菅総理大臣を見ていると、何を言いわれても考えは変えないという信念は伝わってくる。良く言えば一徹、悪く言えば頑固、意固地。我が身にも当てはまる。反省しなければならない。
何が何でも数で押し通すという、頑固だけでは済まされない政治手法が安倍前政権から続いている。国会運営も野党と協調する気は毛頭無く、そもそも開かない。
その結果、政権に「何を言っても無駄」という諦めが社会を覆い、ズルズルと間違った方向に向かっているようで不気味だ。
そんな中、思想家で武術家でもある内田樹氏が今年の1月に没後50年の三島由紀夫のドキュメンタリー映画に寄せた一文を目にした。洞察力に優れた内田氏が現状の認識といずれ世の中は変わると述べていて少しホッとした。
「政治的であること」と「非政治的であること」について、個人的な定義だと断った上で、次のようなことを書いている。
~ 「政治的」であるというのは組織に属して運動しているといった外形的な兆候をさすのではない。自分個人の生き方が国の運命とリンクしているような「気がする」ということだ。(略)世界的なパンデミックになれば、自分の健康も保ちたい。でもそれはあくまで世界の運命が自己の運命に影響を与えるという一方通行の関係にある。「政治の季節」ではこれが逆転する。(略)自分が何をしようとしまいと、世界は少しも変わらない。だから私はやりたいことをやる。そいうふうに考えることが「合理的」で「クール」で「知的」だと思ってる人のことを「非政治的」と私は呼ぶ。~
つづいて、三島由紀夫と関連付けして、
~ 「自分には余人によっては代替し得ない使命が負託されている」と感じる若者達の群れの登場に立ち会うことになるだろう。その気配を感じる。~
と結んでいる。
現代日本は「非政治的な季節」の中にいるという。権力の腐敗、COVIT-29によるパンデミックの発生が「政治の季節」を呼び込む嵐になるような気がする。
✦内田樹 Blog 『政治の季節』✦
http://blog.tatsuru.com/2020/01/29_1058.html