメの美少女キャラってのは…本当は私の心が描いた紫苑という女の子だったのかもしれないってね…。
早いとこ眼を覚まして…仕事してくださいよ。 気にいらねぇって…ぶーたれながらでも構いませんから。
お得意さんが首長くして待ってるんですから…ね。
まるで西沢にその声が届くと信じているかのように玲人は心の中で語りかけた。
本物の人形のようになってしまった西沢を切なげに見つめながら…。
「親父…俺…坊やたちが心配だから先行くわ…。
西沢先生も一応有名人だから…取材と称して坊やたち…うるさいこと言われるかもしれないからね…。 」
急に心配になったのか…相庭にそう告げ…お大事に…と有に向かって丁寧に頭を下げてから玲人は部屋を出て行った。
玲人が行ってしまうと、相庭はそっと西沢の傍らに近付いて、度重なる点滴のせいで傷付き蒼く腫れている紫苑の腕や指に触れた。
先生…綺麗だった手がこんなに腫れちまって…。
なあに…すぐ良くなりますからね。 必ず滝川先生が助けてくれます…。
「私が御使者なんぞにならなければ…先生は…有さんの許で幸せにお暮らしだったのでしょうねぇ…。
私が有さんから先生を引き離したようなもんだ…。 」
相庭は申しわけなさそうに言った。
有は怪訝そうな顔で相庭を見た。
「絵里さんを袖にした男ってのは私です…有さん。
その方が…正しいと信じて絵里さんを突き放したのですが…結果的にあなたには…申し訳ないことをしてしまった。
当時…私には…すでに妻子が居て…二十歳になったばかりの子どもみたいな絵里さんの申し出を受けるわけにはいかなかったんです。
誇り高い方だったから…絵里さんは馬鹿にされたと思ったんでしょうな…。
まさか自殺を図るなんて…思いも寄らなかった…。 」
有が自分に対し怒りをぶつけてくるだろうと相庭は覚悟していた。
しかし…有は…一旦何かを言おうとしながらも思い止まった。
「何もなかったとは…言いません…。
もともと私は…先生のお守りだけでなく…出産とともに気分が冴えなくなってしまった絵里さんのお守りも言いつかっていましたから…。
あなたがいつか絵里さんと先生を迎えるために一生懸命努力なさっていたのは…西沢家の巌御大もご存知だったのですが…遊びたい盛りに母親になってしまったために…少々おかしくなってしまった絵里さんを放っては置けなかったのでしょう。
遊び相手になるように…とご命令で。
私には家庭があって…絵里さんに対して本気にはなれないことをご存知でした…。
断れば先生の傍に居ることもできなくなります…。
御使者としての務めが果たせなくなる…私も随分…悩みました…。 」
同じ御使者である有には相庭の困惑が目に浮かぶようだった。
結局…相庭は御使者としての務めを果たす道を選ぶより他にどうすることもできなかった。
その結果…絵里の方が本気になってしまった。
絵里が亡くなっても西沢家が絵里の自殺の原因となった相庭を責めることなく紫苑の世話を続けさせたのは、相庭の行動のすべてが西沢家の意思で行われたことだったからだ。
ここにも…遣り切れない思いをずっと抱き続けてきた男が居る。
絵里を死なせてしまったという重い十字架を背負って…どれほどの想いで紫苑を護り続けてきたのだろう。
「自殺と聞いた時には…私も生きてはいられない…と思いました。
真剣に向き合ってあげるべきだったのに…私は仕事と割り切ってしまった。
毎日どうやって死のうかと考えていました。
ですが…西沢の家にひとり遺された先生を見ると…死ねませんでした。
西沢家では先生のことを可愛がってくれてはいましたが…まるでペットのようなもので…誰ひとりとして生きる術を教えてくれるような人は居なかったのです。
勿論自分の家族のこともありました。
私には四人子どもが居ます。彼等を遺していくのも不憫でした。
何より…自殺することによって…遺された者がどれほどの重荷を背負うことになるのか…それは絵里さんに死なれた私が一番よく知っていましたから…。 」
相庭はまるで我が子を見るような眼で西沢の顔を見つめながらそっと西沢の髪を撫でた。
「我が子よりも大切に育てました。有さんの代わりに精一杯…親として子に伝えるべきことはみんな伝えたつもりです。
有さんとしては…ご不満な点もあるやもしれませんが…。
先生は…私が御使者であることは知りませんでしたが…絵里さんとのことはご存知だったようで…。
玲人に言い残してくれました…絵里さんの死は私のせいではない…と。
生きていてもいいんだよ…と…言われたような気がしました。 」
相庭は少しだけ嬉しそうに言った。
勿論…その言葉で相庭の重荷が消えるわけではない…が…肩の荷が少しだけ軽くなったように思えたのだった。
「相庭さん…あんたには感謝しているよ…。 紫苑はいい子だ…。
あんたが居なきゃ…こんなにいい子には育たなかったろう…。
あんたも俺も…嫌というほど痛い目に遭ってきたが…結構な宝物を手に入れたんじゃないかね…?
ちょっと無いぜ…こんな破天荒な息子持ってる親は…さ。
俺は生みの親…あんたは育ての親…祥さんは養いの親かな…。
誰が欠けても…今の紫苑は居ないんだ…あんた自慢していいぜ…。 」
有がそう言って涙目の顔に笑みを浮かべた。
予想外の有の好意的な態度に一瞬ぽかんとなった相庭だったが…同じように笑みを浮かべて頷いた。
有さん…さすがに…あんたは…紫苑の実の父親だ…。
本当に…そっくりだよ…その性格が…さ。
そんなことを思いながら…相庭はちょっと洟を啜った…。
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