これは二人の指揮者の下で演奏したヴェルナー・テールヒェンというティンパニー奏者が、カラヤン存命中に書いた本である。著者は作曲家としても名を成して、来日もしている人だ。つまりベルリンフィルの一員としてではなく、個人として。(なんだか、政治家の靖国参拝みたいでおかしい。あなたが来日されたのはフィルハーモニーとしてでしょうか、一個人としてでしょうか?)
この手のタイトルの本にありがちなスキャンダルやゴシップめいた内容は皆無の、じつに立派な本だ。もちろん内部にいた人しか知らないエピソードがないわけではない。ただ、その扱い方はフルトヴェングラーなりカラヤンなりの本質を表すと著者が見做したものに限られる。それが所謂暴露本とはまったく違った性質をこの本に与えている。
じつはこの本、あるピアニストがわざわざ電話をかけてきて貸してくれというので貸したきり戻ってこない。オークションで見つけて再購入した。僕が立派な本だと力説するのを聞いて興味を持ってくれたらしいのだが。こんなことを書けば、どういう評価を僕がしているかお分かりだろう。
再購入したものも今は貸しているので記憶だけで書くけれど、例によってそれで構わないだろう。
著者は、はじめてフルトヴェングラーの指揮に奏者として接したときの記憶から書き出しているが、この部分の文体が全編を支配している。テールヒェンが記述する力量も兼ね備えた、すばらしい人物だということがすぐに見て取れる。
全編を通じて深い洞察に満ちているが、中でも一番正確かつ興味深いのは、カラヤンを行為の人と呼び、フルトヴェングラーを反応の人と呼ぶ件であろう。
カラヤンの指揮する姿は音楽好きならば一度は目にしたことがあるのではないだろうか。常に目を閉じ、動きはシンプルでゆったりとしていた。それに対してフルトヴェングラーの動作は一度目にしたら忘れられぬ、酔っ払いめいた激しい身振りで、頭は前後にガクガクと震え、ちょっと目には分かりづらい、それでも強烈な作用をもたらす、だれも真似できない、独特のものだった。
テールヒェンは二人の身振りについて一般の人の受け止め方をふまえた上で次のように言う。
フルトヴェングラーの指示は兵隊を鼓舞する将軍のように見え、カラヤンの身振りは敬虔に響きに耳を傾ける人のそれのように映ったであろうが、自分はそれと真反対な印象を持ったと。
カラヤンは行為の人であり、フルトヴェングラーは反応する人(Reakt)であったという。
分かりづらいかもしれない。
ある瞬間に響いた音が次の音を決める。そうやって音は持続していくのである。テンポを説明するとき次のような比喩を使ってみようか。
僕たちが跳ぶところを考える。右足が地面を蹴り出した瞬間を写真に撮るとしよう。次に左足が着地するのは今地面を蹴り出した右足の中にある諸条件次第である。それと無関係な距離、テンポはありえない。
チェリビダッケがどこかで書いていた。ある曲のテンポについて彼がフルトヴェングラーに尋ねたところ「それはその時の響きによる」と答えたそうだ。チェリビダッケはたちどころに演奏の真髄が分かったのだという。
上述の比喩は音楽的に言えばこのようになるのである。
テールヒェンがフルトヴェングラーを反応の人と呼ぶのはその意味においてである。彼は楽員が音を出すのを待っていると言ってもよい。楽員はもちろんフルトヴェングラーの合図を待つ。ただ、それは合図ではなかった。自分が楽曲から受けた感動を、衝撃を素直に身振りにして、楽員に共感を求める行為だと言ったほうが正確だ。
最初の音がこうして響き始めると、その響きが次の音を「規定」する。そこには計算されつくされたものはない。テールヒェンがフルトヴェングラーの指揮について「アンテナのようなものだった」と言うのも同じことなのだ。
フルトヴェングラー自身が「即興性」と呼ぶのもまったく同じことだ。即興性という言葉から、恣意的な思いつくがままの勝手な演奏を想像するのは間違いなのだ。
書き出したら何だか長くなってしまった。まだ続けようと思う。
この手のタイトルの本にありがちなスキャンダルやゴシップめいた内容は皆無の、じつに立派な本だ。もちろん内部にいた人しか知らないエピソードがないわけではない。ただ、その扱い方はフルトヴェングラーなりカラヤンなりの本質を表すと著者が見做したものに限られる。それが所謂暴露本とはまったく違った性質をこの本に与えている。
じつはこの本、あるピアニストがわざわざ電話をかけてきて貸してくれというので貸したきり戻ってこない。オークションで見つけて再購入した。僕が立派な本だと力説するのを聞いて興味を持ってくれたらしいのだが。こんなことを書けば、どういう評価を僕がしているかお分かりだろう。
再購入したものも今は貸しているので記憶だけで書くけれど、例によってそれで構わないだろう。
著者は、はじめてフルトヴェングラーの指揮に奏者として接したときの記憶から書き出しているが、この部分の文体が全編を支配している。テールヒェンが記述する力量も兼ね備えた、すばらしい人物だということがすぐに見て取れる。
全編を通じて深い洞察に満ちているが、中でも一番正確かつ興味深いのは、カラヤンを行為の人と呼び、フルトヴェングラーを反応の人と呼ぶ件であろう。
カラヤンの指揮する姿は音楽好きならば一度は目にしたことがあるのではないだろうか。常に目を閉じ、動きはシンプルでゆったりとしていた。それに対してフルトヴェングラーの動作は一度目にしたら忘れられぬ、酔っ払いめいた激しい身振りで、頭は前後にガクガクと震え、ちょっと目には分かりづらい、それでも強烈な作用をもたらす、だれも真似できない、独特のものだった。
テールヒェンは二人の身振りについて一般の人の受け止め方をふまえた上で次のように言う。
フルトヴェングラーの指示は兵隊を鼓舞する将軍のように見え、カラヤンの身振りは敬虔に響きに耳を傾ける人のそれのように映ったであろうが、自分はそれと真反対な印象を持ったと。
カラヤンは行為の人であり、フルトヴェングラーは反応する人(Reakt)であったという。
分かりづらいかもしれない。
ある瞬間に響いた音が次の音を決める。そうやって音は持続していくのである。テンポを説明するとき次のような比喩を使ってみようか。
僕たちが跳ぶところを考える。右足が地面を蹴り出した瞬間を写真に撮るとしよう。次に左足が着地するのは今地面を蹴り出した右足の中にある諸条件次第である。それと無関係な距離、テンポはありえない。
チェリビダッケがどこかで書いていた。ある曲のテンポについて彼がフルトヴェングラーに尋ねたところ「それはその時の響きによる」と答えたそうだ。チェリビダッケはたちどころに演奏の真髄が分かったのだという。
上述の比喩は音楽的に言えばこのようになるのである。
テールヒェンがフルトヴェングラーを反応の人と呼ぶのはその意味においてである。彼は楽員が音を出すのを待っていると言ってもよい。楽員はもちろんフルトヴェングラーの合図を待つ。ただ、それは合図ではなかった。自分が楽曲から受けた感動を、衝撃を素直に身振りにして、楽員に共感を求める行為だと言ったほうが正確だ。
最初の音がこうして響き始めると、その響きが次の音を「規定」する。そこには計算されつくされたものはない。テールヒェンがフルトヴェングラーの指揮について「アンテナのようなものだった」と言うのも同じことなのだ。
フルトヴェングラー自身が「即興性」と呼ぶのもまったく同じことだ。即興性という言葉から、恣意的な思いつくがままの勝手な演奏を想像するのは間違いなのだ。
書き出したら何だか長くなってしまった。まだ続けようと思う。